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第5回全日本邪馬台国論争大会

宇佐神宮・参集殿 2009.5.17 大分県宇佐市












「邪馬台国の基礎知識」講演 小倉正五氏






◆ ずらり勢揃いの「来賓」の皆様。

卑弥呼入場












◆ 大会実行委員長、西氏(いいちこ会長)と、30代卑弥呼(西村さん)の挨拶。







◆ 可愛い卑弥呼の挨拶に、安本先生も思わずほほえんで。







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講演者・参集殿入場


スピーチ開始




◆ 以下、論者の話は資料を読んで下さい。皆さんおおむねこの資料に沿ってお話されていましたので。


鷲崎弘明氏












金田弘之氏










井上筑前









	邪馬台国の所在とその行方 −筑後川北岸の、日田−吉野ヶ里の範囲のどこかに、邪馬台国はあった−

 				                                   		井上修一

	●基本的に、「魏志」の記事を参照した正史においては、邪馬台国は帯方郡から南へ南へと降ってきた所にあり、さらにその南に敵対
	する「狗奴国」があるという位置関係は一致する。南北の軸に対し東西の線、即ち、「女王国より東、海を渡ること千余里」の「別の
	倭種」は倭人伝の対象になっていない。つまり北九州が、「魏」から見た「倭」であり、「倭人」たちの国だった。
	「宋書」における倭王「武」の、「寧所に暇あらず」、「東は毛人」「西は衆夷」を征服したという上表文では、明らかに倭の中心は
	畿内にある。これは「隋書」以後の中国正史も同じで、王権が畿内に成立した時期以降の認識と見て良い。
	反して「魏志」以前の認識では、未だ日本列島に王権は成立しておらず、正史に書かれている国々と、魏から見た「倭」の領域はほぼ
	「九州島」に限定されていると言ってもいい。

	中国人の目に「国」として認識された領域が、当時三十ばかりあった。そして、末廬国、伊都国、奴国などを見てもわかるように、当
	時の国々の領域は極めて小さい。現在の市町村程の領域が当時の国である。そして30の国々は北九州のエリア内にすっぽりと収まって
	しまう。邪馬台国が近畿にあったとすると、それを取り巻く国々が30というのはあまりに少なすぎる。北九州から近畿までの間にクニ
	と認識されてよい領域はごまんとある。魏志倭人伝には300くらいの国の名が記録されていないとおかしい。倭人伝が対象にしている
	「倭」の範囲は、韓国南部から北九州の範囲を指している。

	矢の先は鉄鏃または骨鏃。」という記事は注目される。弥生時代の「鉄鏃」の出土は圧倒的に北九州、それも福岡県に集中している。
	福岡県からは398個が出土しているのに対して、奈良県からは僅かに4個である。その他の例も多々あり、考古学から見ても倭人伝の記
	述は北九州を対象としている事がわかる。

	不弥國から南へ水行で二十日かかると投馬國へ到着し、さらに南へ水行十日、陸行一月で「邪馬台国」と言うことになる。奴國が博多
	湾岸から春日市のあたりだと想定すると、東の不弥國は、従来通り宇美町・飯塚市・嘉穂郡あたりになり、その南は三井郡から甘木・
	朝倉地方、或いは浮羽郡・久留米市を含むエリアが考えられるが、水行の意味が不明だし、川を降っても(どの河かが問題になるが、
	宝満川あたりか。)1日で下ってしまう。20日もかからない。有明海へ出て、更に筑後川を遡り甘木・朝倉へ行くことはできるが、こ
	れとて4,5日もかからない。
	更に、その投馬國から水行十日、陸行一月と言うことになるともうお手上げである。倭人伝に言う方角や日程や距離の情報はどこまで
	が正しいのか?全部が正しいとしたら、この記事からは今の所邪馬台国は判明しないと言うことになる。「これは出鱈目、伝聞。」と
	か「一月は一日の誤り。」などとどこかを無視しなければ「説」は成り立たないようになっている。ここが論争の実におもしろい所で、
	陳壽が計算して記録を残したとすれば、彼は天才的な推理作家の素養を持っていた事にもなる。
	帯方郡から邪馬台国までの里数は計12,000里である。これから「奴国」までの里数を引くと「奴国」から邪馬台国までは1300−
	1500里くらいしかない。これは短里と呼ばれる80m−100mで計算すると110-140kmにあたる。つまり博多から百数十kmの所に邪馬台国が
	あった勘定だ(陸行、水行はこの際無視)。また、LANDSATから写した九州の写真を見ると、多数の人が暮らせそうな平野は、北九州
	では有明海北岸、筑後川流域しかない。またこの流域で、現在までの所、邪馬台国を彷彿とさせる遺跡は「吉野ヶ里」しかない。
	状況的には筑後川北岸の、日田−吉野ヶ里の範囲のどこかに、邪馬台国はあったと考えたい。文献と考古学と地理学が一致している。

	邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに存続していた。
	以前は、その後邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をうち立てたという「邪馬台国東遷説」の立場に立っていたが、最
	近どうも違うのではないかと思うようになった。

	全国の古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の 150年間に本格的な軍事政権の到来を見る。夥しい馬具に武具、鉄剣に
	弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。とても1女子を女王として擁立し、それで国中が平和に収まるという
	ような生やさしい社会ではなかった。刺し殺し、首をはね、目玉をえぐるというような残虐な闘いが100年以上続いた。
	「宋書」に登場するいわゆる「倭の五王」たちは、王そのものが武力に秀でた絶対君主のような存在だった。「王自ら甲冑を纒い山河
	を駆けめぐって、寧所に暇あらず。」とある。この時代になると馬が大量に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べもの
	にならない規模に発展していたと考えられる。シャーマンとしての卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、と
	てもこの連合国家が日本を武力で統一したとは考えにくい。武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした倭国連
	合の人々の感性は、この激動の4世紀には通用しなかった。

	邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集団によって滅ばされ、あるいは取り込まれて歴史から消えていったという可能性が大である。
	4世紀には大和を中心に各地に古墳が築造され、明らかにそれまでとは異質な民族たちの大量移入を思わせる証拠が山ほど残されてい
	る。それは「邪馬台国時代」とは異なる文化である。」

	

	<補遺>

	■卑弥呼の時代、日本は未だ統一には至っていない。「漢書」には別れて百余国となっているし、後漢になって朝貢した国でも一つは
	「奴国」で一つは倭の「面土国」である。三国時代になっても、倭の女王国は三十国を従属させているとは言っても、南には狗奴国と
	敵対し、東には「皆倭種」の国々が控えている。これはとても大和朝廷(或いはその前身)によって倭が統一されている状態とは言い
	難い。もし日本が統一されていたとすると、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」という一文は全く意味をなさない。同時期、
	朝鮮半島では馬韓は50余国にわかれ、辰韓、弁韓も12国に別れて争っていた。日本だけが統一されていたという見方は、東アジア
	の状況を全く無視し、倭だけが特殊な民族であったとする、「天皇陛下万歳!」時代の史観と全く変わりがない。古墳の築造時期を古
	く古く持って行こうとし、大和朝廷による統一が、既に弥生時代には成立していたと言うことにしたい人たちは、形を変えた「皇国史
	観」の持ち主である。
	■ではいつ頃日本は統一されたのか。卑弥呼が魏に朝貢したのは 238-247年の頃であるが、この頃はまだ統一には至っていない。高句
	麗の好太王の碑文によれば、日本は辛卯の年(391)には大挙して朝鮮半島に兵を出し、400年前後には京城付近まで進出して高句麗と
	争っている。これはとても九州の一隅の兵力では不可能だろう。「日本書紀」や朝鮮の「三国史紀」などによれば 360年頃から日本は
	百済と関係を持っている。これらを考えると、日本は3世紀の半ば頃にはまだ統一されていないが、4世紀の初めから前半には既に統
	一されていたと思われる。これは馬韓50余国が統一されて百済となり、辰韓12国が統一して新羅となったのとほぼ同一時期である。

	この、短期間に成立した日本の統一はいかにして成ったのか。邪馬台国が東遷して大和朝廷になったと考えると悩まなくて済むが、私
	にはまだ何か別の要因があるような気がして仕方がない。北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたと解釈すれば、宮
	崎に残る西都原古墳群や日向神話の持つ意味も理解できる。
	「高天原=邪馬台国」から日向へ降りてきたニニギは、日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろ
	うか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に
	住んだイワレビコなのだ。安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほ
	ど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の
	場合も同じ傾向を示している。ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した
	時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷
	の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という史観と合致
	する。
	■私は九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、
	今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それ
	とも九州の他の地域から来たのかまでは、わからない。だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、
	西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養さ
	れて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。
	それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そして
	それらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番
	合理的である。







田中文也氏




















高橋ちえ子氏







	高橋氏も資料がなく、私同様話だけでの説明だったが、誠に申し訳無いことに、話の趣旨が私には殆ど理解できなかった。「巫女」を
	中心にしたような話のようでもあり、宇佐神宮が邪馬台国とどう結びつくのかもわからなかった。おおむね精神的な神道の話が中心だ
	ったのだろう。




昼食









昼食後、安本美典博士・司会による討論会









	論争と言っても、田中さんを除き全員が九州説論者で、おまけに金田さんと私は同じ地域を比定しているし、「論争」にはならなかった
	と言ってよい。安本先生が、全員の論旨の不明点を突いて、それに論者が答えるという形式を最初取っていたが、その内会場から「儂ら
	にはいつ喋らせるんや」という声が出て、それに安本先生が応えだしてからはもうハチャメチャという感じになった。
	安本先生が「質問は一人3分以内、自説を述べるのはやめて下さい。」と言っても聞かず、滔々と自説をしゃべり出す爺様たちが続出し
	て、とても「Q&A」にもならなかった。






	「吸血鬼を知ってますか?」という質問が出て、安本先生が「は? 吸血鬼ですか? あのドラキュラの?」と言うと、質問したおっさ
	んは、「きつき」は「きゅうけつき」のことなんよ、とか訳の分からん事を言い出して、事務局の連中が無理矢理着席させていた。呑ん
	でいるようにも見えなかったが、常時酔っているおっさんだったのかもしれない。









◆ 終了して、全員での記念撮影。しかしまぁ、まともな討論会と思えば腹も立つが、宇佐市の
観光協会に付き合ってのお祭りなのだと思えば、なかなか地域色濃い祭りではあった。



閉会の辞 梓書院田村社長




◆ 挨拶に混じって、田村社長はちゃっかり「季刊邪馬台国」の宣伝をしていた。まぁ、共催だしね。



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