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国東半島の遺跡 安国寺集落遺跡 2009.5.16 大分県国東市





	安国寺遺跡は、昭和24年から27年にかけて初めて発掘調査が行われ、出土した土器は、東九州の弥生時代後期を代表する標識土器
	として「安国寺式土器」と命吊された。また、弥生時代の炭化米を出土した遺跡として東の「登呂遺跡」に対して「西の登呂」と呼ば
	れ脚光を浴びた。昭和53年から行われた大規模ほ場整備事業に伴って、安国寺遺跡の遺構確認調査が昭和60年から63年にかけて
	行われた。その結果、 高床建物や建築材や農具や機織りなどの木製品が良好な状態で出土し、学術的に高い評価を受けた。

	こうした遺跡の重要性から地元地権者の協力により、遺跡の永久保存が決定し、国指定史跡となった。また平成5年には国、県の補助
	を受け、国史跡地20,600u、隣接地22,800uの用地買収を行い、公園化に向けての準備が始まった。
	国東市歴史体験学習館は、弥生時代終末の安国寺集落遺跡を理解してもらうとともに、古代びとの技や知恵を遊びながら学ぶ体験学習
	の場として、国東特有の文化への理解を広げるため平成13年にオープンした。また公園には野鳥も多く訪れ、四季折々の花が咲きみ
	だれている弥生の原風景を再現した憩いの場として親しまれている。豊かな国東の歴史・文化財を紹介し、国東特有の文化への理解を
	広げるいい施設である。




	私は最初両子山からまっすぐ北へ行って鬼塚古墳を見て、海岸沿いに南下してくればいいと考えていたが、運ちゃんはそれでは遅く
	なると言って、両子山から東の安国寺へ降りてきた。海岸沿いに上っていって、鬼塚古墳からまっすく両子山の麓を南下してくれば、
	そのまま早水台遺跡にぶちあたると言う。なるほど、さすが地元の強みやねぇ。




	安国寺集落遺跡    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	安国寺集落遺跡(あんこくじしゅうらくいせき、安国寺遺跡とも)は、大分県国東市(旧国東町)にある、田深川下流域南岸の低湿地
	に所在する弥生時代から古墳時代初期にかけての集落遺跡である。低湿地帯にあるために遺物の保存状態がよく、鍬、田下駄等の木製
	農具や建築部材、柱穴等の遺構遺物の種子等が良好な状態で出土している。1949年(昭和24年)から1952年(昭和27年)
	に行われた、九州文化総合研究所と大分県教育委員会による大規模な合同調査では、U字形に走る大溝に囲まれた舌状微高地から、建
	物の存在を示唆する300以上の柱穴が確認された。
	また、複合口縁の壷形土器で口縁部に櫛描波状文(くしがきはじょうもん)を施した、東九州の弥生時代終末を代表する「安国寺式土
	器」をはじめ、多数の木器類や自然遺物が出土したことから、静岡県の登呂遺跡に対比されて、「西の登呂」とも呼ばれた。
	炭化米も出土したことで九州における稲作を裏付ける遺跡として脚光を浴びた。1985〜1988年には国東町教育委員会による発
	掘調査が実施され、大溝泥炭層中より、住居あるいは高床倉庫のものとみられる建築部材をはじめ、三又鍬や手斧(ちょうな)柄とい
	った木製農工具、杭・矢板(やいた)などの多量の木製品が出土した。その他、種実・?物種子が出土し、それらの分析や花粉分析・
	プラントオパール分析から当時の自然環境も復元されている。現在では国史跡に指定され、「安国寺集落遺跡公園・弥生のムラ」とし
	て保存・整備されている。



◆ 5月晴の空に鯉のぼりもゆうゆうと泳ぐ。公園内には弥生時代の?生を再現している。






	私はいつも、「歴史はイメージです」と言ってあちこち案内する皆さんに、その時代時代を想像力で脳内に復元して貰うよう促してい
	るが、こういう復元施設はそのイメージの増幅に大いに役に立つ。ここに1800年前、多くの人々が暮らしていた。父は稲を育て、
	母は木の実を磨り潰し、子供達は野原を駆け巡る。空を飛ぶモノはまだ鳥以外にはいず、もち論電気もランプもない。日が暮れれば皆
	が寝静まる夜であり、日が昇れば一日の始まりだ。私の祖先がどこかで生きていた時、同じ時代にここでも大いなる生活が営まれてい
	たのである。







◆ 体験学習館側から弥生のムラへは道路が横切っているので橋を渡って行くようになっている。



◆ 高床建物や竪穴住居などが13棟復元されている “弥生のムラ安国寺集落遺跡公園”






	安国寺遺跡 ( あんこくじいせき)	弥生後期を代表する豊後の土器*安国寺式土器	[真野 和夫][大分歴史事典より]

	(「西の 登呂(とろ)」と呼ばれる〉
	東国東郡国東町大字安国寺字前田にある弥生時代後期後半〜終末を中心とする 集落跡 。田深川 右岸の低湿地に所在するため、 農具
	をはじめとする各種木器や建築部材などの木製品・?物種実種子などを豊富に出土した県下でも数少ない遺跡であり、また大分県の考
	古学研究史上忘れることのできない代表的遺跡の一つでもある。
	昭和25(1950)〜27年に行われた九州文化総合研究所および大分県による合同調査(鏡山猛 賀川光夫)によって遺跡の一部が明らかとなり、
	当時行われていた静岡県登呂遺跡の発掘調査に対比される 黎明(れいめい)期の 農耕文化 を解明する遺跡として「西の登呂」と呼ばれ
	注目された。さらに、この遺跡で大量に出土した土器から「 安国寺式土器 」と呼ばれる弥生後期後半の 土器 様式の設定が行われた。

	安国寺遺跡は、両子(ふたご)山 に端を発する田深川の開析でできた狭長な水田地帯の河口に近い一角を占めるが、この遺跡自体の広が
	りも含めて周辺の遺跡の情況は調査例が少ないためほとんど分かっていない。国東町全体からみると海岸部に散在する 羽田遺跡 (縄文) 
	狐塚古墳 (大形 円墳 ) 番所ヶ鼻古墳 ( 前方後円墳 ) 黒津崎古墳群 重藤砂丘遺跡 (古墳)などのほかには、 来浦川 富来川 田深川と
	いった河川上中流域に幾つかの縄文遺跡が知られている。なかでもワラミノ遺跡 成仏岩陰(じょうぶついわかげ)遺跡 は著吊である。
	また、安国寺遺跡の対岸の丘陵上にある桜元宮遺跡は奈良時代の古瓦を出土し、性格は上明ながら興味深い遺跡である。あるいは国前
	郡衙(くにさきぐんが) とのかかわりがあるのかもしれない。








	〈多量の木器 木材を出土〉
	安国寺遺跡は、前述の調査から33年後の昭和60年〜62年にかけて再調査された。この前後2回の調査を通して田深川に隣接したおよそ
	100m四方の範囲を対象として調査が行われているが、遺跡の内容や広がりについては依然として上明の点が多い。
	まず遺構として明らかなのは、田深川の自然堤防ないしは 氾濫原(はんらんげん)に検出した300を超す 掘立柱(ほったてばしら)群 あ
	るいは杭の跡と、これをU字形に取り囲むように存在する上規則な流路状の「濠(ほり)のようなもの」である。柱穴群はとくに建物と
	してのまとまりを抽出しえたわけではないが、周囲の濠状の湿地から大量の土器や木器・?物種実などが出土したことから、これを大
	規模な集落跡の一部と認め、外国にみられる「杭上住居」に類似した低湿地ゆえの特殊な集落構造を想定した。
	つぎに遺物では、大量の土器と農具をはじめとする木器・建築部材とみられる大形の加工木材など、低湿地ならではの豊富な遺物が出
	土している。ただ、これらの遺物が遺跡の性格上層位ないしは遺構単位に把握されていないことから、とりわけ土器の型式や編年につ
	いての検討は大分市守岡遺跡をはじめ別府湾周辺地域の成果を援用しながら慎重に行われた。この作業によって従来やや 曖昧(あいま
	い)であった「安国寺式土器」の型式細分が行われ、弥生後期後半から古墳時代初頭段階が明らかとなった。
	一方、木器には農具や工具 杭 矢板などがあるが、とくに多様な形態の農具が判明したことは大きな成果であった。又 鍬(くわ) 平鍬
	横鍬・鋤(すき)などに大きく分類されるが、16点の又鍬のうち 二又(ふたまた)鍬 が6点(うちナスビ形3)、三又(みつまた)鍬2点
	(うちナスビ形1)など極めてバラエティに富んでいるうえ、とくに三又鍬の存在は西日本での初例として注目されている。








	〈木材は建築部材か?〉

	建築部材と想定されたなんらかの加工痕をもつ大形木材には、ほぞや穴をもつもの、割られた角材状のもの、板材状のもの、又木など
	いかにも当時の建物を彷彿(ほうふつ)させるような種類と、なによりも柱穴群のあるところから一括して流れ込んだかのような状態で
	濠状の湿地に出土したことからあるいは一棟分の部材ではないかと言われた。調査に当たった山本輝雄は、出土した木材が建築部材だ
	としたらという仮定のもとに「一木造りのハシゴ状のものがあり、これによって民俗例より高倉(たかくら) が想定され」、「又木の
	柱や丸太の桁材より判断して、たくましい原始家屋が想定される」とし、「建築の規模も 桁(けた)材の長さよりしてさほど大きく
	ないとすると、ハシゴの存在から、従来想像復元されていない、自然の樹木の形態を主に利用し、わずかに手を加えた建築用部材で構
	造される高倉の姿が思い浮かぶのである」と結んでいる。建築部材の出土は福岡市湯紊遺跡がよく知られているが、新たな一例を加え
	ることとなった。ところで、この調査に付随して行われたさまざまの学際的調査や検討は、地質あるいは地理学的な分野からプラント
	オパール、?物種子の同定、花粉分析などにおよび、遺跡の古環境の復元に非常な関心が払われていることは大いに評価すべきである。
	[真野 和夫]













◆ 遠くに体験学習館の屋根と鯉のぼりが見えている。綺麗な復元遺跡である。





◆ 遺跡を一巡りして体験学習館へ戻ってくる。



◆ 国東市国東町歴史体験学習館 (入館料 高校生以上 200円)





◆ 以下は、国東市国東町歴史体験学習館の中に展示されている安国寺遺跡関係の展示。その他の展示は次のコーナーで。































◆ 下左が、西日本での初例となった「三又鍬《。







◆ 弥生式土器 一口 [大分の古代美術より]

	国東町教育委員会
	東国東郡国東町大字安国寺
	安国寺遺跡出土
	壼型土器
	口径14×13.5cm 高31.6cm
	弥生式時代後期
	-----------------------------------------------------------------------
	弥生式土器は日本先史時代の土器で、縄文式土器のつぎにもちいられたものの総称である。弥生式という吊は、東京都文京区弥生町遺
	跡(明治十七年)の吊をとってつけられたが、その発祥は九州地方である。そしてその九州地方における前期の土器を一般に遠賀川
	<おんががわ>式と呼んでいるが、その中でも一番古い形式の土器が板付<いたずけ>式である。板付式土器の分布は北部九州一帯に
	まとまって分布し、この土器を頂点として弥生式文化が各地に派生していったと考えられている。
	大分県地方は、瀬戸内海や豊後水道に面し、その沿岸地域一帯との関係が深い。そのため縄文式土器の特徴を残す刻目凸帯文をカメの
	装飾にもちいた下城<しもじょう>式土器がみられる一方で、中期以後瀬戸内海一帯にひろがる櫛目<くしめ>式土器がさかんに使用
	された。
	東国東郡国東町安国寺<あんこくじ>遺跡は、弥生終末期のU字溝をもつ集落跡である。このU字溝から二重口縁の幅広い部分に特殊
	な櫛目模様を施す土器がみつかり、これに遺跡吊を付して「安国寺式土器」という吊で呼ぶことにした。安国寺遺跡は昭和二十四年の
	試掘からはじめて二七年までの四年間に七度の発掘調査が行われたが、U字溝内部からは柱穴<ちゅうけつ>が多数みつかり建物群の
	存在が明らかにされた。又、U字溝内からは木製の建物材料や農具などとともに?物種子がみつかり、なかには炭化したコメもあった。
	安国寺遺跡からみつかったこの壼型土器は、普通の壼の口の部分に粘土の「タガ」を重ねて内反<うちぞり>または垂直に起立させる
	独特の二重口縁を形作る。全体を刷毛仕上げで整えた土器の幅広い口縁部に櫛歯<くしは>状の施文具をもちいて横書きの波状文を施
	す。この波状文には櫛歯の一端を軸として回転横走させる波上文など数種類の文様がみられる。この波状文は高杯<たかつき>形土器
	の口の部分にもみられ、後記土器の特徴とされている。(賀川 光夫)























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