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国東半島の遺跡 国見ふるさと展示館 2009.5.16 大分県国見町








◆ この小高い丘の上に「岐部城《があった。岐部氏一族で、元和6年に日本人として初めて
ヨーロッパに渡ったペトロ・カイス・岐部、の像が建てられた記念公園の裏山が岐部城である。

 









◆ ここが「岐部城主の墓《だそうである。公園駐車場の傍らに岐部一族の墓石があり、その後に登城口がある。



	岐部城
	
	紀氏の流れをくむと言われる岐部氏の居城。宇佐神宮領の地頭として派遣されたがこの地に土着し領主となる。国道212号線が岐部
	川を渡るあたり、竹田津方面に向いて左側の山上が城跡。麓の公園にペトロ・カスイ・岐部神父の像が立つ。石垣原合戦で岐部山城入
	道玄琢が戦死して滅亡した。 
	岐部城は、鎌倉時代に岐部成久によって築かれた。成久は、弘安の役にも参陣して戦功を立てている。岐部氏は、水軍の将であったと
	考えられ、応仁2年には岐部茂実は、明国まで渡り修交貿易を行ったと云われる。岐部氏は、大友氏の豊前制圧に尽くしたが、慶長5
	年に大友吉統が石垣原の合戦で敗れ、大友氏再興がなされなかったが、それ以後岐部城の歴史は伝わっていない。 
	城跡は、城址公園として一部整備されていて、石垣が復元されている。城の規模自体は広くもないが、山頂部を中心に数段に渡って曲
	輪が配置されている。 
	戦国時代、岐部氏は大友氏に属した武将で、一族は、熱心なキリシタンだった。ペトロ・カスイ・岐部もセミナリヨで学び宣教師とな
	る。徳川家康の禁教令によってペトロカスイ岐部は国外追放となり、当時日本人として初めてローマに渡る。その後日本へ戻り布教を
	広げるが、寛永16年(1639年)仙台で捕まり、江戸で処刑された。











◆ ここでお昼になったので、資料館を見学する前に側にあった「城山亭《という食堂で「古代定食《を食べた。アカ米と野菜・刺身。



◆ 資料館(展示館)は明治期に建った庄屋屋敷をそのまま使用している。











◆ この後、この鬼塚古墳を訪ねる。





◆ 私も今まで相当数、縄文・弥生・古墳と古代遺跡を廻ってきたが、ここにあったこの「火鉢《なるモノには始めてお目に掛かった。
内部の焼け焦げといい大きさといい、これは我々が知っている火鉢ではなくて、おそらくこの中で薪を燃やしていたのではないかと思う。









◆ これが果たして線刻壁画だろうか? 左下、右下を除けばまるで落書きだ。しかし左下の画には、なにやら貴重な情報が埋まっていそうだ。



◆ これも実に綺麗な勾玉である。こんなに綺麗なガラスの勾玉はそうそう無い。

















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