Music: 鉄道唱歌
歴史倶楽部・第175回例会



大阪府南端・淡輪古墳群をゆく 大阪府岬町 2012.3.25





			概 要 ;

			渡来人達は海からやってきてまず海岸縁に居を構え、そこに覇を唱えた。大陸半島からの渡来人達は、
			瀬戸内海を東進し、大阪湾岸南部、泉南部、そして紀州北部へと根付いていったのだ。淡輪の南の山
			の向こう側には大谷古墳があり、そのずっと南には広大な山肌におびただしい数で造られた岩橋千塚
			(いわせせんづか)古墳群がある。いずれも朝鮮半島からの渡来を窺わせる出土品が出ている。大谷
			古墳の馬兜は、釜山の福泉洞古墳で見たものとそっくり同じものであるし、宇度墓古墳が、ほんとに
			垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の墓だとすれば、古事記・日本書紀にか
			かれた古代天皇達の物語は、その多くが渡来人達の物語なのではないだろうか。






久々の南海電車。右下にスペード・マークの付いている写真は郭公さんの提供によるものです。


上は関空特急「ラ・ピート」。これに乗ったわけでは無い。これに乗るには特急料金が要る。
	
	岬町(みさきちょう)
	大阪府の最南端に位置し、東西約10km・南北約6kmの広がりを有し、総面積は約49.14ku。西・南は和泉山脈に囲まれ、東は阪南
	市と丘陵を境に、また南は和歌山県に接している。北は大阪湾に面し、西から東北に連なる和泉山脈から派生した尾根が海岸付近まで
	及び、山地と丘陵が海岸に迫っている。 町域の大部分が山で覆われており、全面積の約80%を占めている。平野は、町域を北方に流
	れながら和泉山脈から大阪湾に注いでいる4つの大きな河川の河口付近に存在している。東から番川流域には淡輪、大川流域には深日、
	西川・東川流域には多奈川といった集落が存在し、これまでにそれぞれ特徴のある歴史文化を形成してきた。




	変わった駅舎の「淡輪」駅。これも関西人で無いと「たんのわ」とは読めんやろうなぁ。本日のオールキャストでございます。


	淡輪駅		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	淡輪駅(たんのわえき)は、大阪府泉南郡岬町淡輪にある、南海電気鉄道南海本線の駅。駅番号はNK40。相対式2面2線のホームを持つ
	地平駅である。下り線の和歌山市駅方の外れた所に使われていない線路があるが、現在は本線とは繋がっておらず、みさき公園駅に保
	線基地があり、箱作駅にも保線留置線があるため、今後使われる予定もない。
	洋館風の駅舎が難波方面ホームに接しており、和歌山市方面ホームとは連絡地下道で結ばれている。なお駅舎の屋根の色は黒に変更さ
	れている。2004年度の調査結果では、1日あたりの平均乗降客数は2263人。この数字は南海の駅全体では99駅中67位、南海本線の駅
	(今宮戎駅・萩ノ茶屋駅は除外)としては40駅中39位。春のツツジの時期や、夏の花火大会(現在は廃止)の時は普段以上の乗降客が
	ある。淡輪港と淡輪海水浴場(ときめきビーチ)は駅から見て北方にある。駅前には町内巡回バス「ミニループバスみさき」(中日臨
	海バスが受託運行)が発着する淡輪駅停留所がある。
	
	淡輪古墳群
	大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られた5世紀の半ば、紀伊から和泉(堺)へ
	向かう海の交通路としてその中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口であることから、非常に重要な地域であったようだ。
	岬町には、200mを越える前方後円墳がこの狭い平野の中に2基も存在している。岬町には全部で40をこえる古墳があり、町内の
	各所で見られるが、特に巨大古墳が存在する淡輪地域では全体の80%を越える数が存在している。
	大阪府の最南端「岬町」に位置して大阪湾に面した地に造られている、淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓ともいう)、宇度墓の800mほど西
	にある西陵古墳(国の史跡、墳丘長210m)、両古墳の中間にある西小山古墳(円墳)などを中心に、鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群
	とともに「淡輪古墳群」を形成している。淡輪ニサンザイ古墳は、墳丘長170mの大型古墳である。

淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓古墳)群




駅をでてすぐそばに、淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓)の1号陪冢とされるこんもりした塚がある。小さな円墳である



1号陪冢と線路を夾んで向かい側に「宇度墓古墳2号陪冢」がある。南海電車南側に位置し、墳丘の下部は急な傾斜で、葺石が露出している。




	さらに行くと「宇度墓古墳3・4号陪冢」がある。上は3号陪冢である。

	<宇度墓古墳3号陪冢>
	宇度墓古墳後円部の真東に位置し、この古墳も葺石が露出している。周囲が削られて小さくなって方墳状になっているが、元々は円墳
	だったようだ。
	<宇度墓古墳4号陪冢>
	この古墳も元々のものから削られて、南北に長い形状を示しており本来の形状は不明である(ここには写真なし)。
 

	淡輪ニサンザイ古墳/宇度墓(うどはか)古墳

	淡輪駅北側に隣接する2段築成の円墳で、高さ9m前後を測る。南側に周濠の跡が見受けられる。 南海本線「淡輪駅」より徒歩5分。
	番川の形成する沖積平野の傾斜面に位置し、全長200m・前方部幅120m・後円部経110mを測る3段築成の前方後円墳で、5世紀後期の築
	造とされている。南側くびれ部に方形の造りだしを持ち、本来北側にもあったと推定される。
	別名淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の管轄下に
	ある「陵墓参考地」である。周濠には満々と水を蓄え、堂々たる前方後円墳だ。周濠は盾形で外堤がめぐり、南側では浅い外堀の存在
	が確認されている。周濠の外側に、後円部を取り囲むように7基の円墳と方墳の陪冢が巡っており、これらの内の1基から刀剣が発見
	されたと伝えられるほか、埴輪の散布もみられるが、内部構造や副葬品はほとんど解っていない。この古墳は西陵古墳に続いて築造さ
	れたと考えられ、被葬者は紀伊を本貫地とする人物が葬られているのではないかと想定されている。





大きな前方後円墳である。奈良の古墳と遜色ない大きさだ。ここにこんな大きな古墳があることの意味は何だろうか。






	五十瓊敷入彦命		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。垂仁天皇の第2皇子(第1皇子は垂仁天
	皇と狭穂姫の子、誉津別命(ほむつわけのみこと))。五十瓊敷命、印色入日子命(『古事記』)とも言う。

	父は垂仁天皇。母は、丹波道主王の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
	弟:大足彦尊(おおたらしひこのみこと。  後の景行天皇)
	妹:大中姫命(おおなかつひめのみこと)  『古事記』は「大中津日子命」で男性とする。
	妹:倭姫命(やまとひめのみこと)     伊勢神宮の起源説話
	弟:稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)			
	上記は『日本書紀』の編年に拠る。

	垂仁天皇には狭穂姫という皇后がいた。皇后の兄である狭穂彦の反乱事件の際、兄とともに死を迎えたが、その後天皇は新たに日葉酢
	姫を皇后に迎え、第一子に五十瓊敷入彦命、第二子に大足彦命(景行天皇)をもうける。垂仁天皇30年、天皇が兄弟に対しそれぞれが
	欲するものを尋ね、兄の五十瓊敷入彦命は「弓矢」を欲し、弟の大足彦命は「皇位」を望み、大足彦命が垂仁天皇の後継者に決まった
	とされる。
	同35年9月、河内国に派遣され、高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開く。同様に広く諸国をまわり農業を盛んにして人々
	の生活に安定をもたらし、民から厚く崇敬されたと伝える。
	同39年10月、「菟砥川上宮」(うとのかわかみのみや。現在の大阪府阪南市自然田付近か?)にて剣千振を作り、石上神宮に納め
	る。垂仁天皇は五十瓊敷命に命じて神宮の神宝を掌らせる。同87年2月、老齢を理由に神宝を大中姫に託す。大中姫は神宝を物部十
	千根に授けて治めさせた。物部氏が石上神宮の神宝を管理する由縁はこのことであるという。

	<終焉に関する伝承>
	岐阜県岐阜市にある「伊奈波神社」に伝わる縁起によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、一緒に同行した陸
	奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏したため、朝敵として攻められてこの地で討たれた。夫の死を知
	った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたとい
	う。なお、五十瓊敷入彦命は伊奈波神社の主祭神として、現在も厚く崇敬されている。
	参考までに触れておくと、江戸時代の偽書とされる『天書』は、薨去の年月日を垂仁天皇93年(64年)2月24日とする。 ただし、
	同書に上記の縁起と関わるような記事は一切ない。
	石上神宮の伝承によると、五十瓊敷入彦命は石上神宮の拝殿から東南の隣地に住み、老衰したので、妹の大中姫に祭祀を継がせようと
	したが、神宝を納める庫の高い階(高橋)に、女だてらに上るのはいやだと拒否され、仕方なく物部十千根大連に任せたといわれてい
	る(この祭祀とは、神宝の出し入れもしていた可能性がある)。前述の事績中、垂仁天皇紀87年2月条にも同じ話が載っている。年
	をとって亡くなった様に伝えられている。

	<墳墓> 宇度墓古墳(うどはかこふん。淡輪ニサンザイ古墳とも)
	大阪府泉南郡岬町淡輪に所在。5世紀後半に築造された全長200mの大型前方後円墳。五十瓊敷命の墓と伝えられるが確証はなく、現在
	宮内庁の管理下にある。最寄り駅は南海本線「淡輪駅」。












淡輪遺跡

	
	淡輪遺跡

	この遺跡は1969年石鏃の発見によって遺跡として認識されて、1970年の電電公社淡輪電話中継所敷地内の調査で、溝や弥生式土器が
	発見されている。1976年には住宅建設に伴う調査が行われて、溝状遺構と多量の縄文式土器が発見されている。この遺跡の範囲は、
	西側は番川まで、南側は山麓にある鴻ノ巣山古墳群の所在する丘陵の縁辺まで、北側は宇土墓まで広がっていないがその周辺までと
	理解されている。縄文時代から弥生時代にかけての遺跡と認識されていたが、以後の土師器、須恵器、埴輪、瓦器などが出土してい
	ることから、長期にわたる複合遺跡と考えられている。



上右で郭公さんが眺めているのが、旧電電公社淡輪電話中継所。この下も遺跡なのだ。





	
	淡輪地域で縄文時代後期の遺物が出土したのが、この地方における最古の遺跡である。淡輪で一番広い平野部の中央を流れる番川の
	右岸にこの遺跡は存在している。1970年にサヌカイト製石鏃が発見されて以降、現在までに縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵
	器、埴輪、瓦器、陶器などの破片とともに、石鏃、石錘、石槍、石包丁などサヌカイト製石器類が約 500点発見されている。
	現在はこれらの遺跡の上には民家や建物が建ち並び、ここが淡輪遺跡だということを示す看板しかない。言われなければ、そんな昔
	の人々が暮らしていた場所だと言うことはわからない。発掘時の資料には、詳しい発掘経過や各調査区域ごとの出土物についての詳
	細が記されている。問い合わせは岬町の教育委員会へ。



この辺り一帯が縄文時代からの遺跡。
	上記の記述は10年ほど前のものだが、もう古い情報になっているようだ。NET 内の情報では、岬町で最古の遺跡は淡輪遺跡である
	が、この遺跡内で旧石器時代の石器が発見されているとある。記事には出典が無いのでちょっと信憑性に欠けるが、その後の発掘調
	査で出土したのかもしれない。しかし淡輪遺跡は、昔から大阪府下でも縄文時代の遺跡があることで有名である。縄文時代の住居跡
	や墓が発見されており、また、弥生時代や中世の遺跡も確認されていて、長期的にこの地で生活を営んでいたことが窺える。





駅から南西方向へ歩いて鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳を目指す。高速道路建設現場の隣にある。



ちょうど昼飯時で、働いていた兄ちゃん達が、おっさんの一群を見て「お、何や何や」という顔をしていた。




鴻ノ巣山古墳群





	
	鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群
 
	この古墳群は番川の右岸、淡輪遺跡の背後、鴻ノ巣山丘陵尾根筋にある。2つの尾根筋の北側の尾根に4基、南側尾根に5基の計9
	基の、経8m〜10mの円墳からなる。1970年の大阪府教育委員会の調査によって4基の古墳が調査され、横穴式石室を持っていること
	が確認されている。1号憤の石室は、玄室長2.5m、玄室幅1.4〜1.5m、玄門幅0.95m、羨道幅1.2m、羨道長1mを測る。玄門の石材を内
	側に突出される構造は、8号、9号憤にも見られ、閾石(シキイいし)の使用が9号憤に見られ、これらは紀ノ川流域の影響が窺え
	る。また1号憤の天井はアーチ型になっており、須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車などを出土している。6世紀後葉に築造が
	始まり、7世紀前葉には使用されなくなったらしい。現在、復元された石室が残り、1976年に大阪府指定の史跡になっている。
 


鴻ノ巣山古墳群に残っている古墳の中で、唯一横穴式石室を見学できる1号憤。住宅の裏にある。







さすがに南国だ。ポカポカ陽気の中でもう桜が咲いている。



アーチ型の天井を持つ1号憤の横穴式石室。移築されて復元されたものらしい。この住宅地の周りが一大古墳群だったのだ。





ここから須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車などが出土している。









上左から二人目のおじさんが、この古墳の持ち主、というかおじさんの家の敷地内にあるのだ。周りの畑もおじさんのもの。





おじさんから色々話を聞く。大阪府指定の史跡になっているわりには、府や町は何にもせずほったらかしとボヤイていた。



まったくねぇ、行政は昔の殿様だもんね。「そうせい」と言うだけ。もっと綺麗にすればいいのになぁ。





椿よ椿、寒椿 早く咲かぬと 桜が来るぞ。小林一茶(いっちゃ)、なんちゃって。



おじさんにお礼を言って、鴻ノ巣山古墳西を後にする。西小山古墳の方へ向かって歩き、どこかで昼食をと考え国道へ戻る。



宇度墓古墳へ戻ってきた。みんなガソリン(beer)を仕入れるためコンビニへ入る。



コンビニのすぐそばに、宇度墓古墳の陪冢2つがあった。5号陪冢と6号陪冢である。




	<宇度墓古墳5号陪冢>(上、下右)
	4号陪冢の南西に位置していて、道路を隔てて残存する。墳丘は2段築成で高さ5.4mを測る。昔この塚を掘り、中から剣等を出土し
	たが、祟りがあったので再び元の所に埋め戻したという伝承がある。
 
	<宇度墓古墳6号陪冢>(下左)
	5号陪冢の南側にあって、地元では小山と呼ばれている。早くから開墾されたため高さ1.5mほどが残存している。もう一つの陪冢ら
	しきものは、5号陪冢のやや離れた南側にあって、わずかに墳丘の残骸らしきものが残っているのみである。
 



	ここで南へ向かおうとしたら、さっきのおじさんがバイクで追っかけてきて、今から昼食なら海へ案内しようと仰る。我々は今回海
	(淡輪ヨットハーバー・淡輪漁港)へ行く予定は無かったのだが、せっかく追いかけてきて案内すると仰るので、ご好意に甘える事
	にする。久々の古墳見学者たちと話が出来て、おじさんも嬉しかったのかもしれない。



おじさんの案内で、線路を越えて淡輪ヨットハーバー方面へ歩く。陸橋の下が淡輪駅である。






国道から7,8分で海が見えてきた。海だぁーっ。



緑と茶色い風景から、いきなりどーんと白と青の世界が広がる。






淡輪ヨットハーバー(昼食)



おじさんと記念撮影。どうやらおじさんはしょっちゅうここへコーヒーを飲みに来ているらしい。











一人っきりで太平洋に数ヶ月! 考えただけで気が遠くなる。米倉涼子と一緒なら行くかなぁ。うぅ〜ん、どやろ。









海を見ながらお弁当タイム。おじさんはガラスの喫茶室でコーヒーを飲んでいる。



冬の花水仙が水洗トイレの横に咲いていた。



海を見ながら食後の一服。あーっ生き返るう〜。こんな旨いもんを、どうしてみんな喫わないのかねぇ。健康がなんぼのもんやねん。



海の中にはクラゲの大群が。



いいねぇヨットか。昔BT時代に大きなヨットで西宮から明石まで乗ったなぁ。ヨットはさ程でもないが、これを買える財力が羨ましい。





こんどはほんとにおじさんに別れを告げて、国道へ戻る。



前に見えている建物は船では無い。「何とかセンター」だったが、船の形に作ってあるのだ。ホント建築家ってエライねぇ。






西小山古墳




	<西小山(にしこやま)古墳>
	この古墳も尾根筋の先端部分を利用して築造された、経40〜50m、高さ5mの円憤と言うことになっているが、現状はとても古墳には
	見えない。北西部に造りだしを持っていて、周濠を持っていた可能性もあるとのことだが、今の現場は材木置き場のようなただの空
	き地である。どう見ても古墳ではない。 相当ほったらかしにされていたものと思われる。



この段差がわずかに古墳の痕跡をのこす。



説明板ももうボロボロ。ほんまに「郷土の文化財」と思っとるんかねぇ。




	この古墳は葺石を持ち、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪とともに、陶質土器と考えられる長頸壺、須恵器の器台、瓶
	の破片が出土している。また埴輪には須恵器に見られる製作技法がみられる。1930年に末永雅雄が発掘調査を行い、1980年に大阪府
	教育委員会が憤丘の調査を行っている。






	石室内部は和泉砂岩の扁平な割石で築かれた長さ3.3m、幅0.7m、高さ 0.76mの竪穴式石室だった。側壁は上部へ行くに従い内側へ傾
	斜し、石室底面には河原石の厚いものを敷き、天井には花崗岩の扁平な6枚の大石を乗せている。
	出土品には、金銅装堅矧細板鋲留眉庇付冑1、三角板鋲留短甲1、三角板横矧板併用鋲留短甲1、頸甲・肩甲1組、桂甲小札800余、
	篠籠手小札、鉄刀33以上、鉄鉾2、鉄鏃107、絞具1、異形鉄製品・不明鉄製品、滑石製勾玉16個が出土している。





菜の花の向こうに見えているのは淡路島。海岸の特等席に葬られているのが、この古墳の性格を物語っている。





	被葬者は遺骨を全く残していなかったが、石室内中央に安置されていたものと思われる。副葬品の大半が武器・武具類で占められ、
	古鏡が全く見られず、玉類が少ないことが特徴。5世紀中葉から後葉にかけて築造されたと見られる、泉南地方の代表的な古墳時代
	中期の古墳である。




西陵古墳




	<西陵(さいりょう)古墳>

	南海本線「みさき公園駅」から徒歩15分。この古墳は、淡輪平野に突出した尾根を利用して築造されており、全長210m・前方部幅
	100m・後円部経115mを測る。岬町のみならず泉南部でも最大の前方後円墳で、葺石・円筒埴輪列の存在が知られている。3段築成で、
	西側くびれ部に方形造りだしを持ち、周囲には盾形の周濠を持つが溜池と利用されてきたため現在では変形してしまっている。



	1921年に、後円部墳頂から凝灰岩製長持ち形石棺の蓋石が出土し、周囲に砂岩の石材がみられることから、竪穴式石室内に凝灰岩製
	長持形石棺を納めた構造と推測されている。この石棺の位置は後円部憤頂西側に偏ったところに、主軸を南北方向に置いて、憤丘主
	軸と少し異なっている。露出した石蓋の長さが約 2.35mをはかり、周囲からわずかに板石が認められていることから、竪穴式石室に
	長持形石棺が安置されていたと推測されるが、確認はされていない。




	憤頂部から円筒・鰭付き円筒埴輪がでて、形象埴輪では蓋形、盾形が多数採取されている。この古墳は5世紀前葉から中葉に築造さ
	れたと推測でき、1921年に国史跡に指定されている。「日本書紀」雄略天皇九年三月の条に、雄略天皇の命により朝鮮半島で新羅を
	攻める際、病没した紀小弓宿弥が「田身輪村」に葬られたとあることから紀小弓の墓と伝えられているが、「朝野群載」に記載があ
	ることと、淡輪集落内に船守神社があることから、紀船守の墓という説もある。





















葺石・円筒埴輪列があったというので、ここらに散らばっている小石はその葺石の一部かもしれない。



憤丘上は木々で覆われていて、古墳とはにわかには判別しがたいが、後円部の頂上に立つと前方後円墳の形状が確認できる。










真鍋山古墳・白峠山古墳




池の向こうの小高い山が真鍋山古墳である。そのずーっと右に白峠山古墳があるが、反省会を待ちきれないメンバーは「もう帰ろうよ」
	<真鍋山(まなべやま)古墳>
	この古墳は、西陵古墳を築造した同じ尾根上にあって、直径40mの周濠を持つ円墳である。1971年に大阪府教育委員会によって調査
	が実施され、憤丘直下に横穴式石室があることが判明している。古墳時代後期の築造とみられる。工事現場の隅にあり、古墳はぼろ
	ぼろで今はもう登れないそうで、歩きながら見てとおるだけ。
 
	<白峠山(しらとやま)古墳>
	石室は和泉砂岩の割石を用いた横穴式石室で、全長6m、玄室長2.72m、玄室幅2.07m、羨道長3.3m、羨道幅0.9−0.95mを測る。羨道の
	前には地山を利用した長さ5.2mの墓道を設けている。玄室内には小礫を敷き詰め、中央には排水溝も設けられているが、天井はコン
	クリート板で覆われている。方形に近い玄室内形状、シキミ石の使用などに紀州の影響が見られる。
	1967年の帝塚山大学考古学研究室による調査で、須恵器、耳環、瑪瑙(めのう)製勾玉、緑泥岩製勾玉、琥珀製とう玉、ガラス製小
	玉、水晶製切り子玉、金銅環、杯に流し込んで作った鉄塊が出土している。6世紀中葉から7世紀前葉にかけて築造されたと見られ
	ており、1972年に大阪府指定史跡になった。 この古墳は、独立丘陵の頂部を利用した経 20mの円墳だが、頂部に国民宿舎「みさき
	荘」が建っていて、古墳は頂上部だけを残して崖状に削られてしまっている。山頂には展望台が作られ、その直下に石室が現存して
	いる。普段この石室は施錠されていて一般には見学は出来ない。




	淡輪地域は番川によって形成された小さな平野にあるが、その平野のほぼ中央に、まさに大阪湾を見下ろすように巨大古墳がある。
	この巨大古墳は、西陵古墳・宇度墓古墳を中心に、前者は太正11年に国の史跡として、後者は、明治初期に官内庁の管轄地に指
	定されている。またこの2つ古墳のほぽ中央に、直径約40mを越える大きな円墳の西小山古墳があり、様々な鉄製の武器や勾玉
	などが発見されている。
	岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であるが、被葬者あるいは、この地域の有力者のレペルを古墳の大きさある
	いは、副葬品で比ぺるとすれぱ、かなりの権力をもった被葬者が想像できる。また大阪湾に面した区域であることから、海上交通
	に勢力を持った、しかも古代国家政権に大きな影響のあった豪族の墓であったことは間違いないだろう。
	この巨大古墳が作られたことによる影響は、町内の各所で見ることが出来る。番川河口付近に存在する遣跡に番川下流遺跡がある。
	この遺跡では古墳時代の建物跡が数多く確認されており、埴輪や塩作りの土器、たこ壺などが発見されている。それ以外に海岸付
	近で塩作りの遺跡も発見されている。古墳時代は、分業の時代でもあり、国家の基礎基盤が整うにつれ、米・鉄・塩等の生産が分
	業化され国の管理下におかれる時代であれぱ、恐らく岬町の古墳時代は、鉄と塩と海運を中心とした邑であったように思われる。



淡輪駅からみさき公園駅まで、ちょうど一駅間を歩いた事になる。さぁ、難波へでて反省じゃぁーっ。








	我が倶楽部が難波で反省会をするのはおそらく初めてではなかろうか。「西垣屋本店」。めちゃくちゃ安く、しこたま飲み食いし
	て一人千何百円かだった。あまりの安さに「みゆき会も、もうここでやったらどうやろ?」という声も上がっていた。下はこの店
	に飾ってあった伊万里焼の日本地図大皿。たくさん焼かれたらしいので、もちろん店のものも本物だろう。写真は神戸市博物館所
	蔵のものだが、まるっきり同じ図柄だった。







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