比叡山天台宗「戸津説法」に参加して 2011年8月24日 − 25日
	歴史倶楽部の皆様(CC:国分寺友の会の皆様 近衛会の皆様)

	各位

		青沼茜雲先生のつながりで、以下のように福岡県久留米市の大興寺住職「神原玄應」師が、8月21日から25日まで、
		天台宗長講会「戸津説法」を行う、との案内が来ました。特に天台宗信徒でなくても参加出来るという事で、我々夫婦
		も参加する事にしました。但し21日から5日間は無理なので、九州から来る人達と同じく、8月24日− 25日の一泊だ
		け参加します。比叡山に一泊です。
		出来るだけ多くの人に参加して欲しいとのことで、我が歴史倶楽部の皆様にもご案内します。神原玄應師は新聞記事に
		もあるように、もしかしたら将来、天台宗座主になるかもしれないお方で、父上は三千院の門跡を勤めた方です。この
		機会に、歴史倶楽部林間学校くらいのつもりで、説法三昧はいかがでしょうか。
		締め切りの連絡が今月中なので、参加ご希望の方は、7月29日金曜日までに私(筑前)までご連絡下さい。ちなみに、
		神原玄應師は青沼先生の高校時代の友人でもあり、私も2,3度お目に掛かった事があります。
												平成23年7月25日  筑前

	(訂正:大興寺 → 大興善寺。善が在ると無しでは大違い。 福岡県久留米市 → 佐賀県三養基郡基山町。神原住職は久留
		米市明善高校の出身だし、「ツツジの大興善寺」はてっきり久留米だと思い込んでいた。)

















	
	<戸津説法>	千葉県「芝山仁王尊 観音教寺」HPより

	戸津説法とは、琵琶湖畔の「戸津の浜」にある東南寺において行われる法華経についての説法のことです。天台宗の宗祖伝教大師が、ご
	両親の追福のため人々を集めて法華経を説かれた事が、その始まりと言われています。東南寺は伝教大師が建立、寺名は比叡山の東南に
	位置することに由来します。
	かつては、生源寺、観福寺、東南寺の三ヵ寺にて各十日間にわたり説法が行われておりました。明治時代以降は、8月21日から25日
	の5日間行われるようになり、天台宗にとって最も重要な行事の一つとなっております。その内容は、法華経八巻二十八品と、無量義経
	に観普賢経の開結二経についての説法です。



	<戸津説法について>	東京都調布市「深大寺」HPより

	戸津説法とは、比叡山を仰ぐ下阪本の琵琶湖畔、明智光秀ゆかりの板本城跡の一角にある東南寺で、毎年八月二十一日から二十五目まで
	行な われる法華経についての説法のことを指し、説法が東南寺で行なわれるところから「東南寺説法」とも呼ばれています。 
	戸津というのは東南寺があるあたりの古い地名で、琵琶湖畔のこの辺は三つの船着場「津」があり、北から今津、戸津、志津の三津の中
	の一つです。また比叡山から琵琶湖に注ぐ三本の川、大宮川、権現川、四ッ谷川の三つの流れを総称し三津川といいますが、かつてこの
	地域を領有していたのが伝教大師のご先祖で、そのご一族が三津の首(長)という姓をもらつていたといわれ、伝教大師の父は、三津首
	百枝(みつのおび とももえ)といいました。
	この戸津の地に伝教大師は、ご両親への報恩、追善供養のため一宇を建立しました。それは比叡山から東南の方角にあたるところから東
	南寺 といわれ、やがて大師は「江西の民衆に仏種を植えしめんがため、山僧 の学道を増進せんがため」とここでの法華経の説法が始ま
	りました。往 時には三十日間の説法が行なわれましたが、明治期より現在と同様の五日間の行事になりました。
	戸津説法とは宗祖伝教大師のお志しをつぎ、大師に代わって説法師としてお勤めすることであり、毎年一人、お大師さまのご命日に天台
	座主猊下から直接指名されるのがしきたりとなっています。千二百年の永きにわたって連綿として営なまれてきた戸津説法は、天台宗や
	比叡山延暦寺にとり、尊き、そして大事な年中行事の一つとなっています。


	●戸津説法	富山市八尾町「おわら風の盆」HPより

	最澄が琵琶湖の戸津浜で法華経を民衆に広めたことにちなみ、大津市下坂本の東南寺で 8月21日から25日まで営まれ、天台座主への登竜
	門とされます。
			説法者

	2011年  神原玄応 大興善寺住職
	2010年  清原恵光 延暦寺学問所長・弘法寺住職
	2009年  濱名徳永 観音教寺住職
	2008年  大角光徹 延暦寺長臈・厳王院住職
	2007年  稙田惠秀 霊山寺住職
	2006年  小林隆彰 延暦寺学問所長・千手院住職
	2005年  谷 玄昭 深大寺住
	2004年  山田能裕 延暦寺長臈・瑞応院住職
	2003年  藤 光賢 曼殊院門主・金乗院住職
	2002年  堀澤祖門 叡山学院院長・泰門庵住職
	2001年  菅原信海 妙法院門主
	2000年  井深観譲 滋賀院門主・法曼院住職
	1999年  大樹孝啓 圓教寺住職


	今東光	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

	今 東光(こん とうこう、1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、天台宗僧侶(法名 今 春聴)、小説家、参議院議員。新感覚派作家とし
	て出発し、出家後は住職として住んだ河内や津軽・平泉など 奥州を題材にした作品で知られる。
	作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海は弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊
	東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。1973年 11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得
	度に際しては、師僧となり「春聴」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術
	を受けるも、比叡山・東塔の再建(さいこん)、中尊寺諸堂の整備、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における
	「戸津説法」講師(こうじ)勤仕、岩手県浄法寺町の荒廃に瀕した古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、あらたな時代に向け
	ての、天台教学改革の提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。
	
	戸津説法をした今東光は、「本人も理解していないので普通に理解できないのは当たり前」と戸津説法について書いているそうである。





「戸津説法」参詣




	新大阪駅で、福岡から来た皆さんと合流して比叡山へ向かったが、途中で京都白河の「曼寿院」に寄る。住職さんが神原和尚と昵懇だ
	そうでその為コースに加えてあるらしい。ちなみに歴史倶楽部の昨年の納会でこの辺りを巡ったとき中へは入らなかったので、今日は
	内部を見れると楽しみだった。「一乗寺下がり松」近くの「八大神社」の駐車場にて、my wife。




	曼殊院	天台宗 左京区一乗寺竹之内町42  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算
	(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶
	井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の一つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文
	化財を有する。近畿三十六不動尊第十七番。

	他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃に北山
	(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは
	明暦2年(1656年)のことである。

	曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(責任者)
	を兼ねていた。通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の創建
	(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、
	一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と是算の没年である寛仁2年(1018年)
	の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性があると言えよう。















青沼先生と小柳さん。福岡ではいつもお世話になっております。






	曼寿院前でタクシーを待つみなさん。「八大神社」の駐車場から曼寿院までの往復はタクシーだった。というのも、前回(2,3日前)、
	同様に九州からの先陣を案内した際、往復歩いて貰ったら「遠い!」「疲れて歩けん」という人や不満が続出したそうで、ツアーを企画
	した旅行社が今回はタクシーを使ったのだそうだ。
	ちなみに今回のツアー会社は、何と私が大学4年の時アルバイトをした会社だった。あのときは添乗員のバイトで、福岡からバス16台
	を連ねて日光、鬼怒川まで三泊四日くらいの、おなじくどこかの宗教団体を案内しての本山詣りだった。38年振りの再会(?)に驚く。
	その話しをしたらツアー会社の添乗員達も驚いていた。勿論、当時そのツアーを担当していた人はもう会社には居ないようだった。


比叡ハイウェーを登っていく途中に見える琵琶湖。今回はここを何度上り下りした事か。





比叡山到着。延暦寺のお坊さんが案内・解説してくれる。




	延暦寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地	 滋賀県大津市坂本本町4220 
	山号	 比叡山 
	宗派	 天台宗 
	寺格	 総本山 
	本尊	 薬師如来 
	創建年	 延暦7年(788年) 
	開基	 最澄 
	別称	 比叡山、叡山 
	札所等	 新西国三十三箇所18番(横川中堂)西国薬師四十九霊場49番 東海四十九薬師特別札所 播州薬師霊場特別札所 神仏霊場150番 
	文化財	 根本中堂、金銅経箱ほか(国宝)
		 根本中堂回廊、絹本著色天台大師像ほか(重要文化財)
	世界遺産 

	延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山
	(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧侶最澄(767年 
	- 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。

	最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の
	総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言
	宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
	「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の
	堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号
	が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
	延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた 円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、
	臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行し
	ていることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界文化遺産に古
	都京都の文化財として登録されている。
	また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。

	比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神
	である大山咋神が祀られている。



参道脇には、ずらりと比叡山ゆかりの人物達の立て看板が並んでいる。

	<最澄>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767
	年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る20歳の延暦4年(786年)、奈
	良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院
	での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高の
	ものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。

	延暦7年(789年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺
	は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年( 824年)のことであった。時の桓武
	天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄
	えるようになった。
	延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(805年)、遣唐
	使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行
	満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、■然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。この
	ように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学と
	しての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。



	
	<大乗戒壇の設立>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	延暦25年( 806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒
	壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成する
	ことができるようにしようということである。
	最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧
	仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に三箇
	所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのであ
	る。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに
	籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとし
	て活動させたいと主張した。大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。



	<名僧を輩出>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はど
	ちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。
	なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園
	城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗
	争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。
	平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中
	興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基
	礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山
	を母体として独自の教えを開いていった。

	比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。

	良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。 
	源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者 
	良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖 
	法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖 
	栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖 
	慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。 
	道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖 
	親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖 
	日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖 






	上の絵図に記載されている一帯すべてが「比叡山・延暦寺」なのである。琵琶湖岸の坂本あたりに点在するお寺も全て「比叡山」なのだ。
	今回「戸津説法」が行われる東南寺も、琵琶湖畔の「戸津の浜」にある。

	<境内>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して
	「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」
	と呼ばれる子院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

	三塔十六谷二別所 
	東塔−北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷 
	西塔−東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷 
	横川−香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷 
	別所−黒谷、安楽谷 




	<武装化>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にまま
	ならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持
	ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、
	神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。
	また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延
	暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認され
	た。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一
	種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都
	北嶺と恐れられた。
	延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ
	谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担し
	た院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が延暦寺と対立した鎌倉幕
	府創設の功臣佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている
	(『吾妻鏡』ほか)。






	<大講堂(重文)>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は1956年に
	火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安
	置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。 




	<武家との確執>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡
	山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。
	永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により
	延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の
	姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后
	日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗
	院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸
	国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中
	堂に配置している。
	なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国
	状態に戻った。
	戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応
	しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。
	また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動
	を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信
	長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これによ
	り延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこと
	もあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前
	年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われ
	ている)。
	信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正に
	より江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った。




	<現代>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、大講堂と同じく重要文化財である鐘台の2つが全焼した。
	1987年(昭和62年)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、
	「比叡山宗教者サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。
	1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。



バスが荷物を運んでくれている、比叡会館目指して東塔を歩く。



写真を撮りっこしている青沼先生と小柳さん。















大書院 - 昭和天皇の即位にあわせ東京の村井吉兵衛の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。






	今日の宿「比叡会館」に到着。天台宗を母体とした宿泊施設だが天台宗以外の宗派も利用している。ここで知り会ったお坊さんの話によれ
	ば、開業以来赤字続きだそうだが、天台宗は全く援助していないとの事。総工費7億円だそうだ。その他にもこのお坊さんは色んな話しを
	してくれたのだが、ちょっと生臭いのでここでは割愛する。



高尾さんと青沼先生。高尾さんは博多ではいつもドライバーを引き受けてくれている。いつもお世話になっています。



料理は当然ながら精進料理だが、お酒はビールも日本酒も、ワインまであった。





売店をウロウロしていると比叡山のマスコット「天台ちゃん」に出会った。早速みんなで記念撮影。



上右が高尾さんの奥さん。医療関係のお仕事だそうで、学界で世界中飛び回るそうだ。お医者さんではなさそうだったが、よくわからん。





	部屋は先生、高尾さんと同室だった。高尾さんは宴会から帰るとまだ午後八時くらいだったが、即就寝。私も先生もなかなか寝付けなかっ
	た。
	丑三つ時の午前二時頃目が覚めて、寝付けないので付近の散歩に行こうとしたら青沼先生も起き出して、一緒に行こうと仰るので、二人で
	夜の比叡山の散策に出た。幾つか出ている星を見ていると、先生が「あ、あそこらへんに何か灯りが。」と仰るが私には見えない。「あ、
	あそこにも。」
	信長の比叡山焼き討ちでは何千人という僧兵達が殺されているので、もし霊魂が漂っているとしたら、ここらへんは魂のラッシュアワーの
	はずである。私には全く何も感じられない。この感性の違いが芸術家と凡人の違いなのかなと思ったりした。



翌朝目覚めて、朝食前に「朝のお勤め」に参加するため根本中堂へ行く。朝霧が近辺を覆い、厳粛な雰囲気が漂っていた。




	<東塔> 延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。

	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で
	最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修
	行しなければならない。常行堂で行なう修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許さ
	れるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂
	で行なわれる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。

	十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得
	られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色
	の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。早い者で1〜2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。




	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<千日回峰行>

	千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。
	行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。
	頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峰行は七年間にわたる行で
	ある。
	無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均
	6時間で巡拝する。
	700日目の回峰を終えた日から「堂入り」が行なわれる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ九日間(丸七日半
	ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥(「臥」とは、横たわること)の行に入る。堂入り中は、明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は
	不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。
	堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨(だいあじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。
	これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入り、これまでの行程に京都の赤山禅院へ
	の往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比
	叡山中30キロの行程に戻り、千日を満行する。この行を終えた行者は延暦寺の記録では47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、
	その中には現存の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる。
	なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への参内が許される。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ
	土足のまま参内できる(土足参内)。




	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	<根本中堂(国宝)>

	最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。
	1954年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣
	は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師
	如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。
	本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺
	に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神
	器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。 













根本中堂での朝のお勤めが済んでwifeと。お勤めは、根本中堂の中で大勢の僧侶達による長い長いお経と、済んでからの感謝のお祈り。










	上の写真は福岡から同行してきた「中外日報社」の河合さん。私が中外日報を知っていたので驚いていた。いつか大仏師の渡辺勢山さんご
	夫妻と、東京のコマツさんと蹴上で会食した時、同席されていてカメラマンを引き受けてくれたのが中外日報社の高橋さんだった。当然、
	河合さんも高橋さんを知っていて、私がその話しをすると驚いていた。「世間は狭いですねぇ。」「全くです。」





さぁ、今日は神原和尚の説法を聞く日だ。東南寺へ行くため、一端比叡山を下りまた戻ってくる。



天台ちゃんがお見送り



琵琶湖を眺めながら今度は比叡山をおりてゆく。




琵琶湖畔・大津市下坂本の東南寺での「戸津説法」



東南寺に到着。
	
	案内板によると「延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津ケ浜にあったので東南寺という。寛永15年、高島郡今津に
	あった一堂を当地に移したので一名を今津堂ともいう。ここは伝教大師の法華経説法の場であったので、今も毎年8月、延暦寺の高僧によ
	る有名な「戸津説法」が続けられている。下阪本学区まちづくり推進協議会 」とある。この地は坂本城の2ノ丸跡とされ、境内には坂本
	城が落城する際戦死した供養塔(首塚)がある。「戸津説法」とは、平たく言えば「法華経」を民衆のために分り易く説法するもので、天
	台宗の坐主になるために欠くことのできない通過儀礼である。



	
	東南寺は伝教大師が延暦年間(782〜806)に創建した寺で、比叡山の東南にあるからその名になったといわれる。元亀の兵火で全焼し、寛
	永15年(1638)に今津町にあった堂舎を移して今津堂と呼んだ。それが今の東南寺である。
	戸塚説法は、毎年8月21日から5日間行われる。この説法は、伝教大師最澄が両親の追善をし、民衆に法華経を説法したことに由来する。毎
	年行われる。説法師は延暦寺の重要な法儀を終了した僧侶があたり、天台宗の僧にとっては天台座主になるために欠かせない通過儀礼であ
	る。故今東光師も昭和50年(1975)8月21日から5日間説法された。その時の講話は「毒舌・仏教入門・集英社文庫」におさめられている。



	
	熱心に「戸津説法」 天台宗高僧、きょう結経 大津の東南寺 2011.8.25 02:16 MSN産経NEWS

	天台宗の高僧が法華経の教義を1日1時間、5日間にわたって信徒らに説く恒例の「戸津(とづ)説法」が、大津市下阪本の東南寺で行わ
	れている。毎年、全国各地の天台宗の高僧が説法師を務めており、今年は佐賀県基山町にある大興善寺の神原玄應(かみはら・げんのう)
	住職が連日、約250人の信徒らを前に熱心に説法。24日は約7万字の法華経全八巻を終え最終日の25日は結経を迎える。

	天台宗開祖の最澄が両親の供養のために東南寺で説法を始めたのが最初とされる。過去には複数の寺院で行われていたが、16世紀から東
	南寺で10日間、明治以降に5日間になった。戸津説法で説法師をした僧侶の中から天台座主が選ばれることから「天台座主の登竜門」と
	もいわれている。
	神原住職は「説法の中で1つでも心に残る話があれば仏様も幸せ。今後も寺に参り、仏様とのご縁をつくってください」と呼び掛けた。





金だらいの中には鯉か鮒だかの魚が入っていて、どうやら戸津が浜での漁業による魚の供養のようだった。











	
	東南寺の北東約250m、国道161号の西側、村田製材所事務所横に明智塚がある。木造の鳥居と2つの石灯籠が建つ小さな塚である。ここは、
	古い小字名を「城」といわれ、明智光秀が築いた坂本城の城内と推定されるところ。
	この塚の由来については、いろいろな伝承が残っている。たとえば、光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀
	を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」(ごうのよしひろ)の脇差を落城に際して娘婿の左馬之介秀満が埋め
	たところである、とか、また、左馬之介秀満の首を埋めたもの、とか、明智一族の墓所であるとか、などなど。
	光秀は、「本能寺の変」で信長・信忠親子を討ったが、「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ、坂本へ逃げる途中、京都の小栗栖で土民に殺さ
	れたといわれている。(そこにも「明智塚」がある。)
	それを知った光秀の娘婿、明智左馬之介秀満は安土城から坂本城に入ったが、すでに秀吉軍が大津を押さえ、坂本城を完全に包囲した。秀
	満は、光秀の妻や娘と自らの妻を手にかけ、天主に運び込んだ火薬に火を付け、坂本城と運命をともにした。この塚は明智一族の悲運もあ
	ってか、さわるとたたりがあると言われ、壊されることもなく現在に至っている。毎年、光秀の命日の翌日、坂本城落日の6月15日に、
	所有されている方の手でねんごろな法要が行われている。



	
	また比叡山へ戻り、神原大僧正による「戸津説法終了感謝の膳」に参加した。前回の人達はこの後琵琶湖見学とかへ行ったそうだが、我々
	は最終日に参加だったので、見学は止めてこの宴席に招待されたのだ。総勢200人以上の大宴会だった。



全国から来た天台宗の僧侶さん達も三分の一位を占めていた。後は天台宗宗徒や我々のような一般人。





上中央が神原大僧正。左はいまの天台宗座主猊下(ざすげいか)。



天台宗の重職にあるお坊さん達が、説法終了の所感とご挨拶。











精進料理とはいえ、結構食べがいのある料理だった。刺身や天ぷらや肉鍋も全部野菜である。上手いこと作るもんだ。















延暦寺会館を後にする。ここから新幹線で新大阪へ向井、そこで我々は福岡組の人達とお別れだ。



車中からまたまた琵琶湖を眺める。鬱蒼とした木々の間から時折湖面が見える。



上の写真はクリックすれば大画面になります。

	
	戸津説法 終了の記	つつじ寺ブログ(佐賀県の大興善寺住職によるブログです。)より

	8月21日から25日まで、延暦寺恒例の戸津説法に説法師として勤仕させていただき、無事、任を果たしました。
	25日、説法終了後、延暦寺書院にて、座主猊下より勤仕畢の証を受け、浄土院内陣にて報恩の観音経読誦をさせていただくという名誉
	に預りました。連日、200 名を越える聴聞者を迎え、日程に従って、法華経のお話をさせていただきましたが、例年になく、当初は涼
	しい中での説法となりました。
	初日は、たいそう緊張しましたが、ご聴聞の皆様に励まされて、なんとか任を全うできたこと、すべて仏天のご加護の賜物と感謝申し
	上げます。




長岡京跡・東土川遺跡

途中、トイレ休憩に寄った桂川SAに、長岡京跡の遺跡があった。高速道路の工事中に発見されたのだろう。長岡京も結構広かったんだ。









	
	東土川遺跡では、石剣5本と石鏃10本の矢を受けた弥生人骨が出土している。東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる数本の磨製
	石剣は、刺した相手の出所を、さらに細かくしぼりこめる資料である。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られ
	るからである。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。











	
	天台宗の説法てどんなんやろ、という単なる興味本位と、半分青沼先生への義理で参加した説法だったが結構面白かった。説法の内容は
	法華経の重要度話と、神原僧正の生い立ちでそれなりだったが、天台宗という組織の概要がなかなか面白かった。神原和尚は「私も70
	を過ぎましたがいまから勉強です。」と仰っていたのにはビックリ。普通人は人生におさらばする歳なのに、今から勉強とは。この戸津
	説法で説法師を勤める事で、天台宗座主への登竜門となるのだから当然と言えば当然だが、ここから座主へはまだ5段階くらいあるそう
	で、それも上位にいる僧がお亡くなりにならないと、なかなか上にあがれないらしい。出世を願うとは、人の死を願うことでもあるのだ。
	これは「仏の道」とどう両立するのだろうかと思ってしまう。坊さんの世界も大変や。
	神原和尚にはそういう野望はなさそうで、「九州の片田舎から来た私なんかが戸津説法師を勤めさせて貰って、生涯の誇りです。」と仰
	っていた。
	青沼先生、小柳さん、高尾さん、奥様、お世話になりました。またお目に掛かりましょう。
	

	文中、「比叡会館」とあるのは、「延暦寺会館」の間違いです。お詫びして訂正します。ちなみに「比叡会館」などありません。
	(2011.10.31)


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