Music:北帰行

第156回例会

紫金山古墳 2010.07.25(日)茨木市









	昔来たことのある「縄文喫茶店・まだま村」がこの近くだったのを思い出し、谷をそこへ降りていって昼食を取った。最初、
	喫茶店のおっさんは、「持ち込みはどうも・・」と渋っていたが、我々が、「えやないの、弁当くらい!」「けちけちしな
	はんな!」という声に仕方なく「じゃ外の、その角のほうでお願いします。」と来た。おっさん、おばはんパワーは強いね。



上の写真の右手前、ベンチの付近で昼食にした。



大阪第二警察病院の敷地内に幾つかの古墳があり、有名な紫金山古墳もここにあるのだ。




	青松塚古墳(せいしょうづかこふん)  茨木市室山1丁目
	
	警察病院の敷地内にあり、青松寮の傍にあることからこの名がつけられたという。径20mほどの円墳で横穴式石室がある。
	近くに「海北塚古墳」、「紫金山古墳」とが点在する。




	病院の中を通り抜けて紫金山古墳に向かう。上の写真は、駐車場の金網に沿ってそれらしき広場を探していてぶち当たった
	「古墳」である。最初ここが紫金山古墳かと思ったが、一度行ったことのある郭公さんも「いやぁ、こりゃ紫金山古墳じゃ
	ないですねぇ。」という。雑木林のなかに石室南側開口部が見える。




	墳丘の盛り土は消失して横穴式石室が露出しており、現状では円墳の形態をとどめていない。帰宅して調べて判ったが、こ
	こは「青松塚古墳」という、古墳時代後期の円墳だった。墳丘からは円筒、家形、人物などの埴輪が出土したという。




	「横穴式石室の開口部」。石室の開口部は南に面しており、石室の規模は長さ3.3m、幅2m、高さ2.4mとされている。開口部
	に見られる天井石は異様に大きい。この古墳は病院の敷地内の、実にわかりにくい場所にあり、訪れる道程も明確にされて
	いない。








	上下の写真は北側から見た「石室」である。北側も石室が開口しているが、もともとは閉じられていた。盗掘等何らかの理由で
	開けられてそのままになっているものと思われる。






	これで見ると、完璧に片袖式の石室のようだ。「石室の内部」を見たのが上右の写真。側壁の石積みが、石の大きさは不揃いで
	あっても整然としており、しっかりしているように見える。この古墳から鏡、玉、銀製品、銅製品、鉄製品や須恵器、土師器な
	ど実に多種で豊富な副葬品が出土した。古墳の築造時期は6世紀頃と考えられている。



さらに紫金山古墳を探して、藪を分け入る。






	紫金山古墳	茨木市室山一丁目 

	大阪府茨木市の丘陵頂部にある典型的な古墳時代前期の前方後円墳である。昭和22年、山麓に病院の建設の計画が持ちあがり、
	水源地としてその山頂に水源地建設を造ることとなる。その際、石室の一部が露出していたため、同年(1947)に京都大学
	と大阪府によって共同発掘となる。梅原末治、小林行雄が調査。その結果、12面の銅鏡やいろいろの鉄製品、副葬品が出土。
	1992年大阪府教育委員会が地中レーダー探査を行っている。




	「紫金山古墳」は北大阪けいさつ病院のほぼ北東側に位置し、高さ約70mの台地上にある。青松塚古墳から駐車場のほうまで
	戻って来て、標識に従って左折する。細い道を道なりに進むと上の写真のような紫金山古墳への標識がある。しかし、めちゃく
	ちゃわかりにくい場所にある。 
	山の尾根を利用して造られた東向きの前方後円墓で、墳丘長100m、後円部径76m、前方部幅40mの墳丘には円筒埴輪列、
	葺石がある。後円部上半は長方形をなす。墳丘主軸と直交、やや南にずれて長さ7.0m、幅1.1m、高さ1.2mの竪穴式
	石室がある。
	副葬品は石室内で直径36cmもの勾玉文帯神獸鏡をはじめ、方格規矩四神鏡、三角縁神獸鏡の銅鏡12面、玉、筒形銅器、紡
	錘車形石製品、刀剣類、直弧文を刻んだ鍬形の貝輪、石製腕飾類、短甲、籠手、鉄製農工具がある。石室壁体上部外縁でも刀剣、
	漁具、馬鍬が出土する。現在、大阪府公有地として大阪第二警察病院の裏に保存されている。





	前方後円墓
	「前方後円」とは「前部が方形(四角形)、後部が円形」という形を意味している。後円部の中央には、古墳の主軸に直交する
	南北方向に、竪穴式石室が築かれている。竪穴式石室は、長さ約9m、幅約4mの大きさに掘られた土壙(穴)の底に、U字型
	に粘土で床を築き、その周囲を安産岩と片岩の扁平な割石で囲んで室を造り、上部に花崗岩の天井石が7枚乗せられていた。
	石室の規模は、約7m、幅約1.1m、高さ約1.2mで、内部のU字計の上に割竹形木棺が置かれていたと思われる。この棺
	内や棺外からは、副葬品がたくさん出土した。




	<棺内出土物>

	@ 石室中央近くの粘土床上に、硬玉製の勾玉・なつめ玉・碧玉製の管玉などの玉飾があり、埋葬された人は、北を頭にして伸
	  展葬されていたと推定されている。この周辺には王莽時代(紀元後8年〜23年)に造られた「新尚方作方格規矩四神鏡」1面も
	  置かれていた。
	A 棺外には、中国製及び?製(ほうせい)の三角縁神十鏡10面と直径35.7cmの大きな?製勾玉文鏡1面。鍬形石6個・車輪石1個・
	  貝輪3個などが2群に分けらけれて石室の南・北端に置かれ、南端には堅矧板革綴の特殊な短甲一領も置かれていた。

	B そのほか石室内には、鉄刀・鉄剣・鉄短刀・鉄族・鉄斧・鉄・鉄鋸・鉄鑿・鉄錐・鉄鉈・鉄鎌、鉄鍬、筒型銅器・石製紡錘
	  車などの副葬品が置かれ、さらに石室外部の壁の壁体の上部外縁でも鉄刀・鉄剣・鉄鈷・鉄馬鏃などが出土。

	以上、『わがまち茨木 古墳編より』




	草の茂みの中に、説明掲示板が見える。掲示板のすぐ傍には、長辺の長さが10mくらいの巨大な長方形箱形のコンクリート製
	の塊がある。これが何か古墳と関係あるのかなと思ってしまうが、 昔の浄水場の施設の一部らしい。まぎらわしい。紫金山古墳
	はこの水源地工事の際に偶然発見されたといわれている。 








	この古墳が造られたのは4世紀(古墳時代前期)とされており、副葬品としてかなりの数の鏡(巨大な勾玉文鏡が一個)、腕飾
	りの他、多数の刀、剣、やじり、それに、鎌、鍬等の農耕具が発掘された。また、権力を象徴する儀式用の筒形銅器も出土して
	いる。このように多様で豊富な副葬品がこの古墳を有名にした。以下は、羽曳野にある「近つ飛鳥博物館」に展示されている、
	この古墳からの副葬品である。そうとうな権力者だったのが判る。


















	この場所は警察病院が給水用の水槽を設置するための工事が行われた所であり、このコンクリートの箱形塊はその時に造られた
	水槽がそのまま放置されたものであるという。




	古墳は前方後円墳で規模は全長約100m、後円部径約78m、前方部幅約40mといわれ、かなり大きなものであるが、現在、
	その全容を目で確認することはできない。もうどこからどこが古墳なのかもよく判らない。また石室は、後円部に当たる台地の
	上のこの場所から発見されたようで、竪穴式でその規模(墓壙)は長さ約10m、幅約4mといわれているが、埋め戻されてお
	り、説明がなければ、現状ではその存在を想像することすらできない。石室は南北方向に造られていたといわれているので、こ
	の水槽とは直交しているのではないかと思われる。







途中で幾つかの神社を写す。神社にハマっている郭公さんが撮った写真。







	2003年度紫金山古墳発掘調査現地説明会資料(2003.8.31. text only) 京都大学考古学研究室
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	1.はじめに
	2.発掘調査の目的
	3.発掘調査の成果
	4.出土遺物
	5.調査成果のまとめと今後の課題
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	1.はじめに

	 紫金山古墳は、後円部頂に給水用の貯水槽を建設する際に竪穴式石槨の一部が偶然みつかったことで、その存在が知られる
	ようになりました。1947年4・5月には、大阪府教育委員会古文化紀念物調査委員会の事業として、梅原末治を主査、小林行
	雄を担当者とする発掘調査がおこなわれました。その結果、竪穴式石槨の内部や壁体上部外縁から、12面の銅鏡をはじめとす
	る多様な遺物が発見され、古墳時代前期を代表する古墳として広く知られてきました。

	 しかし、1947年の調査で墳丘の測量がおこなわれ、また部分的な発掘により葺石や埴輪列の存在が確認されたものの、具体
	的な古墳の形態・規模・構造については、ほとんど明らかにされてきませんでした。こうした問題を解決するために、京都大
	学考古学研究室では、科学研究費の交付を受け、3年計画で紫金山古墳の墳丘調査を進めることになりました。2003年3月に
	墳丘の測量調査をおこない、本年度は、紫金山古墳の墳丘の規模と形態を明らかにするために、去る8月1日より発掘調査を
	実施しています。

	2.発掘調査の目的

	 今回の発掘調査は、紫金山古墳の墳丘の規模と形態をめぐる、以下のような課題を解決するためにおこなっています。

	(1)全長の確定
	 1947年の発掘調査と測量調査により、紫金山古墳は東西方向に主軸をとり前方部を東側に向けた古墳であることが明らかに
	なり、その全長は100mとされてきました。しかし、改めて墳丘の測量調査をおこなった結果、かつて古墳外と推定された部分
	にまで墳丘が広がる可能性がでてきました。そのため、古墳の主軸にそって後円部の西側斜面(第1トレンチ)と前方部の東
	側斜面(第2トレンチ)にトレンチ(調査区)を設定して墳裾の位置を確認し、古墳の全長を確定することにしました。

	(2)墳形の解明
	 1947年の発掘調査以来、紫金山古墳は「前方後円墳」として知られてきました。しかし、最近、その墳形を「前方後方墳」と
	みる説が提示されています。再測量の結果、「後方部」のようにみえる部分は、貯水槽建設に伴う墳丘の改変を反映している可
	能性があり、全体的にみれば前方後円墳である可能性が高いと考えていますが、決定的な証拠を得ることができませんでした。
	こうした問題を解決するために、本来の墳形を比較的良好に残していると考えられる前方部北側斜面(第3トレンチ)および北
	側くびれ部裾(第4トレンチ)にトレンチを設定しました。

	(3)外表施設と段築の解明
	 1947年の発掘調査により、紫金山古墳には葺石と埴輪列が存在することが確認されています。しかし、それは狭い範囲の調査
	による知見であり、葺石・埴輪列といった外表施設やそれと深く関連する段築の状況については、ほとんど明らかになっていな
	いのが実情です。そうした情報を今回設定した各トレンチの調査により獲得し、古墳の具体的な姿を解明する手がかりを得たい
	と考えます。

	3.発掘調査の成果

	 各トレンチにおけるこれまでの調査成果は以下の通りです。

	(1)第1トレンチ
	 後円部後端の位置、および後円部における葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために、墳丘の主軸に沿って後円部西側
	斜面に設定した、幅1.5m、長さ18mのトレンチです。
	 土層の検討により、トレンチ内で確認できる墳丘は、地山(古墳がつくられる以前から堆積していた土)を削り出してつくら
	れたことが明らかになりました。また、西側の自然丘陵との地形的な関係から、後円部西側斜面は、東西にのびる自然丘陵の端
	部を分断してつくられたことがわかります。トレンチ内では、2つの平坦面と3つの斜面を確認しました。上段斜面にはほとん
	ど葺石が残っていませんでしたが、中段および下段斜面では、下端に大振りの石(基底石)を据え、それより上の斜面に石を葺
	いた状況が確認されます。各平坦面では埴輪列を確認することはできませんでしたが、トレンチのおもに上半から、円筒埴輪と
	朝顔形埴輪の破片が出土しました。

	(2)第2トレンチ
	 前方部前端の位置、および前方部における葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために、墳丘の主軸に沿って前方部東側
	斜面に設定した、幅1.5m、長さ約19mのトレンチです。
	 土層の検討により、トレンチ内で確認できる墳丘は、地山を削り出してつくられたことが明らかになりました。トレンチ内で
	は、2つの平坦面と2つの斜面を確認しました。上側の斜面には葺石は残っていませんでしたが、その下側にとりつく平坦面上
	には転落した葺石が集積していたので、本来は葺石が存在したと考えられます。下側の斜面では下端にのみ葺石が残っていまし
	た。下側の斜面とその下側にとりつく平坦面の境が前方部前端であるとすると、紫金山古墳の全長は、1947年の調査時の推定よ
	り10m強大きくなることになります。トレンチ内からは、埴輪片が少量出土しました。

	(3)第3トレンチ
	 前方部北側側面における葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために設定した、幅1.5m、長さ約23mのトレンチです。
	 土層の検討により、トレンチ内で確認できる墳丘は、地山を削り出してつくられたことが明らかになりました。トレンチ内で
	は、2つの平坦面と3つの斜面を確認しました。各斜面には比較的良好に葺石が残っています。上段と中段斜面の葺石は、1・2
	トレンチの葺石にくらべて大振りの石が用いられています。現在まで埴輪列は確認されていませんが、他のトレンチにくらべて、
	比較的多くの埴輪片が出土しています。

	(4)第4トレンチ
	 墳形を解明するための手がかりを得るとともに、北側くびれ部における葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために設定
	したトレンチです。当初、南北4m、東西4mのL字形に設定しましたが、調査の結果、後円部と前方部が接する地点がトレン
	チ外に位置する可能性が高くなり、東側を南北4m、東西2mにわたって拡張しました。
	 現在掘削中で、本来の墳丘面を確認できていませんが、トレンチの西半では墳裾を反映している可能性のある傾斜変換線が丸
	みをもって西側へ続いていく状況が確認されています。また、東半では基底石としてふさわしい大きさの石が列状に検出されつ
	つあります。円筒埴輪片と鰭付円筒埴輪片が出土しており、とくに鰭付円筒埴輪片は拡張部分からまとまって出土しました。
	また、古墳に直接伴わないと考えられる須恵器の坏身、坏蓋、壺などが、それぞれ地点をわけてまとまって出土しています。

	4.出土遺物

	 各トレンチから埴輪片が出土しており、円筒埴輪、鰭付円筒埴輪と朝顔形埴輪があります。形象埴輪は確認されていません。

	 円筒埴輪は、(1)器壁が薄く、鍔状の高く突出する突帯をもつもの、(2)器壁が厚く、断面台形でそれほど高くない突帯をもつ
	もの、があります。口縁部は強く外反するもので、口縁部の直下に突帯を貼りつけているものもあります。突帯間隔、底部高
	(底面から最下段の突帯までの高さ)がわかるものはわずかですが、ともに約20cmとなっています。透かし孔の形状が確実にわ
	かる破片はみつかっていません。調整は、外面にタテハケ、内面にはヨコハケを施しています。底部内面にはケズリを施してい
	るようです。黒斑が認められます。
	 鰭付円筒埴輪の鰭部の幅や形状にはバラエティがあり、定形化以前のものと考えられます。
	 朝顔形埴輪は頸部が出土しています。肩部との接合部および頸部の中ほどに突帯を貼りつけています。外面調整は、ナナメハ
	ケの後にヨコハケを施しています。
	 本来樹立されていた位置を保って出土した埴輪は確認されていません。埴輪片の出土量から考えると、紫金山古墳に樹立され
	た埴輪はそれほど多くはなかったようです。

	5.調査成果のまとめと今後の課題

	 今年度の発掘調査により、従来明らかになっていなかった紫金山古墳の墳丘の原状を復元するためのいくつかの手がかりを得
	ることができました。その成果をまとめると以下のようになります。

	(1) 墳丘の大部分は地山を削り出してつくられたと考えられる。

	(2) 墳丘は、基本的に3つの斜面と2つの平坦面からなり、斜面には葺石をもつ。

	(3) 前方部前端の位置が従来の想定よりも外側にあることが明らかになった。これにより、100mとされてきた古墳の全長はさら
	  に長くなると考えられる。

	(4) 埴輪列を確認することはできなかったが、各トレンチで埴輪が出土していることから、墳頂などを中心に埴輪が樹立されてい
	  たと推定される。

	 一方、今後検討すべき課題も少なくありません。まず平面形態については、第4トレンチの様相からみて、前方後円形である可
	能性が高いと考えられます。しかし、墳形を決定するためには、今後ほかの地点にもトレンチを設定することによって、さらに検
	証する必要があります。今回各トレンチでみつかった斜面と平坦面がどのようにつながるのかについても、データが不足しており、
	具体的な立面形態の復元は今後の検討課題としたいと思います。

	 また、出土した埴輪については、今後の整理作業を通して、その形態や製作技術上での特徴を把握していきたいと考えています。
	周辺地域の古墳から出土した埴輪との比較から、その年代を明らかにし、さらに竪穴式石槨の副葬品から推定されていた古墳の年
	代観と総合することで、紫金山古墳の年代についての検討を進めていきたいと思います。


	謝 辞

	 今回の調査にあたっては、大阪府教育委員会・茨木市教育委員会のご指導を受け、大阪第二けいさつ病院からは、敷地の一部利
	用をご許可いただきました。また周辺住民の皆様のご協力を得て、順調に調査を進めることができております。皆様のご配慮に対
	して御礼申し上げるとともに、今後ともご支援のほどよろしくお願い申し上げます。




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