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2011年納会・幕末の京都をゆく 崇泰院・花園天皇陵・青蓮院 2011.12.25



	<蓮如上人御誕生地> 崇泰院

	蓮如(1415〜99)は本願寺8代門主で,前門主存如の長男として大谷廟堂の地崇泰院あたりに誕生した。6歳で生母に死別,17歳で得度し
	父に家学を学ぶが,多くは独学した。寛正6(1465)年,比叡山衆徒に大谷本願寺を破壊された後,北陸で布教。門徒を講に組織して教化
	活動を拡大した。文明13(1481)年山科に本願寺を再建。大坂石山に隠居するが,山科本願寺で没した。ここの石標は蓮如の誕生地を示
	すものである。  






















	<花園天皇十楽院上陵>

	花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位した。諱(いみな)は富仁、幼少時から健康
	に恵まれず、専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努めた。極めて才知があり、歴代天皇の中でもその学識や読書量は並はずれていた。
	しかし、12才から22才までの10年間の在位中にその才能を十分に生かす機会はなかった。実権は父の伏見上皇にあったからだ。
	在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となった。時あたかも皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の
	時代で、帝は殆ど政務に関与せず、ひたすら学芸に精進した。 39才で天台の円観慧鎮僧都について剃髪得度(出家)、法名を遍行と
	称し花園法皇といわれるようになった。貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じ、正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としてい
	る。花園天皇には、22年間の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」があり、法皇の人柄をしのぶことができる。 







日曜は閉門で御陵までは行けなかった。私は以前に訪問したので、詳細は「天皇陵めぐり」を参照して下さい。






	<青蓮院>

	青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院
	のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務
	め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の1つ
	「青不動」のある寺としても知られる。三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房(小寺院)がその起源とされてい
	る。
	青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時であ
	る。久安6年(1150年)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺
	し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。山下へ移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあった
	が、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に高台の現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵は
	「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と称されている。








	花園陵の真ん前にあるこのマンションを、建設前に購入検討したのだが、ヤクザがらみという噂だったので止めにした。ま、発売時に
	は億ションだったからどうせ買えなかったんだけどね。静かな良い場所に立っている。





邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 172回例会・2011年納会・幕末の京都をゆく