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聚楽第を歩く

史跡ウォーキング 2011.3.19 京都市考古資料館主催

	京都市考古資料館から「史跡ウォ−ク 聚楽第を歩く」という催しの案内メールが来た。数年前資料館を見学した時、訪問帳に名
	前を書いておいたら、以後、現地説明会の案内やこういう催しの案内メールがくる。奈良の橿原考古学研究所にも登録してあるの
	で、春から夏にかけての発掘シーズンになると時々かち合って、どっちに行こうか迷ったりする。一度、奈良の高取から京都まで
	AMとPMで両方聞きに行った事があるが、しんどかった。京都と奈良は一日では無理である。

	聚楽第は、この前の例会で伏見桃山城を散策した際、「指月城」の存在を知って聚楽第にも興味を持っていたので、いい機会だと
	喜んで参加した。他の都市の遺跡や古墳と違って、京都の史跡は殆どが石柱のみの所が多いので、ガイドブックを持って一人で廻
	っても何も判らないことが多い。それを、発掘した専門家達が説明しながら歩いてくれるので、歴史ファンにとってはこんなに有
	り難いものはない。おまけに無料だし、資料までくれる。こういうものを利用しないのは、アホである。


	聚楽第	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	 『聚楽第図屏風』(三井記念美術館所蔵)部分

	聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区にあたる)に安土
	桃山時代の末期、豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。竣工して8年後に取り壊されたので、分からないことも多い。

	<構造>
	聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。
	建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や2004年に発見された「洛中洛外図」
	(江戸初期)などの絵図に描かれているので、天守の存在が推定されているが[1]、一方で天守はなかったのではないかという指
	摘もある[2]
	聚楽第の周辺地域には、秀吉麾下(きか)の大名屋敷を配置し、その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川通、西は
	浄福寺通で囲まれた地域であったと推測されている。大名屋敷のほかに、側近である千利休の屋敷(黒門通から猪熊通の元誓願寺
	下ル付近一帯と推測)もあった。聚楽第の本丸は、現在の一条通(北堀)、大宮通(東堀)、下長者町通の少し北(南堀)、裏門
	通(西堀)にあった堀に四周を囲まれていたとされ、面積は約 120,000m2と計算される。北之丸、西之丸、南二之丸、外堀までを
	含めると約268,000m2と計算される。【比較参考:現在の京都御所 130,000m2 現在の二条城 208,000m2】[要出典]

	<歴史>
	聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。
	九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えて
	これを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
	1591年(天正19年)12月に秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子、当時23歳)豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第も秀次の居城となった。
	翌、1592年(天正20年)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ聚楽第に2度も行幸が行われたのは日本史上稀
	有なことである。しかし、秀吉は1595年(文禄4年)7月に秀次を和歌山県の高野山(こうやさん)に追放して切腹させ、秀次の居
	城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却(破却、取り壊すこと)した。
	聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたらしいが、翌年に起こった大地震で倒壊した。なお、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の
	唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという伝承がある建造物も少なくないが、いずれも伝承の域
	を出ず、いまのところ研究者の間で聚楽第の遺構と確認された建造物はない。廃却後、聚楽第に住んでいた住民は伏見の聚楽第町
	に集団で移り住み、現在も京都市伏見区の聚楽第町として町名を残している。

	 『後陽成天皇聚楽第行幸図』(堺市博物館収蔵)

	<名称>
	聚楽第は聚楽亭(じゅらくてい)ともいわれる。堀をめぐらしているので、聚楽城(じゅらくじょう)ともいわれるが、戦闘を目
	的とした城(城郭)ではない。聚楽第は、建造中は「内野御構」(うちのおかまい/うちののおんかまえ)と呼ばれていたことが
	知られており、その初見は『多聞院日記』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ?野御構普請」。「聚楽」の名が使われ始め
	るのは九州征伐から帰還した後のことである。
	「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂
	(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。これ以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、史家のあいだではこれが
	秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっている。

	<現状>

	 『聚楽第址』の石碑

	この石碑は、1992年(平成4年)の発掘調査で本丸東堀跡の遺構が見つかり大量の金箔瓦が出土した西陣公共職業安定所の北に建
	っている聚楽第は現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていない。上記のように移築されたとの伝承
	がある建造物も少なくないが、いまのところ聚楽第の遺構と確認された建造物はない。「梅雨(つゆ)の井」が松屋町通下長者町
	上ル東入ル東堀町内にあるが聚楽第遺構との確証はない。
	また智恵光院通出水通下ルの京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(分銅町)に加藤清正寄贈という庭石も残るがこれ
	も確証はない。ただし、地名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院町」「東堀町」など
	なお当時の名残を色濃く残している。また「如水町」「小寺町」「浮田町」「飛弾殿町」「田村備前町」「福島町」「中書町」
	「直家町」など秀吉麾下(きか)の武将の名を冠した地名も多く見られる。
	現在、中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点【写真:右】)と中立売通裏門南西角(本丸西堀があったとされる地
	点)の2箇所に『聚楽第址』の石碑があり、昔ここに聚楽第があったことを示している。
	聚楽第があったとされる地域一帯は民家が密集していて発掘調査ができない。しかし西陣公共職業安定所(ハローワーク)建て替
	え工事が行われていた1992年(平成4年)に、工事現場の地中から金箔の付着した瓦約600点が出土した。そこは聚楽第本丸東堀が
	あったとされる地点であり、太閤(豊臣秀吉)ゆかりのデザイン瓦だったため、聚楽第の屋敷に使用されたものと考えられ、2002
	年(平成14年)6月26日国の重要文化財に指定された。

	史料

	<文献>

	・『聚楽行幸記』 - 『天正記』の1つで、全1巻。1588年(天正16年)成立で、同年4月14日-18日の後陽成天皇行幸を記す。 
	・『駒井日記』 - 駒井重勝著 全17巻、1593年 - 1595年成立写本6巻が現存する。著者は豊臣秀次の右筆(ゆうひつ、書記係)。
		豊臣政権下の情勢などを日記として記録している。 
	・『日本史』 - ルイス・フロイス著 - 著者はキリスト教(イエズス会という一会派)を布教するため1563年(永禄6年)日本に
		来たポルトガル人。『日本史』には聚楽第についての記述がある。「中公文庫」に完訳版がある。 

	<絵画>
	 聚楽第を描いた絵画は現在、以下の8点が確認されている。(うち最初の5点◎は屏風絵)
	・「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵◎ 
	・「聚楽第図屏風」 六曲一隻 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 三井記念美術館所蔵◎ 狩野永徳周辺の絵師か、嫡男の狩野光
		信作とされる。 
	・「御所参内・聚楽第行幸図屏風]」六曲一双 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 個人蔵◎、上越市立総合博物館寄託 松や水墨
		画の画力の高さに比べ人物描写がやや稚拙なので、長谷川派作の可能性が指摘されている。 
	・「洛中洛外図屏風」 六曲一双 紙本金地著色 江戸時代前期(17世紀前半) 尼崎市教育委員会所蔵◎ 
	・「聚楽第行幸図屏風」 二曲一双 紙本金地著色 安土桃山〜江戸時代初期 堺市博物館所蔵◎ 
	・『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 紙本墨画表具付 東京藝術大学資料館所蔵 
	・「豊公築所聚楽城之図 名倉希言「豊公築所聚楽城之図」 豊國神社所蔵 
	・『諸国古城之図』「山城 聚楽」広島市立中央図書館所蔵 

	<脚注>
	1. 学習研究社編 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年 
	2. 本当に実在したの?聚楽第天守(真田勘兵衛弘明) 
	
	<関連項目>
	・妙顕寺城(聚楽第の前の秀吉の邸宅) 
	・京都新城(聚楽第破却後の豊臣氏の邸宅) 
	・八幡山城 - 廃城時期が同時期 
	・日本の城一覧

	<参考文献>
	・桜井成広『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(日本城郭資料館出版会、1971年) 
	・村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年(『日本近世武家政権論』、2000年) 
	・中西宏次『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年) ISBN 4900590622 
	・京都市歴史資料館 編『聚楽第と京都』(2000年) 
	・日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』(文理閣、2001年) ISBN 4892593915 
	・狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年) ISBN 978-4-86152-269-7 

	<外部サイト>
	・聚楽第  豊臣家の夢の跡 (真田勘兵衛弘明) このサイトはお薦め。秀逸です!
	・聚楽第と御土居 (京都市歴史資料館・フィールドミュージアム京都) 
	・聚楽第を歩く1、2 (平安京探偵団) 
	・聚楽第研究 
	・城と古戦場 
	・出土した金箔瓦 (文化庁:文化遺産オンライン) 




	上下が裏表になった地図を頂いて、ほぼこれに沿ったルートで、20人づつ4つの班に分かれて出発した。重なると行けないので、
	各班は出発時間をずらしたり違う所から見学したりして、1カ所に全員が集まらないよう配慮されていた。と言うことは80人の
	参加者があったわけやね。これくらいの計算は出来ます。
	PM1時半出発予定だったが、そういうスケジュールだったので私のグループは一番先、PM1時過ぎにほぼ上のルート通りに歩
	き出した。メインの講師は京都市考古資料館(?)の梶川次長と辻係長。もう一人若い学芸員の方も一緒だったがお名前を聞き忘
	れた。また、幾つかの重要なポイントには、職員以外の説明員の方々が待ち受けていて、専門に説明してくれた。何という気配り。
	おまけに最終到達地点の「聚楽会館」には、「じゅらくだい倶楽部」や「聚楽教育会」の皆さんが待機されていて、これまた専門
	に聚楽第のお話が聞けるという、実にありがたいウォーキングなのであった。皆様ありがとうございました。またこういう催しを
	ご案内下さい。感謝です。





集合・出発・村雲御所の碑


	京都市営地下鉄「烏丸線」を「今出川駅」で降りて、同志社を横目で見ながら今出川通りを西へ歩いてゆくと、約10分ほどで、
	京都市立考古資料館にくる。1時から「史跡ウォーキング」の受付開始だったが、30分ほど時間があったので、同館で開催され
	ていた「京都縄文物語−上里遺跡からのメッセージ−」展を見学した。(その内容は「博物館めぐり」にある。)





京都市立考古資料館の敷地内に建つ「西陣碑」




梶川次長ほかの案内で、我々が一時過ぎに出発。20人ほどのグル−プである。




	村雲御所の碑

	村雲御所とは、元は「瑞龍寺」と呼ばれていた寺で、豊臣秀吉の姉の「瑞龍院日秀」が、文禄4年(1595)7月に秀吉の命で切腹
	した我が子秀次の菩提を弔うために建立した。その後、後陽成天皇から瑞龍寺という寺号と寺領千石を賜る。寛永2年(1625)の
	三代将軍徳川家光の上洛を機に、幕府は寺に五百石をこの寺に寄進し、改築前の二条城の客殿を移築した。同年に日秀が亡くなる
	と、幕府の命で摂家の娘が代々、貫首(かんじゅ。一般的な寺の住職に相当)を務めるようになった。この寺が村雲と呼ばれる地
	域にあったことから、村雲御所と呼ばれるようになった。今は、この村雲御所跡地に西陣織会館が建っており、その玄関前に石碑
	がある。昭和38年(1963)に秀次が城主だった近江八幡城があった八幡山(鶴翼山)の山頂に寺が移築された。
 

この「西陣」碑の文句は、先ほどの京都市考古資料館前に立っていた石碑の文章と同じである。





一条戻り橋・千利休居士聚楽屋敷跡の碑


	<一条戻橋>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	堀川の水流が戻る前の一条戻橋一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、京都市上京区の、堀川に架けられている一条通の橋である。
	単に戻橋ともいう。
	794年の平安京造営のときに架橋され、橋そのものは何度も作り直されているが、現在でも同じ場所にある。一条通は平安京の
	一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあった。現在の橋は1995年(平成7年)に架け直されたものである。一条戻橋の
	近くにある晴明神社には、それ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがある。交差する堀川通りには「一条戻
	り橋」というバス停も存在する。
	また知名度の高さからTVドラマなどでの撮影もよく行われているが、現在の堀川の川底は遊歩道になっており、堀川に降りて撮影
	されるシーンでは一本南側の堀川中立売の橋を一条戻橋として映している光景が度々見受けられる。

	「戻橋」という名前の由来については、『撰集抄』巻七で次のように伝えられている。延喜18年(918年)12月、漢学者・三善清行
	の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子・浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに
	一時生き返り、父子が抱き合ったという。
	『平家物語』剣巻には次のような話がある。摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、
	美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思い
	ながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は
	鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、綱の義母
	に化けた鬼が取り戻したとされる。
	戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻
	橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌
	を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明
	は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要
	なときに召喚していたという。
	戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千
	利休の首級が晒された。また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここ
	で見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。
	「戻橋」という名前から、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないと、この橋に近づかないという
	習慣がある。逆に、第二次世界大戦中の応召兵とその家族は、無事に戻ってくるようにと願ってこの橋に渡りに来ていた。



平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明を祭る晴明神社







	<千利休居士聚楽屋敷跡の碑>

	晴明神社の境内を南北に通る葭屋町(よしやまち)通り側の、入り口付近に建っている石碑。右側に、千利休が茶の湯の水として
	使ったという伝承がある「晴明井」がある。この石碑は、元禄4年(1691)刊行の『茶道要録』に記載されている、千利休の聚楽
	第の屋敷の場所が「葭屋町元誓願寺下ル町」という記述に基づいて、平成16年に建立された。
	当時は千利休屋敷を含め多数の大名屋敷が建ち並んでいたが、葭屋町通は天正18年(1590)の天正の地割により開通した通の1
	つであり、葭屋町通がこの辺りまで延びたのは、聚楽第破却後と考えられる。
	江戸時代初期の、『浅野文庫蔵諸国古城之図』の「山城聚楽」では、ここより二区画西の黒門通西側、江戸後期の『豊公築所聚楽
	城址形勝』では一区画西の猪熊通西側にあったとしている。三つの史料では場所は若干異なるが、いずれもこの辺りに千利休の屋
	敷があった点では一致している。





堀川通から見た戻り橋。別のグループが説明を聞いている。



昔、営業でこの辺りを徘徊していた(?)頃は、この川はきちゃない、真ん中に一本僅かな水量を持つだけの川だった。綺麗になったもんだ。





戻り橋を渡って東へ来たビルの角に石碑が建っている。同じ場所が、歴史的に幾重にも重なった旧蹟なんだ。ドン付きが堀川通り。









戻橋を渡り東に行くと、小町通と呼ばれていた細い通りがある。碑は駐車場の中にあり、地面に半分埋もれているので見つけにくい。




	一条東堀川の南側にある主計町(しゅけいちょう)は加藤清正の官位の主計頭(かずえのかみ)があるなど、この辺りには聚楽第
	があった当時は大名屋敷街だった。宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場である一条下り松はこの地であるという伝承があり、かつて松
	があったことに由来する松之下町がある。「一条下り松」は、ここの他に、北野七本松(現在の一条七本松)、一乗寺という伝承
	もある。


戻り橋の東側に生えている桜は、この日ほぼ満開に近かった。今年初めての花見だ。















黒田如水邸跡の碑・一条大路跡



堀川通りと一条通りが交差した角に「篠懸(すずかけ)」の古木が生えていて、沢山の実(?かな)を実らせていた。




	<黒田如水邸跡の石碑>

	石碑がある如水町という名は、黒田孝高の隠居後の号の「如水」からつけられている。聚楽第があった当時は、ここに豊臣秀吉の
	参謀であった黒田孝高が屋敷を構えていたと伝えられる。その子長政はやがて福岡を拝領し、その子長興が我が故郷筑前秋月を拝
	領した。この辺りは弾正町が浅野長政の官位・弾正少弼、飛騨殿町が蒲生氏郷の官位・飛騨守など、聚楽第周辺に屋敷を構えてい
	た秀吉の配下と織田信長に仕えていた大名由来の町名がたくさん残っている。







最近は案内板を掲げるのを嫌がる家が多く、やっとここに掲げさせて貰ったと梶川さんがボヤいていた。現在の一条大通りは恐ろしく狭い。





聚楽第北ノ丸北堀跡石垣




	<聚楽第北ノ丸北堀跡石垣>   

	マンションの奥に石垣が残っている。ここは、普段はマンション住民の生活の場であり、部外者が勝手に入り込んで見学するわけ
	にはいかない。こういうイベントの時だけ、頼み込んで特別に見学させて貰えるらしい。
	一条通の、智恵光院から大宮通り間の北側に、東西約150mの直線状に点在している高さ約3mの石垣で、以前から北ノ丸北堀
	による石垣と考えられていた。マンションや路地の奥などにこうして一部が残っている。




	1997年のマンション建築工事に伴う発掘調査で、北ノ丸の石垣の基底石四個と石垣の石を抜き取った跡が検出されたが、残念
	ながら現存する石垣の石は当時のものではなく、後世に北ノ丸北堀石垣の基礎部分を再利用し築かれたと考えられている。 




	ここでも専属(?)の解説員の方からお話を聞いた。上左の写真に見える、隣の建物の屋根あたりの高さに聚楽第の建物があった
	のではないかと言う。盛り土をしたのか初めから高い岡でもあったのかはわからないが、今ではすっかり平坦化され、その痕跡は
	全く残っていないと言うことだったが、発掘調査の結果、そう考えるのが妥当という意見だった。にわかには信じがたいような話
	だ。それだけの岡を、果たしてほんとに切り崩せるものだろうか。素人にはよくわからん。



聚楽第本丸西濠跡






	<「此付近 聚楽第址」の石碑>

	石碑そのものは、大正時代に正親学区の有志の寄付で建立されたが、2008年3月からは京都市立正親小学校の一角が整備され
	て、そこに移動した。最新の発掘調査に基づく聚楽第城郭推定範囲では、この場所は聚楽第本丸西堀にあたる。
	石碑のある南北の通りである裏門通の、一条から下長者町間は本丸西堀の南北とほぼ一致し、ここから東にある大宮の聚楽第址の
	石碑までが、本丸の東西とほぼ一致している。

















松林寺・聚楽第南外濠跡




	下の写真を見ると、ドン付きの「松林寺」へ向けて路がず−っと落ち込んで行っているのがわかる。これを見ると聚楽第が高台に
	あったという説も信憑性を帯びてくる。1997年の発掘調査で、松林寺から聚楽第の外堀の痕跡が見つかり、境内の落ち込みも
	外堀によるものと判った。






	<聚楽第南外濠跡の碑>

	この松林寺境内の落ち込みは、聚楽第の遺構としてよく紹介されている。2007年5月に堀跡があったことを示す石碑が建立さ
	れた。 


山門の向こうに見える見張台のような建物は、京都で老舗醤油屋の旦那が、京都市内を見晴らすために作った私家版展望台だそうだ。





ここでも、我々を待ち構えていた解説員さんの説明を聞く。




	石碑がある松林寺は、境内にも落ち込みがある。門前から境内まで約1.5m落ち込んでいる。境内を進むにつれて低くなる寺と
	いうのは珍しい。通常だんだん高くなっていくのが寺の構造だ。松林寺は門前が境内より高くなっているのだ。昭和5年5月に京
	都市が「聚楽邸遺址 聚楽邸南方濠池跡」として史蹟指定した。
	1997年の寺の再建工事に伴う発掘調査により、境内から東西を走る聚楽第の外堀の痕跡が見つかり、境内の落ち込みは外堀に
	よるもので、それまでの伝承が正しいことが証明された。







平安京内酒殿跡




この発掘に携わった京都市考古資料館の辻さんが説明してくれる。井戸も偶然から発見し、木簡の出土もこの一枚だけだったそうだ。





桂昌院生家・菩提寺







	<桂昌院>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	桂昌院像(長谷寺蔵)桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代の女性。
	江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。名は玉。『徳川実紀』に拠れば、父は北小路太郎兵衛宗正。母は鍋
	田氏の娘。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。

	京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』に拠れば、父は関白・二条光平の家司である北小路太郎兵衛宗正だが、実際の出身は
	もっと低い身分であるという噂が生前からあった。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部には二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗
	人の女」に産ませた娘とする。道祐は幕府につかえた儒者の林羅山の弟子であり、桂昌院と同時代の人物であるため、『遠碧軒記』
	も当時の資料である。しかも現存の写本は公家の難波宗建が類纂した系統であることからわかるように古くから評価が高い本であ
	る。ゆえにこの記事も極めて信憑性が高い。朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』には、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であ
	るという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の『御当代記』には、畳屋の娘という説が記されている。死後やや経っ
	てからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正
	という説が記されている。
	寛永16年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室
	となる。正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。
	慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉
	が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一
	位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。

	実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら藩主として立身出世
	を果たしている。墓所は東京都港区の増上寺。また、京都府京都市西京区の善峯寺にも桂昌院の碑がある。

	逸話
	男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され生類憐みの令発令に関わったという説があったが、その時
	期に隆光がまだ江戸にいなかったことから、現在では否定されている。綱吉の正室の鷹司信子とは仲が悪かったともいうが、これ
	も確証はない。応仁の乱で一部が焼失した京都の善峯寺の再興に尽力している。 
	しばしば「玉の輿」の語源とされるが、俗説に過ぎないようである。大徳寺・塔頭の総見院では、「玉の輿」の玉とは桂昌院のこ
	とと語り伝えていた。また、京都の今宮神社の名物(あぶり餅)は玉のような餅を食べ、玉(桂昌院)のようなご利益をあやかろ
	うとしたという言い伝えがある。 
	埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍
	墓とその遺品・遺体』によれば、血液型はA型で、四肢骨から推定した身長は146.8センチメートルである。 







山崎闇斎邸宅跡




	<山崎闇斎>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸前期の儒者
	・朱子学者・神道家・思想家である。名は嘉、字は敬義、通称嘉右衛門。闇斎は号、霊社号は垂加霊社(すいか・しでます)。

	京都で浪人の子として生まれ、幼くして比叡山に入り、ついで妙心寺に移って僧となる。19歳のころ土佐の吸江寺に移り、湘南宗
	化の弟子となる。土佐南学派の谷時中から朱子学の手ほどきを受け、また野中兼山や小倉三省らとの交わりのなかで、朱子学への
	傾倒を深め、寛永19年(1642年)二十五歳で畜髪・還俗して儒者となった。寛文5年(1665年)、会津藩主保科正之の賓師に迎え
	られ、藩政への助言者として活躍する。領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。また吉川惟足の影響で、神道
	研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒学を統合して、垂加神道を開いた。
	闇斎の提唱した朱子学を、崎門学または闇斎学という。その思想の独自性は、湯武放伐を否定した点にあり、水戸学・国学などと
	ともに、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎・植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・
	正親町公通・出雲路信直らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。
	山崎闇斎は、人間の心(心神)は、即ち天神と同源であり同一であるとの思想から、自らの心神を自宅の祠に祀った。社名は、闇
	斎の霊社号と同じ、垂加霊社。のちに下御霊神社の境内に遷座して、猿田彦神社に合祀され、現存している。墓所は、京都市左京
	区黒谷の金戒光明寺にある。



聚楽城鵲橋旧跡




	<聚楽城 鵲橋乃旧蹟 碑>

	「松屋町出水通上ガル」東側に松永稲荷がある。ここに聚楽城鵲(かささぎ)橋旧跡の石碑がたっている。鵲橋とは、「聚楽第の
	堀に架かっていた橋」という伝承があるそうだ。鳥の鵲(かささぎ)とは関係なく、鵲橋とは庭園の池にあるような小さな石橋の
	ことを言うらしい。ここでの解説員はオバサンだった。



常夜灯の右側に建っている石碑が「聚楽城鵲橋乃旧蹟」碑である。文字がかすれてろくろく碑文も読めない。





上右のオジサンが立っている場所に、小さな小川があったという伝承が残っているそうだ。





梅雨の井


	<梅雨の井>

	「大宮下長者町上ガル」西側の路地の奥に「豊臣秀吉が茶の湯の折に愛用した名水」という伝承がある「梅雨の井」(つゆのい)
	がある。長年、聚楽第の現存する唯一の遺構として扱われ、多くの人が見学に訪れた。





	しかし冒頭の地図をご覧いただいてもおわかりの如く、現在の調査結果では、聚楽第南堀の中に「梅雨の井」があることになって
	いる。聚楽第の井戸が堀の中にあるのはおかしいので、最近は出版物から梅雨の井の記述がなくなったらしい。解説員のおじさん
	も、「ま、伝承ですからどこまで信憑性があるかはわかりません。ただ、昔からそういう伝承がこの辺りに残っているという事で
	すね。」と話していた。発掘調査は行われていないが、森島康雄氏などの発掘調査に基づく「聚楽第城郭推測範囲」では、井戸の
	ある場所は本丸南堀の中に含まれている。



もしここがホントに聚楽第の遺跡だったとしたら、ずいぶんと情けない場所にあるものだ、という印象を持った。





聚楽第址の石碑


	聚楽第址石碑のある通りを挟んだ向かい側(南側)の、ハローワーク西陣(京都西陣職業安定所)の建替工事に伴う発掘調査で、
	深さ8.4m、幅40mと推定される聚楽第東堀跡が検出され、大量の金箔瓦(重要文化財)が出土した。石碑がある地点は聚楽
	第東堀の中に含まれており、石碑がある大宮通の一条から下長者町間は聚楽第東堀の南北とほぼ一致している。






	ハローワークは公共の建物なんだから、説明板を建てるのにはやぶさかではないと思うが、不思議なことにここには説明が全く無
	い。重要文化財の金箔瓦が、それも大量に出土したのなら梅雨の井などよりはるかに重要な場所だと思うのだが、看板一つ立って
	いない。ハローワークが拒んだのか、京都市の怠慢なのか、いずれにしてもここは重要なポイントだという気がする。






	<聚楽第址の石碑>

	2009年5月に建立された石碑。聚楽学区内で初めての聚楽第址を示す石碑として建てられた。秀吉は、ここに平安時代に大内
	裏があったことは当然知っており、その後戦乱で荒廃し、当時内野(うちの)と呼ばれていた地域の北東に聚楽第を造営した。大
	内裏を意識し、聚楽第の敷地が大内裏内に収まるよう設計したそうである。





名和長利公遺跡・一条院跡






	<名和長年>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆守。又太郎長高。父は名和行高。子に義高・基長・高光、一族に
	石山城(岡山城)を最初に築いた上神高直がいる。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)
	正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。
	伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主。名和氏は赤松氏と同じく村上源氏雅兼流を自称して
	いるが、長年は大海運業者だったとする説(『禅僧日記』より)、悪党と呼ばれた武士であったとする説がある。元弘元年(1331
	年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、同3年(正慶2年、1333年)に
	島を脱出すると、これを船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わる。




	幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録
	所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられる。また、京都の左京の市を管轄する機関の長で
	ある東市正に任じられた。これは、名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられている。建武2年(1335年)に西園寺公宗
	が北条氏の残党と組み新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に処刑している。また、
	討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛
	する。








	尊氏が、信濃で北条時行らが蜂起して鎌倉を一時占領した中先代の乱の討伐を契機に建武政権から離脱すると、正成、新田義貞ら
	と共に宮方として尊氏と戦うが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った尊氏に敗れ討死。討死にした場
	所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされている。長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄
	達した「三木一草」は悉く果てた。「歯長寺縁起」は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣
	を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆく。






	法名:釈阿、墓所:鳥取県大山町名和の長綱寺、奉斎神社:鳥取県大山町名和鎮座の名和神社に主祭神として祀る。

	明治19年(1886年)には正三位、昭和10年(1935年)には従一位を追贈されている。明治17年(1884年)、長年の末裔の福岡県名
	和神社宮司名和長恭が男爵を授けられた。





上左は名和家の紋所。これをみると、海運業者だったという説が有利なような、或いは村上水軍のような海賊だったのかもしれない。









聚楽会館






	財団法人「聚楽教育会」の拠点、「聚楽会館」にて梶川次長がウォーキング終了のご挨拶。4つのグループが順繰りにここへ
	集結してこの中の資料を見学させて貰った。最後に、古絵図などから見る聚楽第のお話も聞けて楽しいウウォーキングだった。
	



	聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい・聚楽城)

	聚楽第は、秀吉が京都市中、御所の西に築いた屋敷である。屋敷といっても、実質的な城構えであり、聚楽城などとも呼ばれている。
	晩年、狂気に走ったかのようにも見える豊臣秀吉の、最後の栄華の象徴が「聚楽第」かもしれない。

	天下を平定し、人臣極めて関白に任じられた豊臣秀吉は、内野に豪華絢爛な宮殿を建て、後陽成天皇を聚楽第に招き、諸大名に忠誠
	を誓わせ、豊臣の天下を世に知らしめるのである。聚楽第には二度の行幸が行われた。聚楽第が存在した頃は、朝鮮とインドからの
	外交使節との謁見は大坂城ではなく聚楽第で行われている。ほとんどの大名は豊臣家の個人の城である大坂城ではなく、聚楽第城下
	に屋敷を構えた。大名は在京を義務付けられ、正妻を聚楽第城下の屋敷に住まわせた。聚楽第周辺には諸大名の屋敷が建ち並ぶなど、
	聚楽第周辺は当時の日本の中心だったのである。

	わが子を失い悲嘆にくれた秀吉は、甥秀次を養子にし聚楽第と関白を秀次に譲って自らは伏見城へ移ったが、茶々が秀頼を生むと秀
	頼かわいさに、秀次に謀反の疑いをかけて高野山で切腹させ、妻子臣下三十数名(人数に諸説あり)を三条河原で処刑する。その処
	刑のありさまは一般庶民からも非難され、京都市街に書かれた落首には「秀吉、お前の天下もこれで終わりだ!」と秀吉を非難する
	ような内容で満ちていたと言う。
	そいう世間の風評に焦ったのか、秀吉は聚楽第を完全に破壊し、秀次の痕跡を地上から消してしまう。確かに、秀頼の出生以後の秀
	次の所業には悪行が目立つが、それは秀吉によって捏造されたものである可能性が高く、よしんば真実であったととしても、「秀頼
	が生まれたからには、俺は殺される。」という秀次の恐怖心から出ていることは明らかだ。
	一族までもを根絶やしにする秀吉の所業に衆人は恐れをなし、豊臣の天下に暗雲が立ち込めるのはこれからである。
 
	わずか八年の命だった聚楽第。豊臣の栄華と悲劇を知るこの宮殿はまさしく豊臣家の「夢の跡」であった。












































おまけ


















秀吉はフランスのカルカッソンヌ、韓国の水原華城のような、町をすっぽり包み込む城郭作りを行った。
















京都の町は平地だと思われているが、実際はかって堀だった部分が低くなっている。この堀が町を取り囲んでいた。










		聚楽第城の図面は残っていないが、上の屏風や、同時に造っていた大阪城、聚楽第を真似たとされる広島城から
		その偉容を推し量ることが出来る。









しかし聚楽第は城壁を塗った「白い城」だったようである。其れまでの城は全部が「黒い城」なのだ。



以下、CGで復元された聚楽第



















秀吉は天皇(後陽成天皇?だったかな)の衣の裾を自ら掲げて牛車へ乗せ、天皇との親しさを廻りにアピールした。



その行幸の様子を描いた戯画。徳川家康、前田利家、石田三成などが秀吉に従って進み、世間に秀吉の天下人振りを誇示した。





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