Music: across the universe

臼杵城下町 2010.2.28 大分県臼杵市





	臼杵城下町 ( うすきじょうかまち)

	臼杵湾に面した臼杵河口右岸に広がる城下町。現在では臼杵市の中心市街地に位置し、臼杵城跡および歴史的町なみを残す地域を中心
	として、面積約18.5haの区域である。
	戦国時代の末、永禄5年(1562) 大友宗麟が丹生島(にゅうじま)城 を築城して以来の城下町で、大分県内最古の城下町である。築城
	当時は丹生島と呼ばれる孤島上の城郭で、周囲の海が天然の要害となり、堅固な守りを誇っていた。現在城跡は2つの櫓と書院の庭園
	の一部、石垣などを残すだけで、丹生島も埋め立てによって陸続きとなっている。臼杵城は丹生島城・亀城とも呼ばれていた。

	大友宗麟はキリシタン大名として有名だが、その居城だったため、城内の石垣にはアルファベットの様な文字が刻まれ、城内に礼拝所
	が、城下にはキリシタンの修練所があった。今も街中には寺院が多く残っており、歴史の年輪を感じる落着いた街である。この市街地
	を中心に、その歴史特性を活かした景観整備によって、新たな賑わいのまち復活をめざしている。






	<臼杵八町>

	慶長5年(1600)、美濃より転封した 稲葉氏により一部分町割りが変更され「町八町」(唐人町、懸<掛>町、浜町、横町、畳屋町、本
	町、田町、新町)が完成、江戸期を通じて豊後水道に臨む商都として繁栄した。
	大友時代の城下町は、文禄2年(1593)の「臼杵庄御検地帳」(『大分県史料 』19)によれば 唐人町、唐人町懸(かかり)ノ町、海添中町、
	横浜町、吉永小路片町、浜町、菊屋町、横町、祇園洲之内、畳屋町の十町が確認でき、名請人(なうけにん)数や屋敷地数から、その中
	心は唐人町、唐人町懸ノ町、浜町であったと考えられる。
	これら3町には 元明(げんめい)(中国、鎮江丹陽(ちんこうたんよう)の出身、天正3年(1575)貿易船で来航)をはじめ計8名の、明ら
	かに外国人と思われる者が名請人としてあげられており、外国貿易により発達した当時の城下町の状況がうかがえる。




	稲葉入封後、大友時代の十町のうち海添中町、吉永小路片町は武士居住区となり、祇園洲之内も城地に組み込まれ、菊屋町も塩浜とな
	り廃町された。かわりに横浜町と塩浜にならなかった菊屋町が合併し本町として登場、堀川削掘時の土砂で埋め立てたと言われる新町
	が成立。寛永4年(1627)には仁王座(におざ)村が田町として城下に加わり「町八町」といわれる商人町を中核とした城下町が成立し
	た。




	有力商人たちは町役人として藩とのかかわりを持つと同時に、御用金の献納や藩の財政諸役を担当することでその勢力を伸張していっ
	た。代表的な城下商人は鑰(かぎ)屋である。
	可児(かに)氏を例にその活動をながめてみると、献納については安永2年(1773)から文化10年までの40年間に、計9回、合計献
	納額は金190両、5千疋(ひき)、銀30枚(1貫290匁)、銭9貫500目、米50石もの巨額にのぼり、また藩の諸役につい
	ては明和8年(1771)の為替受合役をはじめ、銀札、場御用掛、御勝手方御用掛など、しばしば藩の財政諸役をつとめた。こうしたか
	かわりの中で、苗字帯刀や3人扶持(ふち)などの特権・褒賞を受けるとともに、商売上の特例を与えられることでその勢力拡大を図っ
	ている。






	稲葉家下屋敷は、廃藩置県後に東京に居を移した旧藩主の里帰りのための住宅として、明治35年につくられたもの。内部には、杉や
	檜といった上質の素材が使用され、式台のある玄関や書院作りの奥座敷、謁見の間である、表座敷など、藩主を迎えるに相応しい格式
	あるつくりである。内部には戦に使われた武具や、昔のお姫様が乗った豪華な駕籠など、稲葉家五万石の品々を展示。部屋ごとに違っ
	た趣を演出する、広々とした日本庭園もすばらしい(そうだ)。







サーラ・デ・うすき




	「サーラ・デ・うすき」は、南蛮資料や市民ギャラリーのコーナーをはじめ体験工房や行政・観光情報コーナー、パソコンやインター
	ネットを学ぶ設備や記念フォト、インターネット放送などのマルチメディア体験機器を備えた中心市街地のにぎわいと地域情報化の拠
	点である。 「サーラ(sala)」とはポルトガル語で「居間」や「サロン」を意味している。(サーラ・デ・うすきHP)
 



































































	二王座は、阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削り取って道を通した。特に、旧真光寺の前は「切り通し」
	と呼ばれる、臼杵を代表する景観のひとつである。辻から入ると上級の武家屋敷が立ち並び、田町側から登っていくと、多くの寺が集
	まっている。この地域にかつて春日局も住んでいた。二王座は、昔日の名残を今もとどめている。平成5年11月には国の都市景観百
	選にも選ばれている。



























直良信夫生家




	直良信夫	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上は10日) - 1985年11月2日)は日本の男性考古学者、動物考古学者、古生物学者、
	文学博士。
	明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動
	物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学
	や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。明石市文化功労賞受賞。なお直良姓は婿養子として結婚後の姓であり、旧姓は村本。




	大分県臼杵市出身。臼杵男子尋常高等小学校高等科中退後、様々な仕事をしながら早稲田中学(現・早稲田高等学校)講義録(通信
	講座)の購読などを通じ独学を続ける。この時期に、臼杵町立実科高等女学校(現・大分県立臼杵高等学校)に勤務していた直良音
	(なおら おと、後の妻)と出会うことになる。
	その後、恩師を頼って上京後、苦学の末に岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)卒業を経て農商務省窒素研究所に勤務。在勤中、喜田
	貞吉の影響で考古学に興味を持つようになり、いくつかの発掘調査に参加している。
	体調を崩したため官を辞し、大正12年(1923年)8月31日(関東大震災の前日)、夜汽車に乗って東京を離れる。そして、臼杵へ帰
	省する途次、兵庫県立姫路高等女学校に転勤していた直良音と再会。大正14年(1925年)に信夫が婿入りする形で結婚し、信夫の静
	養を兼ねて明石に住むこととなる。この明石滞在中の昭和6年(1931年)4月18日、西八木海岸で旧石器時代のものと思われる化石人
	骨を発見した(後に長谷部言人が調査の結果原人と判断し明石原人と名付けた。なお化石現物は戦災により消失)。




	同年『人類学雑誌』に「播磨国西八木海岸洪積層中発見の人類遺品(一)・(二)」と題する論文とともに旧石器と旧象の写真、石
	器の出土した地点の層序ともに、伴出した植物化石についても報告している。これに対して正面から否定し、石器は洪積世以前の自
	然石であると反論したのは鳥居龍蔵である。しかし後に芹沢長助が石器であると指摘している。この鳥居の否定により直良は世間か
	ら嘲笑され、旧石器の研究から遠のいていった。
	昭和7年(1932年)には再び上京し、早稲田大学の徳永重康に師事し古生物学の研究を行う。その後、同大学助手を経て昭和20年
	(1945年)には同大学講師に就任。さらに昭和32年(1957年)、文学博士号を取得し、昭和35年(1960年)には同大学教授に就任
	(助教授は経由せず)し、後進の指導に当たった。




	直良の発見した明石人については、縄文時代以降の新人とする意見が大勢である。葛生人は、直良の没後、松浦秀治によるフッ素年
	代測定法を用いた分析により、室町時代頃の中世の人骨であるとの結論が出された。また松本清張の短編小説「石の骨」の主人公
	「黒津」は、彼をモデルにしたものといわれている。



邪馬台国大研究ANNEX ホームページ / INOUES.NET / 国東半島の石仏たち