キリシタン遺物史料館 昭和62年9月にオープンした茨木市立キリシタン遺物史料館は、「隠れキリシタンの里」として有名な千提寺にある。茨木の 山地部の千提寺や下音羽は、キリシタン大名として高名な高槻城主であった高山右近の領地であったことから、キリスト教が布 教された。しかし、豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、徳川家康もキリシタン禁教令を発布したため、信者らは隠 れて信仰を続けた。この時信仰の対象となったものが、隠れキリシタンの遺物として、キリシタン遺物史料館に展示されている。 今回は私も含めて4人と、参加者が非常に少なかったので、直前でお願いして郭公さんに車を出して貰った。おかげで茨木駅を でてキリシタン資料館のある忍頂寺へ、またそこから茨木市内へと迅速に移動できて助かった。有名な紫金山古墳もみれたし、 たまには車で移動するのもなかなかオツなものだ。郭公さん、ありがとうございました。 開館時間 : 午前9時30分〜午後5時 ただし月曜日は、午前9時30分〜正午 入館料 : 無料 休館日 : 火曜日(その日が祝日の場合は開館) 祝日の翌日(その日が日曜日の場合は開館)12月29日〜翌1月3日 所在地 : 大字千提寺262 阪急バス忍頂寺行「千提寺口」下車 東へ徒歩900m 電話 : 072-649-3443 -------------------------------------------------------------------------------- 問い合わせ 茨木市 教育委員会 生涯学習部 地域教育振興課 〒567-8505 大阪府茨木市駅前三丁目8番13号 茨木市役所南館6階 電話:072-620-1686
隠れキリシタン 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 観音菩薩に偽装した聖母マリア像。隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府による禁教令の後、 1.強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)。 2.1873年(明治6年)、禁教令が解かれ、潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない 信仰者の群(カクレキリシタン)。 上記両者を特に区別せず指す俗称である。 <潜伏キリシタン> 禁教の時代において潜伏したカトリックの信徒達は、観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」 と呼ばれる)、キリシタン灯篭を建立したり、「納戸神」を祀るなどして、表向きは仏教徒として振舞いながら、ひそかに祈祷 文「オラショ」を唱えていた。また、メダイやロザリオ、聖像聖画、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵し、生まれた子に洗礼 を授けるなどして信仰を守った(これらの信仰の形式は地方によって異なる)。 幕末の開国後の1864年(元治元年)、長崎の大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」 と呼ばれる)から、海外でその存在が知られるようになった。しかしキリスト教はいまだ禁教であったため、存在を再認識され た信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった(浦上四番崩れ・五島崩れ)。 明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、いわゆる『外圧』によって、江戸幕府以来の『キリシ タン禁教令』が解かれることとなる。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、一部を除く 潜伏キリシタンが堂々とキリスト教信仰を表明し、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、祖先の信じたカトリ ック教会の信仰に復帰することとなった。また、一部の地域では「隠れキリシタン」という独自に進化した民間信仰として伝わ っている。現在では日本国憲法により『信仰の自由』が保証されているため、定義上潜伏キリシタンは現存しない。 <カクレキリシタン(離れキリシタン)> 江戸時代潜伏していたキリシタン達の中には、200年以上もの間司祭などの専門家の導きを受けることなく自分達だけで信仰を伝 えていったため、教義などの信仰理解が大きく変化し、仏教や神道などとも結びつき、元々のキリスト教から大きく変化して、 独特の日本的な俗信と化した者たちもいた。このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁され、再びカトリックの布教が なされても、これを受け入れずに復帰せず、今なお独自の信仰様式を継承している者達が、長崎県などに現在でも存在する。 これを学術的に「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)もしくは「離れキリシタン」と呼ぶ。 近現代において、自分たちの信仰がカトリックからかけ離れた俗信となった事実が認識されて以降も、カトリックに復帰すること は自分たちの父・祖父などから代々受け継いだ「カクレ」の信仰を否定することになる、という葛藤もあるといわれる。 近年、過疎や高齢化によって「カクレキリシタン」の数は次第に減少している(1981年:推定3万人)。最近まで伝承が継続されて きた地域として、長崎県の平戸島や五島列島などの地域が挙げられる。五島列島奈留島(五島市奈留町)の火葬場の裏には現在も 聖母マリアの姿をした墓がいくつも置かれている。現在も信仰を継承している地域としては、長崎県の生月島(平戸市生月町)が 挙げられる。 また、長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)には隠れキリシタンの“神社”枯松神社があり、現在も例祭が行われ ている。 なお、カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、信仰がキリスト教とかけ離れたというよりも、キリスト 教徒ですらなくなってしまったという場合もみられる。元来はカムフラージュであった仏教や神道の思想が本当の信仰になってし まい、キリスト教の信仰が完全に廃れてしまい、ただキリスト教起源の行事だけを、単なる「地域独特の伝統」として継承してい るに過ぎないというものである。 <教義の変容> 一部の隠れキリシタンの神話では、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、という ものがある。旧約聖書の嫉妬深く過酷な神とは明らかに異質なものとなっており、キリスト教の中核ともいうべき原罪の観念が消 滅するに至っている。 <その他> 福岡県三井郡大刀洗町には福岡県指定文化財の今村教会があるが、この教会堂が建つ今村地区は、1867年(慶応3年)に隠れキリシ タンが発見された場所である。 大阪府茨木市北部(千提寺地区)の高山右近旧領に大正時代まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家 は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。こうした中から、現在神戸市立博物館蔵 の重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」もこの地の旧家で発見されている。現在茨木市立キリシタン遺物史料館で 「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。 長野県の木曽谷を通る旧中山道沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。塩尻市楢川の大宝寺には子育て地蔵と して隠し奉っていたのだが、首を落とされてしまったというマリア像があり、木曽町日義には折畳みマリア像、大桑村の妙覚寺に は千手観音に姿を借りたマリア観音像、天長院には子育地蔵と呼ばれているマリア地蔵がある。 岩手県東磐井郡藤沢町の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。1640年(寛永17年)には約3万人の信者がいた。現在は、大籠 キリシタン殉教公園として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残されている。 兵庫県加西市の大日寺で、1972年(昭和47年)に背面に十字を刻んだ石仏(背面十字架地蔵)が発見される。その後隠れキリシタ ンとの関連をうかがわせる石仏が加西市内に150体近くあることが確認される。 大分県竹田市竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行っていた「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)や宣教師を匿った「キリシ タン神父の住居趾」がある。島根県津和野町の乙女峠には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に 建てられた「乙女峠マリア聖堂」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている。