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2011年納会・幕末の京都をゆく 産寧坂から霊山歴史館へ 2011.12.25







	清水への参詣道を登ると途中に「大悲山西光寺」という大きな石柱が立っていた。六波羅蜜寺の解説に、

	「六波羅蜜寺の解説は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基は空也。西国三十
	三箇所第17番札所。踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也が平安時代中期の天暦5年( 951年)に造立した十一面観音を本尊と
	する道場に由来し、当初西光寺と称した。」

	とあったのをご記憶だろうか。ここは西光寺である。ここが元々の六波羅蜜寺だったのかな、と下の石碑を読んでみるがどうもよく判
	らない。「空也上人飛天(?)土碑」と書いてあるような気がするが、違う字かも知れない。古文をもっとしっかりやっておけば良か
	ったと思うのはこういう時だ。誰か何と書いてあるのか教えてくれませんか?
	 





	わたしがこのHPを製作してUPLOADし、皆様にお知らせしたのが下の日時である。

	172回例会 投稿者:筑前  投稿日:2012年 1月17日(火)20時50分15秒 

	すると翌日、ほぼ24時間後に「邪馬台国大研究」の掲示板に以下の投稿があった。皆さん見てくれているのですねぇ。
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	業務連絡>筑前様 投稿者:うふふおっさん  投稿日:2012年 1月18日(水)21時43分5秒   

	お話中のところ割り込みすみません。

	筑前様、HPの碑の件、「空也上人遊行之碑」と思われます。
	http://www.kodaimoji.com/dictionary/-go.html で見ると、「行」の字ですね。

	http://www.kodaimoji.com/dictionary/-sky.html
	↑「天」ですので...

	以上業務連絡でした...  
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	有難や。有難や。



	空也	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	空也(くうや[「こうや」とも称される。])は、平安時代中期の僧。天台宗空也派において祖と仰がれる。阿弥陀聖(あみだひじり)、
	市聖(いちのひじり)、市上人と称される。民間における浄土教の先駆者と評価される。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空
	也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、
	鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた。有名な興願僧都宛消息文に、空也の言葉と伝えるエピソードの引用がみえる(一遍思想と評
	価参照)。また『一遍聖絵』には、空也の遺跡とされる平安京東市の故地(現在の西本願寺付近)を訪れ、大々的に踊念仏を催した様
	が描かれている。岩波文庫(大橋俊雄校注、2000年)や、『一遍上人全集 一遍聖絵 他』(春秋社、2001年)を参照。 

	<天台宗空也派>

	京都市中京区の空也堂極楽院を中心とする一派が天台宗空也派と称されるが、独立した宗派、あるいは天台宗内で公認された流派では
	ない。歴史上も、空也の法統を直接伝える宗派が組織されたことはない。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の
	活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する。空也自身の宗派系統については本文参照。 

	後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』(くうやるい)[4]や、慶滋保胤の『日本往生極
	楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。
	没年の記録から逆算して903年頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂される
	が、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。922年頃、尾張国の国分寺(尾張国分寺)にて出家し、空也と名乗る。
	若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤を問わ
	ず幅広い帰依者を得る。
	938年、京都で念仏を勧める。948年、比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。(ただし、空也は生涯
	超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。)。
	950年より金字大般若経書写を行う。951年、十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、
	六波羅蜜寺に現存)。963年、鴨川の岸にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。これらを通して藤原実頼、藤原師氏ら貴族と
	の関係も深める。972年、東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。

	空也上人像空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)
	所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。
	彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ
	履きで歩く姿を表す6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は
	「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような
	造形・図像をとる。



寒椿がなかなか綺麗



産寧坂



清水への道を途中から左へ折れて産寧坂(三年坂)を降る。霊山への近道である。







「富士には月見草が良く似合う」と言ったのは太宰治だったっけ。「京都には和服のお姉ちゃんが良く似合う」とは筑前様のお言葉。



どう見てもおっさんは似合わんよねぇ。













龍馬の墓を目指して歩くと左側に白いマンションが見えている。





霊山歴史館の手前で「正法寺」という寺の山門が見えたので、入口でポスターを貼っていたおじさんに断って山門横で昼食にする。









上左が霊山歴史館である。正法寺を出てすぐのところ。霊山護国神社は正面。



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