Music: 冬の夜

チブサン・オブサン古墳 歴史倶楽部 第168回例会 8月5日







	「チブサン古墳」の開示時間になったので、博物館見学を終了して、博物館の学芸員佐伯さんの後について車を走らせる。

	チブサン古墳	熊本県山鹿市城字西福寺 一般公開は1日2回 10:00、14:00	山鹿市立博物館にて受け付けしています。







チブサン古墳







古墳の前に小さなガイダンス施設が作ってあり、そこで佐伯さんの説明を聞く。


















	チブサン古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	チブサン古墳は、熊本県山鹿市にある装飾古墳。国の史跡に指定されている。本古墳は、山鹿市を流れる菊池川支流の岩野川右岸、
	標高約45メートルの平小城台地の東端に位置する。周辺には装飾古墳(上流に城横穴群、付城横穴群、馬塚古墳)が多く分布する
	地域である。6世紀初めの古墳時代に築造された前方後円墳である。
	後円部南に羨道をもつ、前室・後室の複数の横穴式石室を設け、石室内の石屋形(いしやかた)内壁と屋根の軒部前面に装飾文が
	描かれている。内側石の上段に白の円文7個、下段に冠をつけ両手、両足を広げた人物像とその右に三角文を白色で、その他は赤
	色で塗っている。正面の側石に三角文・菱形文を主体に正面中央に円文を描き、赤・白・青の三色で塗り分けてある。特に、中央
	に描かれている装飾の紋様が女性の乳房に似ていることから、「乳の神様」(別称)として現在に至るまで崇められている。 
	現在は県立風土記の丘の中心遺跡となっている。
	古くから開口し、出土品は不明であるが、事前調査で円筒埴輪、形象埴輪が出土している。前方部と後円部の境にやっこだこ形の
	石人が立っていた。現在、東京国立博物館に所蔵されている。

	<データ>
	所在地	:熊本県山鹿市城字西福寺1785 
	形状	:前方後円墳 
	規模	:全長約45メートル、後円部の直径23メートル、高さ7メートル、石室は羨道から奥室まで約6メートル、前室は1.9メート
		 ルの方形、後室は奥行き、幅とも3.6メートルの隅丸方形である。後室の奥壁沿いに長さ2.3メートル、奥行き0.9メート
		 ル、高さ1.4メートルの寄せ棟造りの家形石棺が置かれている。 
	築造年代:6世紀初頭 
	国の史跡指定:1922年(大正11年)10月12日 






	「6世紀前半頃に築造された前方後円墳。石屋形の奥壁に描かれた、同心円文・三角文などが赤、白、黒で描かれています。また右手
	には冠をつけ両手、両足を広げた人物像が描かれている事でも有名です。
	チブサン古墳の装飾絵画は、石屋形の内側、そして屋根の軒先にあたる部分に色を塗り分けて描かれています。絵の形には、円・同心
	円形、三角形、ひし形があり、3色を使って塗ってあります。文様の色には赤・白・青の3つがあります。赤色は朱やベンガラを使い、
	白色は白い粘土を用い、青色は青い石を砕いた粉を材料にしています。 」






	「この装飾は頭に冠をのせた人物像です。死者を安置したとき、頭の背後に当たるとされており、王として冠をかぶった死者の生前の
	姿を表したのかもしれません。」 








古墳入口は普段施錠されていて閉まっている。壁画の風化を防ぐためだろうが、内部もあまり良くは見えなかった。勿論壁画は撮影禁止。







これは合成ではありません。佐伯さんに写してもらったもの。








オブサン古墳へ向かう







	歩きながら佐伯さんと話す。「どっからきたんですか?」「大阪ですけどね、昨日来て熊本城とかを見て、今朝は江田船山古墳と装飾古墳
	館をを見てきました。」「これからどっちへ?」「この後方保田東原遺跡を見て、それから鞠智城へ行って、黒川温泉に泊まります。」
	「ウワー、すごいですねぇ。強行軍やわ。」「明日は吉野ヶ里遺跡へいくんですよ。」「エェーッ、そら欲張り過ぎやー。」「でもせっか
	く大阪から来たんやから、見れるだけ見とかんと。」「そら、そですね。」


オブサン古墳



犬を飼っていた錦織さんは、犬が通るとすぐ話し掛ける。最近老衰で死んだそうで「もう悲しいから飼わんわ。」と言っている。





「はぁーい、説明しますよ。皆さん来てくださーい。」










	オブサン古墳	 熊本県

	オブサン古墳は、今から約1500年前(古墳時代後期)に造られた。古墳の形は上から見ると丸い形をした円墳だが、内部への入り口の
	両側に突堤と呼ばれるつきだした部分があり、これがオブサン古墳の特徴の一つである。古墳の内部は、大きな石を積み上げて造った
	石室があり、その内に遺体が置かれた。昭和59・60年に行われた発掘調査では、古墳時代のお供え用の土器や、鉄のやじり、馬に
	つける飾り金具などが発見された。オブサン古墳の名前は「産(うぶ)さん」によるらしく、安産の神様として信仰されてきた。チブ
	サン古墳とともに、国の史跡に指定されている。古墳の内部は、いつでも自由に見学でき、近くには出土品のレプリカと、石室を塞い
	でいた大きな板石(閉塞石)を展示している。この閉塞石には、1877年(明治10年)におこった西南戦争の激闘での弾丸の痕が
	いくつも残っている。チブサン古墳が国指定の史跡だがオブサン古墳は県指定である。






この古墳は西南の役で本部の一つに使われたそうで、銃弾の跡が入口の大岩にも残っている。この辺りを弾が飛び交ってたんや。





内部には古代の直弧文をイメージしたフェンスがあって、そこから中へは入れない。









奥の遺体安置場所には大きな玉じゃりが敷き詰められていて、羨道の両脇には新たな遺体を安置する場所が作ってある。



石貫ナギノ横穴古墳群にもこういう追葬用のエリアを確保した横穴があったが、この古墳はその名残じゃなかろうか。




	近畿圏の古墳とは大分印象が異なる。どっちかと言えば朝鮮半島の古墳のような印象が。形状もそんな感じだし。慶州にはこういう
	古墳が一杯あった。









チブサン古墳と同じように近くにガイダンスがあって、そこでまた佐伯さんの話しを聞く。









































弾痕が残る閉塞石







佐伯さんに別れを告げて方保田東原遺跡へ向かう。佐伯さん、ありがとうございました。





邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 168回例会・チブサン・オブサン古墳