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吉野歴史資料館 2009.4.26 歴史倶楽部第142回例会 奈良県吉野町宮滝






吉野杉を焼いた黒板の建物。ここから下の一帯が「吉野離宮」だったので、ここに資料館が建てられたようである。





	
	●吉野歴史資料館
	展示室では宮滝遺跡の展示を行っている。宮滝はかつて吉野の中心ともいえる場所だった。それを物語るように遺跡からは縄文時
	代から奈良時代までの遺物や遺構が出土している。末永雅雄氏によって発掘された数々の遺物を展示している。
	<縄文時代の人びととくらし>
	この時代の人びとは寒い時期を吉野川の下流域ですごし、暖かくなると川を遡って宮滝でくらしていた。木の実を調理する石皿や
	敲石、縄文時代後期の標準土器である宮滝式土器などを展示。
	<弥生時代の人びととくらし> 
	宮滝でムラをつくって生活しはじめた人びとは稲作にたよらない生活をしていた。遺跡からは竪穴住居や方形周溝墓の遺構や死者
	をほうむる壷棺などの遺物が出土している。これらの発掘成果をもとに当時の宮滝のようすをイラストで展示。 
	<吉野宮の成り立ちと移り変わり>
	飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営された。この宮には持統天皇が30回以上も訪れていることが記録に残されている。ここ
	では吉野をよんだ代表的な万葉歌や、壬申の乱の経路図も展示している。
	<吉野離宮の成り立ち>
	奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営された。宮滝の美しい自然を愛でる宴が催され、多くの大宮人たちが訪れた。展示室
	では、離宮の復元図や使われていた瓦や土器を見れる。 
  
	吉野歴史資料館   〒639−3443 奈良県吉野郡吉野町宮滝348番地 
	TEL: (0746)32−1349 入館料   一般 200円









このあたりの土器から「吉野離宮」の存在が確かになったようだ。



ここまでは一階の廊下の隅などに置いてある展示物。本ちゃんの展示室は二階である。































	
	吉野	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	吉野(よしの)とは、奈良県南部の別名。吉野山から大峰山の山岳地帯をいい、狩りに適した良い野という意味である。吉野は口
	吉野と奥吉野に別れる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は
	熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。『記・紀』には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられ
	ている。
	春の吉野山紀伊半島の中部に位置し、奈良盆地の南に位置する。高地・盆地・山岳地帯が並存する。口吉野は吉野川流域、奥吉野
	は十津川・北山川流域である。吉野川は紀ノ川となって紀伊水道へと流れ下り、十津川と北山川は熊野川となって熊野灘へ注いで
	いる。熊野地方(三重県南部から和歌山県南東部まで)と並ぶ多雨地帯であり、台風銀座でもある。吉野杉は秋田杉や木曽桧と並
	んで日本三大美林一つとされ、日本有数の林業地帯となっている。サクラの名所としても知られるが、多くは吉野の名を冠したソ
	メイヨシノではなく、ヤマザクラの類である。2004年には、吉野・大嶺を含む紀伊山地の霊場と参詣道が、ユネスコの世界遺産に
	登録された。




	「吉野」「吉野地方」の範囲は時代によって異なっており、時代が下ると共に奥へ奥へと拡大していった。もともとの吉野は、吉
	野川北岸の原野を指していた。つまり、高取山や竜門岳の南斜面である。最小では吉野山或いは吉野宮(宮滝遺跡)を指す場合も
	ある。飛鳥人にとって、大河・吉野川は大きな驚きで、吉野宮滝の風景が愛されて、舒明天皇の頃、そこに吉野離宮が設けられた。
	吉野とは、今の吉野山より吉野川宮滝付近をさしていた可能性が大である。
	吉野が最初に史書に現れるのは、『古事記』『日本書紀』の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されて
	いる。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、現在の川上村、或いは東吉野村などの吉野川沿いの地域が想定さ
	れる。




	吉野離宮は、奈良時代に造られた、「水の宮殿」とも呼ばれているぐらい、美しい自然に囲まれた離宮だったので、とくに持統天
	皇は31回も行幸をしたほどである。どこにあったかという点については、4つの説がある。

	1.高取町の南隣の大淀町にある世尊寺	ここは、聖徳太子が父の用命天皇のために創建した寺といわれる。
	2.吉野町にある宮滝遺跡			吉野川に面した風光明媚な景勝地。
	3.川上村の大滝
	4.東吉野村にある丹生(にゅう)川上神社の中社




	応神天皇の遊興の地となり、654年には離宮として吉野宮(宮滝遺跡)がおかれたとされ、大化の改新後の古人大兄皇子、また
	は壬申の乱の直前の大海人皇子(天武天皇)及びその妻・鵜野皇女(持統天皇)の隠遁地、持統天皇の行幸の地として記されてい
	る吉野は、現在の吉野町の宮滝付近にあった離宮・吉野宮を指すものと思われる。日本書紀によれば、天武天皇は、この地に皇后
	(後の持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子と共に行幸し、「千年の後まで、継承の争い
	を起すことのないように」と盟約を結んだ場所である。


































	和銅年間以降は「芳野」と表記され、天武系王朝の故地として聖武天皇もたびたび行幸した。また、古代には歌枕の地でもあった。
	平安時代には、役行者が開いたと伝えられる金峯山寺が建立され、吉野山は修験道の地となる。

	鎌倉時代後期には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる。後醍醐は幕府滅亡後に京都で建武の新政を開
	くが、南北朝時代には吉野へ移り、皇居や行政機関を置いて吉野朝廷(南朝)が成立。吉野町の吉野山を中心とするが、旧西吉野
	村には行宮としての賀名生皇居があった。川上村にも伝承地がある。南北朝統一後、室町時代にも後南朝勢力の活動地となった。
	江戸時代初期には、1614年に徳川家康の顧問を務めた天海の支配下となった。

	以後も吉野は、天下に名高い桜の名所として、また源義経と静御前、後醍醐天皇や楠正成ら中世武士の歴史ロマンの舞台として、
	さらに西行法師や芭蕉の「野ざらし紀行」などをとおしてあまねく有名となり、多くの文人墨客にとってあこがれの地となった。
















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