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2011年納会・幕末の京都をゆく 六道珍皇寺 2011.12.25







	<六道珍皇寺>  東山区東大路通松原西入小松町

	六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師
	如来。8月7-10日の六道詣り、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展等の特別公開時を除き非公開)で知られる。通称六道さん。
	この付近が「六道の辻」であるとされる。京都「魔界名所」の一つ。
	この寺の創建については諸説あって不詳であるが、東寺の文書によれば承和年間(834年〜848年)山代淡海が創建したという。鎌倉時
	代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺して再興、臨済宗に改められた。明治に入り一時建仁寺に併合され
	た時期もあったが、1910年(明治43年)独立した。

	毎年8月15日の盂蘭盆(うらぼん)では、先祖の精霊(しょうりょう)を迎えて供養が行われるが、京都ではその少し前の8月7日から
	10日の間に精霊を迎えるため、珍皇寺などに参詣する精霊迎え(六道詣り)が行われる。西本さん一家もそれにここへ来るようだ。こ
	の間珍皇寺は、水塔婆を納め、迎え鐘をつき、高野槙の葉を求めて精霊迎えする人で賑わうという。迎え鐘とは境内にある銅鐘のこと
	で、その音が冥土にまで届き、亡き人がこの響きに応じてこの世に呼び寄せられると信じられた。また、精霊は槙(まき)の葉に乗って
	冥土(めいど)から家に戻ってくるとされるため、これを持ち帰り、13日には仏壇に供える。




	<小野篁卿旧跡>

	平安前期の貴族小野篁(802〜52)は博識多才をもって知られる人物だが、奇行が多くさまざまな伝説の持ち主である。死後、閻魔
	庁(えんまのちょう)に仕え、その亡霊が珍皇寺門前の六道の辻から冥府(めいふ)に通ったという伝説が生じた。この伝説に基づ
	き「小野篁卿旧跡」の石標が珍皇寺前に建てられている。

	<六道の辻>

	六道とは、仏語で衆生(しゅじょう)が生前の業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち,地獄・餓鬼・畜生・阿修羅
	(あしゅら)・人間界・天上界のことである。
	六道の辻は,六道へ通じる道の分かれる所の意で、一般的に珍皇寺門前のT字路をさす。小野篁が冥府との往復を果たしたという
	伝説から、この辺りが冥界への入口「六道の辻」と称された。珍皇寺内と西福寺前に六道の辻を示す石標が建てられている。
	西福寺は、空海が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自作の土仏地蔵尊(六道の地蔵尊)を祀ったことに始まると伝
	えられている。








	<珍皇寺>

	臨済宗建仁寺派。本尊は伝教大師(最澄)作と伝える薬師如来。創建については、(1)承和3(836)年,山代淡海(やましろのおうみ)
	開基、(2)空海の師大安寺慶俊による創建、(3)鳥部(とりべ)氏の建立など諸説ある。所領は鳥部郷(とりべごう)・八坂郷(やさか
	ごう)・錦部郷(にしごりごう)の三郷にわたり、10世紀末ごろには,近隣の大寺社としばしば境界相論を起こしていた。珍皇寺は
	元来、東寺(とうじ)の末寺だったが、貞治3(1364)年東寺から離れ建仁寺(けんにんじ)塔頭(たっちゅう)大昌院(だいしょういん)
	の末寺となり、のち合併された。明治43(1910)年ふたたび独立。






	寺内には篁像を安置する篁堂(たかむらどう)があり、本堂背後の庭内には、篁が冥土通いに利用したと伝える井戸もある。

	なお、閻魔庁への往路である六波羅を「死の六道」と呼び,現世への帰路である上嵯峨(かみさが)を「生(しょう)の六道」と呼ぶ。
	地獄で苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会った篁は、感激して嵯峨大覚寺(だいかくじ)門前から現世に戻ると
	福生寺(ふくおじ)を建立して地蔵尊を祀ったと伝えられている。寺は廃寺になったが、地蔵尊は薬師寺(右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木
	町)に伝えられた。現在この薬師寺には福生寺の跡を示す「生の六道 小野篁公遺跡」の石標が建てられている。
 




閻魔・篁堂(たかむらどう)の格子の隙間から写した小野篁像。両脇には「善童子」と「悪童子」の像が。





同じくこちらは、閻魔大王座像








	小野篁像と閻魔大王座像の間には、弘法大師・空海の像が小さくなって座っている。閻魔大王とその家来の前では、弘法大師と言
	えども小さくならざるを得ないのかも知れない。なんせ、現世とあの世だもんね。





上が「迎鐘堂」。下は鐘の鳴らし方を教える西本さん。ここは鐘も打ち木も外からは見えない。紐を引っ張って鐘を鳴らすのだ。





上の本堂のガラス窓から中を写す(下)












		筑前「あの世から戻って来た小野篁が、待っていた人々に最初に言う言葉は何かわかる?」

		靖さん「えぇー、何やろ。判らんなぁ。」

		筑前「あのよー」

		靖さん「真面目に聞いて損した、アホくさ。」「ハハハハ」





上の写真の扉は閉まっており、下の方の隙間から「冥土通いの井戸」を写す。









井戸の中を覗いたら死ぬという伝承があって、住職さんも怖くて覗けないそうだ。



境内には沢山の石仏が山のように並べてある。付近に散らばっていた無縁仏かもしれない。








	<清水への参詣道>
 
	六波羅の地は清水寺への参詣道だった。平安時代末期にできた歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には「何れか清水へ参る
	道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰、四つ棟、六波羅堂、愛宕寺、大仏深井とか、それを打ち過ぎて八坂寺」と記され、
	鴨川に架かる五条の石橋を渡るとすぐに六波羅蜜寺があったことを歌っている。なお,当時の五条通はいまの松原通,つまり珍皇
	寺の前の通りである。また,16世紀に作られた「清水寺参詣曼荼羅」(きよみずでらさんけいまんだら)にも、信仰を集めた六波
	羅蜜寺の地蔵堂が描かれている。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 172回例会・2011年納会・幕末の京都をゆく