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2011年納会・幕末の京都をゆく 明智塚から三条へ 2011.12.25






知恩院方面へ戻り、知恩院の手前で右へ折れると華頂短大の前へ来る。ここを過ぎて知恩院の門を
抜けると白川の流れにブチあたる。白川沿いに華頂短大の寮などもあって、女子大生の姿が多い。



白川沿いに北上して三条通を目指す。三条通の手前に「明智塚」がある。





和菓子屋・餅寅さん。この先を右に折れる。




	<明智光秀塚>

	国武将・明智光秀は、天正10年(1582)6月2日、主君である織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後、6月13日、
	山崎合戦で秀吉軍に破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖付近で土民に襲われ生涯を閉じる。白川橋を南に下がった
	東側、和菓子屋・餅寅さんの横に「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の銘が入った石碑が建っている。




	その路地の奥に、光秀の木像と位牌を祀った小祠を中心に、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀
	の戒名)と刻まれた石碑がある。かつてはこの祠の中に、光秀の遺品と遺骨が納められていたと伝えられている。「長存寺殿明窓玄智
	大禅定門」の石碑は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立されたもの。光秀の木像は厨子の中に納められていて見ること
	はできない。餅寅さんでは、「光秀饅頭」という銘菓を売っている。光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではない。『京都坊目
	誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋めら
	れ塚が築かれた。後世、光秀の子孫と名のる明田氏が、その塚にあった石塔を自宅(現在地の東)へ移して祀ったのがはじまりという。
	明治維新後、現在地に移され、今も大切に祀られている。

	 



















	実はこの明智塚の手前にあるマンションは、学生専用のマンションである。私が前の会社(某●TT系)に入社したとき、研修を兼ね
	て半年、企業のINTERNET回線を引く部署に回されて、神戸・大阪・奈良・京都の企業マンションや病院に回線を引いて廻った。勿論、
	まだ建設中の時に回線を引くので、建設業者さん達と調整しながらひいてゆくのだが、ここも業者さんを引き連れて、internet回線を
	引きに来たのだ。もう5,6年前だが、その時は良い勉強になった。実際にビルやマンションにどうやって回線を引いていくのか、●
	TT入社前は全部業者任せだったので、現場の実際を勉強できてその時は楽しかった。一度奈良の病院では、電信柱が無くて、地下の土
	管の中を通したことがある。あれからもう6年もなるのかぁ。





三条通に出た。上は白川橋から見た白川下流(祇園方面)。




	京阪三条駅そばにある「高山彦九郎」像。狂信的な尊皇家であった彦九郎は、京都へ入る時この場所で必ずひざまづき、御所方面を向
	いて遙拝したそうである。その故事でここに像が立っている。伊藤五百亀 作 。上州新田郡の「木枯紋次郎」と同じ生地である。




	高山彦九郎	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇
	思想家である。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。 妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と
	共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。
	上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。先祖は平姓秩父氏族である高山
	氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時
	に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など
	多くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとするが果たせずにいる。京では岩倉具選(岩倉具視の祖父)宅に寄留し、奇瑞の亀を
	献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った次の歌は、愛国百人一首にもとられており、名高い。

	我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ 

	尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。1791年(寛政3年)には九州
	各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛
	政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。
	森嘉膳の日記によれば、最後の彦九郎は殆ど狂気に近かったという。迫り来る幕吏の恐怖と、周囲に及ぼす影響と迷惑に耐えかねて自刃
	を選んだものと思われる。墓は現久留米市の森嘉膳宅の近くにある。
	
	多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳や楠木
	正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。
	ちなみに吉田松陰の「松蔭」とは、高山彦九郎の戒名から、松蔭自身が選んでつけたもの。松蔭の元々の名は「寅次郎」である。毛利藩
	主である毛利敬親は松蔭を「寅、寅」と呼んでいた。
	
	京都府京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。初代は1928年に作られ、法
	華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、東郷平八郎が台座の揮毫をした。しかし、1944年11月に金属回収令で供出され、現在の銅像は
	1961年に伊藤五百亀によって再建されたものである。2代目は若干西に移動し、初代の台座跡には「高山彦九郎先生銅像趾跡記念碑」が
	建てられている。












	皆さんが見ている「高札場の跡」には、私が大阪へ来た時には「近江屋」という旅館が建っていた。(龍馬が暗殺された近江屋ではない。)
	入社1年目の冬に、博多から訪ねてきた結婚前のwifeと、一晩ここに泊まった事がある。あまりに若い二人なので、仲居さんがしきりに
	いぶかっていた。駈け落ち者と思われたのかもしれない。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 172回例会・2011年納会・幕末の京都をゆく