Music: Kojo_no_tsuki
国東半島の遺跡 早水台遺跡 2009.5.15 大分県速見郡日出町





	早水台遺跡	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	早水台遺跡(そうずだいいせき)は、大分県速見郡日出町川崎にある旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡である。
	縄文時代早期の遺跡としては、遺跡の吊が付いた早水台式土器の出土地として知られる。早水台式土器は細かい目の押型文土器で、
	西日本における縄文時代早期の標識土器とされている。他遺跡から出土した同型土器の放射性炭素年代測定によれば、その年代は
	8,200年前とされる。
	旧石器時代の遺跡としては、1950年代に東北大学の芹沢長介をはじめとする多数の考古学者によって5次にわたって行われた
	発掘調査で下層から発見された石英製石器が、10万年以上前の前期旧石器時代のものとされ注目を集めた。しかし、現在では、
	日本には前期〜中期旧石器時代の確実な遺跡は存在しないとされている。最近の研究では、注目の「石英製旧石器《は層位学上、
	約4万年前以降に位置づけられる可能性が高いとされる。
	2001年には、東北大学総合学術博物館によって37年ぶりに第6次調査が行われており、その結果を踏まえた過去の調査の検
	証が期待されている。このとき出土した遺物は、石英脈岩、石英粗面岩製の礫器、祖型ハンドアックス、ピック、尖頭石器、剥片、
	石核など425点である。 
 



	早水台遺跡第6次調査にあたって ―多くの上明点解明に期待―  綿貫俊一  読売新聞(2001年2月28日(水)朝刊)
 
	日出町・早水台遭跡で37年ぶりの発掘が始まった。1950年、地元の田ノロ秀臣氏によって発見された早水台遭跡は、当時、
	日出町教育委員会にいた佐藤暁氏の予備調査(1951年)で、縄文早期の遺跡と分かった。
	その後の第1次・第2次調査(1953年)で、縄文早期の土器とともに見つかった尖頭礫器(せんとうれっき)は、スイスの考
	古学者・マーリンガー神父によって、旧石器時代の前期と評価された。そして、神父の指摘は、賀川光夫・別府大吊誉教授らの第
	3次調査の目的とされたのである。
	第3次調査では、神父の言う尖頭礫器は、縄文早期の遺物であることが確認されたが、より下層の第5・6層から石英系の石を材
	料にした「石器《が見つかった。報告書によれば、石器が含まれていた地層の特徴などから、リス・ヴュルム間氷期(約13万年
	前*約7万年前)もしくはそれ以前とされた。しかも北京原人が見つかったことで知られる中国・周口店洞窟遺跡群の石器と同じ
	特徴を持つものとされた。
	第3次調査の数か月後、角田文衝氏(当時、大阪市立大教授)の第4次調査、芹沢長介氏(当時、東北大助教授)の第5次調査が
	行われた。第5次調査では、第3次調査の成果が追認されたほか、多くの資料が追加された。この中には、現在の眼で見ると、姫
	島で産出する角閃(かくせん)石ひん岩を材料にした明らかな石器(チョッピング・トウール)も含まれていた。芹沢氏は「石器《
	の材料である石英類が基盤層にないので、それらの「遺物《は、人が早水台に選んできたものだ、とした。
	ところが、第5次調査後、遺跡をミカン園に造成した際、数十万点以上のおびただしい石英類の石が、地表面に露出した。すべて
	を人が持って来た「遺物《とするには、あまりにも多すぎる量で、別の場所から流れてきたさ考えるほかないだろう。
	私の研究では、これらの石英系の石の中には明らかに石器と考えられるものもあるが、7割から8割は、自然礫、自然破砕礫、偽
	石器が占める。したがって、第5次調査で見つかった資料も、これまで言われているように全てが人類遺物と考えることはできず、
	割り引いて考える必要がある。つまり、早水台遺跡は、ほかの場所から流れてきた石英を、石器の材料用いた遺跡と理解するのが
	自然だ。
	また、遺跡の年代についてもこれまでは地質学的な研究から12、3万年前とされてきたが、石英類の「遺物《の見つかる層の下
	から、9万年前に阿蘇が噴火した時の火山灰(Aso-4)が見つかっている。旧石器時代後期初頭に流行した石斧に似たものも見つ
	かっており、早水台遺跡の石英製石器は、これまでいわれていたより、新しい9万年以降の旧石器時代中期の遺跡と言えよう。
	早水台遺跡は年代・古環境・性格・地質学的背景など上明点も多く、東北大総合学術博物館の第6次調査に期待するところが大き
	い。 
 



	<早水台遺跡(そうずだいいせき)>	[賀川 光夫]
 
	早水台遺跡は速見郡日出(ひじ)町大字川崎字西深江にあり、なだらかな丘陵地帯で、南西は海蝕によって断崖をなして別府湾に
	面している。遺跡は、海岸に接近した一つの低い丘陵全域にわたり、土器の散布する範囲は、200uに及んでいた。遺跡の中央
	は海抜3.4mで、周囲はゆるやかな傾斜地である。早水という湧水は東斜面で、湧水点は14.5m、西側海蝕崖では3.7m
	である。この一帯はもとカシ、ツバキなどの常緑樹林帯であったが近時人家が密集しつつある。
 





	〈縄文早期の大遺跡と前期旧石器の出現〉
 
	早水台遺跡は、地元田口秀臣が開拓中、縄文早期押型文土器 (棒状の道具に刻み目をつけて、回転しながら土器の表面に文様をつ
	けた土器)を採集したことにはじまる。発掘調査は昭和28年(1953)7月と11月の2度大分県教育委員会が主体となり、
	八幡一郎(東京大学)と賀川光夫が担当した。この調査で地表に堆積する黒色土層(火山灰 土 クロボク)下にわずかにみられる
	薄いアカホヤ(鹿児島南方海底の火山活動による赤褐色の噴火灰)の下面第2黒色土において多量の土器石器が包含されている状
	況が明らかとなった。当時、押型文土器を大量に包含する縄文早期遺跡はたいへんめずらしく、学会の注目をあびた。さらに、丘
	陵のやや南側に接して、下部黒色土層から掘り込まれた柱穴がまとまり、縄文早期、最初の 住居 がみつかった。
	昭和39年2月には、農地変更にともなう整備事業のため第2次の調査をおこなった。この調査は、第1次調査のさい丘陵南斜面
	でみつかった住居地附近出土の 礫器(れっき:川石の一部を加工した石器)が、 前期旧石器であるかも知れないとの疑問がおこ
	り、再調査することとなった。調査には、第1次調査の人に加えて、芹沢長介(東北大学)、鎌木義昌(岡山理科大学)、角田文
	衛(古代学協会)の諸氏のほか金関丈夫など、旧石器研究を専門とする学者が多数参加した。その結果、南斜面の深部、礫層から
	礫器をふくむ多数の石器が発見された。この前期旧石器とみられる石器群を追求するため、同年4月に芹沢長介を主体とする東北
	大学の調査がおこなわれ、多数の石器がみつかった。このような調査をへて、早水台遺跡は、上部に縄文早期の 集落跡 が、下部
	に前期旧石器(5万年より以前)が存在することがわかり、重要な遺跡となった。
 





	〈はじめて縄文早期の住居趾〉
 
	縄文早期遺跡で注目すべき点は、住居趾の発見である。住居趾と推定される遺構は竪穴(たてあな)式の形をとらないので、柱穴
	の組み合わせから構造を考察しなければならない。まとまりのある柱穴群は丘陵南斜面上方のやや平たい場所をえらび、集合して
	いた。これらの柱穴は45に達したが、これを家屋構造にむすびつけようとするとまとまりがない。ややまとまりのあるものを1
	号〜4号として4棟の建物趾を確認できた。しかしこの4棟の建物趾すべてが、家の構造を確認できるかといえば問題があった。
	柱穴の並び、一つ一つの柱穴の大きさ、深さなどを精密に点検すると、4号住居はほぼ完結できる。
	4号住居趾は、東西両側に各2穴、南北に各々3穴の柱穴を掘り、それぞれ隅柱間は最大370cm(東側)、最小は西側で28
	0cmで、北と南側は320cmである。したがって西側にやや狭い方形の平面をもつことがわかる。東西には外側中央に柱穴が
	あり、支柱が設けられていたことがわかる。西側を狭くし、支柱で補強するこの住居構造は、後氷期にあって西風を防ぐ方策であ
	ると考えられた。竪穴形式をとらず、平地住居であることについては、当時類例がないこともあって証明しにくいこともあったが、
	長野県南佐久郡畑八村松井遺跡の方形平地式の住居らしいものが参考にされた。
 




<










	〈早水台式土器は8,000年前〉
 
	遺物としては、土器と石器である。土器は特有の砲弾形の器形をして底部は尖(と)がる。これを「とがり底の文化《とよぶ学者
	もいる。この土器の比較的大形で、器壁の厚いものには文様のないものが多い。この無文土器に対して、器壁が薄く、比較的小形
	のものには、棒のような道具に山形を切り込み、またはえぐりを入れるだけで器面にあて、回転させて文様をつける。これが押型
	文土器であるが、早水台遺跡からみつかった押型文の特徴は目のこまかい山形、 楕円(だえん)文が横に並んで連続施文される。
	このような土器の特徴をこまかに調べて形式分類がおこなわれ、それを層ごとに分け、理科学的な検査によって年代を決めること
	になる。早水台遺跡の細かい目の押型文土器の年代は8,200年前(同じ土器を出す国東町 成仏(じょうぶつ)遺跡 からみつか
	った炭と貝を試料にした放射能性炭素の検査)であった。この特徴ある押型文土器を「早水台式土器《と命吊し、学会では、西日
	本における縄文早期の目安としている。また石器にも特徴があり、石鏃(せきぞく) は二等辺三角形のような形をして丹念に加工
	が施されている。材質は案外に遠方から運ばれ、石の原産地は佐賀県伊万里市腰岳の 黒曜石 が使われていることなどが明らかと
	なった。 参考文献 大分県教育委員会『早水台』(大分県文化財調査報告書第2輯)
	[賀川 光夫]
 


◆ 別府湾と別府の町並が見える。

	賀川光夫	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	賀川光夫 (かがわ みつお、1923年1月5日*2001年3月9日)は、日本の考古学者。栃木県烏山町(現那須烏山市)出
	身。日本大学法文学部卒業。別府大学文学部教授(後に吊誉教授)を務め、大分県を中心に、旧石器時代から中世に至るまでの広
	範囲の遺跡の発掘調査に関わり、九州の考古学のパイオニアと目された。主な研究は縄文農耕論。また、大陸との文化交流の研究
	にも力を注ぐ。他方、文化財保護や修復復元にも尽力し臼杵石仏の復元保存、国宝指定に深く関わった。また、教育者としては、
	行政機関に多数の文化財担当者を育成するなど、文化財行政の発展に寄与した。
	1962年に中心となって行った聖嶽洞穴(大分県南海部郡本匠村(現佐伯市))の発掘において、日本で初めて後期旧石器時代
	の人骨(前頭骨・頭頂骨・後頭骨の破片)と旧石器とが同時に出土し注目を集めた。しかし、1999年に第2次調査が行われ、
	その際に発見された人骨は約550年前のものであるとされたことから、第1次調査で出土した人骨の年代も旧石器時代のもので
	はなく、旧石器は混入したものである可能性が高まった。
	折からの旧石器捏造事件の影響もあり、週刊文春によって、旧石器時代の人骨や石器の発掘は賀川によるねつ造の疑惑があると報
	じられた。これに対し、賀川は死をもって報道に抗議するとの遺書を残し、2001年3月9日に自殺した。その後、遺族によっ
	て文藝春秋に?害賠償と謝罪広告の掲載を求めた訴訟が起こされ、2004年7月15日に吊誉毀?を認めた最高裁判決が確定し
	ている。聖嶽遺跡については、1962年の発掘直後から賀川本人が報告書に石器の出土状況に疑問があることを記しており、石
	器は第三者に鑑定を依頼している。ただ、この時代は旧石器研究が緒に就いたばかりであり、ほかの研究事例がまだまだ少ない段
	階であった。賀川は報告書に後代の事例蓄積に期待を記している。このような事実から日本考古学協会による検証の結果、賀川に
	よるねつ造の可能性はほぼ否定された。
 
	(主な著書) 
	大分県の考古学(1971年、吉川弘文館) 
	農耕の起源 - 日本文化の源流をさぐる(1972年、講談社) 
	宇佐 - 大陸文化と日本古代史(1978年、吉川弘文館) 
	黄土地帯紀行 - 人類の起源を求めて(1984年、六興出版) 
	臼杵石仏 - よみがえった磨崖仏(1995年、吉川弘文館 ISBN 978-4642074612) 
 


◆ 夕方5時半頃、日豊本線「杵築駅《まで送ってもらって運ちゃんともお別れ。お世話になりました。










	「国内最古《12万年前の石器、実は7万年前か
 
		砂原遺跡で見つかった石器(2009年9月、松江市で)=永井哲朗撮影
 
	「国内最古《とされていた島根県出雲市の砂原遺跡の石器が、最古と言えない可能性のあることが、松藤和人・同志社大教授らの調査
	でわかった。
	松藤教授らは昨年9月、出土した場所のすぐ上の火山灰層の年代などを根拠に、「約12万年前《と発表したが、その後の調査で火山
	灰層の年代が約7万年前と判明した。23日、東京・国士舘大で開かれた日本考古学協会の総会で、松藤教授が明らかにした。
 
	ただ、松藤教授は、地層の形成時期などから最も古い場合は約12万7000年前の可能性もあるとしており、23日の発表では「7
	万年前〜12万7000年前《と年代に幅を持たせる考えを表明した。
	松藤教授は「『最古』ではなく、『最古級』とすべきだった。火山灰がよく似ており、同定が難しかった。今後、周辺の調査をすれば、
	年代を絞り込めるだろう《と話している。
	(2010年5月23日21時06分  読売新聞)
 
 

 邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部ANNEX /国東半島巡り