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2011年納会・幕末の京都をゆく 京都霊山護国神社 2011.12.25








霊山歴史館を出るとすぐ目の前が霊山護国神社の入口である。


 	<京都霊山護国神社>

	1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・
	東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩
	が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持
	つ。祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、誕生日であり命日でもある11月15日に
	は、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる(誕生日・命日は本来は旧暦11月15日だが、祭は新暦11月15日に行われる)。



















見えている石段を登っていくと、志士たちの墓がひしめいている。登ってすぐの所に坂本龍馬と中岡慎太郎の墓がある。



ここは護国神社だから、戦争で逝った多くの英霊を称えて、かっての戦友達が沢山の顕彰碑を建てている。



龍馬の墓の前から見る京都市街






	<坂元龍馬の墓>

	龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、高杉晋作、宮部鼎蔵ら幕末勤王の
	志士1,356柱、明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られている。












	「ハイここでクイズです。今、手で隠しているところにこの字を書いた総理大臣経験者の名前があります。さて誰でしょう?」
	{ヒントは?」「長州出身です。」「吉田茂!」「ハイ正解!」「え、吉田茂て長州出身なん?」
	「じゃあ、先輩か」「いや龍馬は土佐やし。」「あ、そやね。」
	








上下は池田屋事件の犠牲者である。肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)は池田屋で果てた。この後、そこで我々は呑む予定なのだが。









ここには「禁門の変」での犠牲者を祀ってある。














	【幕末から学ぶ現在(いま)】 (153)東大教授・山内昌之 木戸孝允(上) 2012.3.15 07:11 (1/4ページ)Sankei.web

	「維新の大スター」の柔構造

	 長州藩の木戸孝允は、幕末の尊皇攘夷(じょうい)運動から開国を経て明治維新を成功させるプロセスで、薩摩藩の西郷隆盛や大久保
	利通と並んで持続的に大きな役割を果たした。桂小五郎と名乗った幕末の変動期から各藩はもとより庶民にも知られた大スターでもある。
	押しも押されもせぬ名役者でありながら、新政府成立以後の木戸はどことなく影が薄いところもある。
	 何故であろうか。この謎を解くには、明治新政府の構造や性格を理解しなくてはならない。

	 明治維新という近代革命を、国家目標、合従連衡(がっしょうれんこう)、指導者の3側面を手がかりに「柔構造」として説明したの
	は、坂野潤治氏と大野健一氏の共著『明治維新 1858〜1881』(講談社現代新書)である。かりそめに、この3側面を援用して
	説明すれば、木戸はこのいずれにおいても重要な役割を演じただけでない。まず平穏な死を迎えた点でも、自決や暗殺といった非業の最
	期を遂げた西郷や大久保とは異なっているのだ。

	憲法制定と議会開設推進

	 変革期における国家目標は、「公議輿論(よろん)」の上院下院の二院制構想という封建議会論から出発した。この考えを近代的な憲
	法制定と議会開設への推進に発展させたのは、新政府に入った木戸孝允であった。




	2012.3.15 07:11 (2/4ページ)

	 また、いくつかのグループの合従連衡から新政府の統治構造をとらえようとする坂野・大野両氏の試みも説得的である。すなわち、幕
	末の公議輿論と富国強兵の2目標は変容と発展を遂げて、明治初期には内治優先の殖産興業を重視する大久保利通の開発派、海外雄飛と
	富国強兵にこだわる西郷隆盛の外征派、公議輿論と海外雄飛も否定せず議会設立を目指した板垣退助の議会派などに分かれた。そして、
	憲法制定を目指し内治優先と公議輿論を尊重した憲法派のトップにいたのが木戸孝允だったというのだ。
	 もっとも木戸は、憲法派の頭目だったにせよ、それにこだわって他派と角をつき合わせることもなく、むしろ異質の個性をもつリーダ
	ーたちと提携するなり牽制(けんせい)するなりして、長期的には国家全体としての目標達成に寄与したのである。こうした柔らかい対
	立や妥協を含む連携関係は、幕末以来の外交周旋や政治同盟などを経験した実績があったからだ。

	大転換モーメントに存在

	 そして、薩摩・一橋・会津に対抗した長州藩の孤立、薩長連合による倒幕大同盟の成立といった大転換のモーメントには必ず木戸がい
	たのである。
	 木戸は何も憲法制定を最初から目指していたわけではない。むしろ、最初はテロと狂気のエネルギーをどこよりも発散させた幕末長州
	藩の外交責任者として、西郷や大久保を上回るほどの急進的政治家としての印象が強いほどなのだ。




	2012.3.15 07:11 (3/4ページ)

	 しかし、木戸も西郷や大久保と同じように「指導者自身の可変性と多義性に関わる柔構造」と2人の学者が呼ぶ特質を帯びていた。
	木戸も、異なる目的の間を互いに乗り入れ乗り越えた点ですこぶる現実的な政治家でもあり、1つの目標だけにこだわる単細胞的なリー
	ダーではなかったのである。

	長州藩のまとまり担う

	 それにしても、薩摩藩が西郷の外征派と大久保の開発派に分裂して全体のまとまりを失っていくのに反して、長州藩が憲法派ともいう
	べき集団として力を温存し分裂しなかったのは、何といっても木戸のリーダーシップに負うところが大きかった。そして、木戸が幕末に
	長州藩を代表して腕を存分にふるえたのは、彼が藩主の近辺に伺候(しこう)でき、政務座という藩庁にも勤務できる大組(おおぐみ)
	という身分に家禄150石の桂家が属していた点とも無縁でない。

	 周布政之助(すふ・まさのすけ)、高杉晋作、椋梨藤太(むくなし・とうた)など幕末長州を動かす人物と同じ階級の出身であり、人
	脈や“引き”の点で始めからリーダーとなる基礎条件に恵まれていたのだ。この点は、薩摩でいえば小松帯刀の方に近く、西郷や大久保
	のような下級武士とは違っていた。この2人と木戸のソリが必ずしも合わなかったのは偶然ではない。リーダーの形成にも生まれや育ち
	の違いが反映するということだろう。(やまうち まさゆき)




	2012.3.15 07:11 (4/4ページ)
                   ◇

	【プロフィル】木戸孝允

	 きど・たかよし 別名、桂小五郎。天保4(1833)年、長州(山口県)生まれ。吉田松陰に学び、江戸で剣術や洋学を修める。
	藩政で頭角を現し、藩論を倒幕に導く。慶応2(1866)年には薩長同盟を締結。維新後は新政府の重鎮として参議、文部卿などを歴
	任。廃藩置県など多くの重要政策を推進した。西南戦争中の明治10(1877)年、病没。





上下は、一昨年NHKで「龍馬伝」をやっていた時、ここに貼ってあったポスター。PCの写真ストック・フォルダーにあった。



























石段の登り口に、全山の「墓碑マップ」がある。下をクリックしてもらえばその拡大が見れます。







護国神社から見た霊山歴史館









梅田雲濱(うめだうんぴん)は、井伊直弼の「安政の大獄」の「逮捕者第一号」である。貧乏な詩を書いて金持ちになった。獄死。





















護国神社を下ってきた所の左側に、日本画家・竹内栖鳳の旧宅があった。

	竹内栖鳳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日(1864年12月20日) - 1942年(昭和17年)8月23日)は、戦前の日本画家。近代
	日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。本名は恒吉。
	最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。

	京都に生まれる。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として
	知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華
	香、谷口香?、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになる。
	1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立する。同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。
	1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆく。また1900年(明治33年)、36歳の時
	には、7ヶ月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。
	1913年(大正2年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。昭和に入っての戦時
	下では軍部に協力の姿勢をとっていたが、敗戦前の78歳で死去した。評論家の竹内逸は息子。

	その画風は四条派を基礎としているが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日
	本画の革新運動の一翼を担った。時として守旧派からは「鵺派」と呼ばれて揶揄されたが、大画面を破綻なくまとめる確実な技量の
	みならず、その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。
	また弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。上村松園や西山翠嶂をはじめ、西村五雲、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨、
	橋本関雪ら名だたる俊英を多数輩出している。

	


	<主な作品>

	
	『班猫(はんびょう)』 1924年(大正13年)(山種美術館)(重要文化財)

	栖鳳が沼津に滞在していた際、八百屋の店先で猫を見て「そうだ、猫を書こう」と思い立ったという。そして八百屋のおかみと交渉
	して猫を譲り受け、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げた。


	『大獅子図』 1902年(明治35年) (藤田美術館) 
	『羅馬之図』 1903年(明治36年) (海の見える杜美術館) 
	『雨霽』   1907年(明治40年) (東京国立近代美術館) 
	『アレ夕立に』 1909年(明治42年) (高島屋史料館) 
	『絵になる最初』 1913年(大正2年) (京都市美術館) 
	『群鵜』 1913年(大正2年) (霞中庵 竹内栖鳳記念館) 
	『班猫』 1924年(大正13年) (山種美術館)(重要文化財) 
	  通常、猫の体のまだら模様を意味する場合は「斑猫」と書くが、栖鳳自身による箱書きに従い「班猫」とされている。 
	『平家驚禽声逃亡』 (東京国立博物館) 
	『秋興』 1927年(昭和2年) (京都国立近代美術館) 
	『薫風稚雀・寒汀白鷺』 1928年(昭和3年) (三の丸尚蔵館) 

	<主要な弟子>

	上村松園 
	小野竹喬 
	土田麦僊 
	池田遙邨 
	西村五雲 
	橋本菱華 
	橋本関雪 
	西山翠嶂 
	三木翠山 
	山下摩起
 



	<霊山観音>

	霊山観音(りょうぜんかんのん)は京都市東山区にある観音像で、第二次世界大戦の戦没者および戦争の犠牲者を追悼するため、1955
	年、帝産グループ創設者、石川博資によって建立された。高さ24m、重さは約500t、鉄骨コンクリート造。運営は宗教法人霊山観音教会
	が行っている。観音像の下には内陣があり本尊の十一面観音が祀られている。メモリアルホールには世界無名戦士の碑があり日に4回の
	法要が営まれている。



まだまだ紅葉が元気だ。12月も終わりだというのに、ホントに変な気候である。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 172回例会・2011年納会・幕末の京都をゆく