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2011年納会・幕末の京都をゆく 六波羅蜜寺 2011.12.25











	<六波羅蜜寺>

	六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。 山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基
	(創立者)は空也(くうや)。西国三十三箇所第17番札所。踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中
	期の天暦5年( 951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)
	する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也
	は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もあ
	る。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。








	平安時代以前のこの一帯は、五条から今熊野あたりにかけて、死者がうち捨てられる風葬の地「鳥辺野」だった。平安中期に空也
	上人が念仏を唱えて供養するまでは、成仏できない霊魂のひしめく地であったと思われる。その入り口にあたる松原通の六道珍皇
	寺(ここより北すぐ)から西福寺のあたりは六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境界とされていた。六道珍皇寺に祀られる小野
	篁(おののたかむら)はこの世とあの世を行き来して閻魔大王に使えていたことで有名で、この先には「幽霊子育て飴」の店もあ
	り、「京都魔界案内」などには必ず取り上げられている一帯である。




	鎌倉時代初期には、源頼朝が上洛した際に北方にあたる地を居所としていた。承久3年(1221)、幕府成立後も政治の実権を握ろ
	うと企てていた朝廷との武力衝突「承久の乱」で幕府軍が勝利したのち、治安維持のためここに置かれることになったのが六波羅
	探題である。六波羅探題は朝廷や西国御家人の監視という重要な任務を負っており、また平安時代の検非違使に代わって京内の警
	備権をも持っていた。
	六波羅探題の位置は、現在の六波羅蜜寺から方広寺を経て京都国立博物館あたりまでの広大な一帯を占めており、南北が七条通〜
	松原通、東西は東大路〜大和大路の地域で、五条通を堺に北方と南方に分かれていた。この一帯は平安時代末に平氏の一大集落と
	なっていたが、源氏勢の挙兵により都落ちする際に平氏自身の手で焼き払われている。




	鎌倉時代末期、六波羅探題は後醍醐天皇の討幕計画を一時は阻止したが、有力な武士達の反幕の気運は徐々に高まってゆく。そし
	てついに元弘3年(1333)、足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受けて探題は陥落し、鎌倉幕府は滅亡した。




	六波羅探題	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を
	改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。
	承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これら
	は、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置
	かれることになった。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。
	そこで、朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅
	の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波
	羅探題の始まりである。

	探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも
	将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。また、その下には引付頭人、
	評定衆、引付衆、奉行人などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。

	六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などのトラブルを処理する裁判機能、京都周辺の治
	安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。更に文永の役翌年の建治元年(1275年)には六波羅探題の機能はさらに強
	化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。
	一方で、権限に伴う実際の強制力は十分とは言えなかった面もあった。時には有力寺社への処分を行った担当官吏が、当時力をつけ
	ていた僧兵の圧力により流刑などの処分を受けるという事態も起きており、例として寛喜元年(1229年)に不法を働いていた延暦寺
	傘下の日吉社の神人が、探題北方北条時氏の配下三善為清の制止命令を無視し為清の部下に斬られた件がある。これについて延暦寺
	が幕府に抗議をし、六波羅探題は為清主従に過失がなかった証拠を提示したが、幕府は延暦寺との対立を避けて為清を流刑にしてい
	る。
	また、幕府から直接派遣された“東使”と称される特使が朝廷との直接交渉や探題への指揮の権限を与えられる事例もあり、その権
	限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言ってよい。評定衆をはじめとした探題府職員の人事権や、職員の官位・官職へ
	の推挙権は幕府中枢に握られており、訴訟に於いても六波羅探題は審理のみを行い、判決はあくまでも幕府中枢で下された。そのた
	め、その事情をよく知る者の中には六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われる。

	元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利高氏(尊氏)や佐々木道誉・赤
	松則村(円心)らは京を攻めた。これによって当時の探題であった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は消滅した。


	<六波羅探題北方>

	北条泰時(得宗家) 1221年 - 1224年 →執権 
	北条時氏(得宗家) 1224年 - 1230年 
	北条重時(極楽寺流) 1230年 - 1247年 
	北条長時(極楽寺流赤橋氏) 1247年 - 1256年 →評定衆→執権 
	北条時茂(極楽寺流常盤氏) 1256年 - 1270年 
	北条義宗(極楽寺流赤橋氏) 1271年 - 1276年 二月騒動で南方の北条時輔を討つ 
	北条時村(政村流) 1277年 - 1287年 
	北条兼時(得宗家) 1287年 - 1293年 南方より 
	北条久時(極楽寺流赤橋氏) 1293年 - 1297年 
	北条宗方(得宗家義時流)1297年 - 1300年 
	北条基時(極楽寺流)1301年 - 1303年 
	北条時範(極楽寺流常盤氏)1303年 - 1307年 
	北条貞顕(金沢流) 1311年 - 1314年 →連署→執権 
	北条時敦(政村流) 1315年 - 1320年 南方より 
	北条範貞(極楽寺流常盤氏)1321年 - 1330年 
	北条仲時(極楽寺流) 1330年 - 1333年 1333年滅亡 

	<六波羅探題南方>

	北条時房(時房流) 1221年 - 1225年 
	北条時盛(佐介流) 1224年 - 1242年 
	北条時輔(得宗家) 1264年 - 1272年 二月騒動で北方の北条義宗に討たれる 
	北条時国(佐介流) 1277年 - 1284年 罷免され、常陸国へ配流の後に討たれる 
	北条兼時(得宗家) 1284年 - 1287年 北方へ 
	北条盛房(佐介流) 1288年 - 1297年 
	北条宗宣(大仏流) 1297年 - 1302年 →評定衆→連署→執権 
	北条貞顕(金沢流) 1302年 - 1308年 1311年から北方。 
	北条貞房(大仏流) 1308年 - 1309年 
	北条時敦(政村流) 1311年 - 1315年 北方へ 
	北条維貞(大仏流) 1315年 - 1324年 →評定衆→連署 
	北条貞将(金沢流) 1324年 - 1330年 
	北条時益(政村流) 1330年 - 1333年 1333年滅亡 

	『太平記』は、東勝寺合戦に際し、北条貞将がそれまでの忠義を賞されて、北条高時から六波羅の両探題職に任ぜられたとしている。






	空也の死後、977 年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真
	言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。またのちに鎌倉幕府に
	よって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称
	したことに由来するとも考えられている。 なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。




	本尊の十一面観音像は空也作と伝えられ、空也上人立像は運慶(うんけい)の子康勝(こうしょう)作。(いずれも重要文化財)。
	口から吹き出す六体の小仏は、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の、六字名号(ろくじみょうごう)にちなんでいる。また,平清盛像と伝
	える運慶派仏師の手になる彫刻がある。




	<六波羅殿>

	六波羅殿とは国語辞典によれば、(1).京都六波羅にあった平家の邸宅。(2).平清盛の異称。(3).六波羅探題の異称。となっている。

	(1).の六波羅殿は京都の東山山麓にかつて存在した平氏邸宅群の総称である。はじめ伊勢平氏の居館として築かれ、伊勢平氏が滅亡し
	た後には六波羅探題が入居した。この地に伊勢平氏が根拠地を築くきっかけとなったのは、平正盛建立の阿弥陀堂である(現在の常光
	院)。12世紀初頭,平清盛(たいらのきよもり)の祖父正盛(まさもり)が珍皇寺附近に邸宅を構え、御堂(常光院)を建立したのが始まり
	である。清盛の代に至り、六波羅は平家一門の邸宅が軒を連ねる所になった。
	平家の邸宅は一帯の町名になごりを留めている。多門町は六波羅邸の東に向かって開かれた惣門にちなみ、門の脇に平教盛(たいらの
	のりもり)邸の門脇殿(かどわきどの,門脇町)があったとされる。三盛町(みつもりちょう、旧泉殿町<いずみどのちょう>)には清盛の
	泉殿があり、その中に常光院とその鎮守社があった。常光院には京の百塔巡礼の一とされた塔があり、鎮守社には安芸宮島から勧請し
	た伊津伎島(いつきしま、厳島<いつくしま>)神が祀られていた。南方の池殿(池殿町)は、清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)の邸宅で、
	息子頼盛に引き継がれた。清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのもこの邸宅である。




	六波羅殿と呼ばれる邸宅群の範囲は時代により異なるが、伊勢平氏が繁栄を謳歌した最盛期には、北側が平安京の五条大路を東に延長
	した通り(現在の松原通)、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。
	南北はおよそ500メートル、東西はおよそ600メートルで、周囲は塀を巡らせ、内部には伊勢平氏の惣領家の邸宅「泉殿(いずみどの)」
	を中心として「屋敷三千二百余宇」が立ち並び、伊勢平氏の一族郎党が起居していたとされる。
	平忠盛、平清盛らの居館となった泉殿は、太田静六の研究によると、それ以前の寝殿造に較べて極端に小さいものであったとされる。
	また泉殿の南には、平頼盛の居館である池殿があった。泉殿は氏長者の邸宅と位置づけられており、1169年に清盛が福原に移ると、こ
	の邸宅は後継者の平重盛に譲られた。その後、清盛が上京した際にも清盛は泉殿ではなく、西八条にあった妻の平時子の邸宅に滞在し
	ている。ちなみに清盛の時代、六波羅館のすぐ南には後白河法皇の住んだ法住寺があった。






	平家の拠点六波羅邸と清盛の邸宅西八条殿(にしはちじょうどの,現下京区梅小路公園<うめこうじこうえん>附近)はともに交通の要衝
	に築かれていた。六波羅は,小松谷(こまつだに)を経て山科に抜ける道筋にあり、東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当
	たる。平安時代末以降,武家の地として発展することになった。
	寿永2(1183)年,平家一門が安徳天皇と神器を奉じて都を落ちる際、西八条殿とともに六波羅邸に自ら火を放ち、豪壮な邸宅は灰燼
	に帰した。



	「六波羅・法住寺殿復元図」

	野口実・山田邦和「六波羅の軍事的評価と法住寺殿を含めた空間復元」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第17号 2004年)










	本堂は承安3(1173)年に炎上、すぐ再建されたが、その後もたびたび焼失。貞治年間(1362〜68)、室町将軍足利義詮の命で大修理が加
	えられた。現在の本堂は貞治2(1363)年建立(重要文化財)。文禄4(1595)年青蓮院(しょうれんいん)に属し、真言宗寺院となった。






























2012.5.20に再訪問した時「恵比寿神社の」大祭で、御輿が六波羅蜜寺のそばを通っていた。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 172回例会・2011年納会・幕末の京都をゆく