Music: Unchained Melody

歴史倶楽部 第143回例会
石清水八幡宮の町 2009.5.31 京都府八幡市








	第143回例会 京都府八幡市
	八幡宮の親玉 いかにして八幡さんは全国拡大したか?
日時 : 5月31日(日) 集合 : AM9:30 京阪本線「八幡駅」集合 アクセス: <大阪から> 淀屋橋 08:42出発 09:26到着 15駅 京阪本線準急・出町柳行 360円 時間 44分(乗車44分、ほか0分)距離:31.8km <奈良から> JR奈良駅 08:14出発 09:27東福寺 到着 6駅 JRみやこ路快速・京都行 690円  東福寺 09:01〜09:27 10駅 京阪本線・淀屋橋行 300円 装備 : 弁当、水筒、防寒具、雨具、そのた 散策路:■八幡市駅→■流れ橋(時代劇など、映画撮影が盛んに行われている)→■飛行神社→■神応寺→■石清水八幡宮→ ■正法寺→■松花堂→■和気神社・足立寺史跡公園(足立窯遺跡)→■市民の森(枚方・継体天皇樟葉宮跡)・交野天神社 →■樟葉駅 コース : 以下の地図を参照にして下さい。(流れ橋は載っていません。)


	
	何を隠そう(隠してないか)、我が家は30年前八幡市に住んでいた。長男が生まれたときから住んで、小学校2年生になるとき
	吹田市へ引っ越してきたので、8年間男山団地に居たことになる。幼かった子供達の手を引いて、男山八幡宮や木津川へよく遊び
	に行った。娘も八幡市の関西医大で生まれた。吹田へ越してもう20数年訪れた事はないので、今回は久しぶりの帰郷に似た心境
	で楽しみだ。



当日の、私の部屋のベランダから見たマンションの広場の模様。



	
	朝6:00頃はまだ雨が降っていた。いつもなら、ここで中止か悩む場面だが、天気予報では「明け方まで降って、後は晴れ。」と
	のことなのでそれを信用することにした。最近は予報はよく当たるので、今日も大丈夫だろう。



マンション前の舗道に、誰かが植えたスミレが咲き誇っていた。上右は童男ツツジ(かな?)。



淀屋橋駅で乗った二階建て特急(上左)と、急行に乗り換えるため降りた樟葉駅(と、乗ってきた特急電車)。



京阪八幡駅に集合し、ここで錦織さんが教えてくれた「無料のサイクル自転車」を借りて流れ橋へ向かう。駅前には勿論エジソンの記念碑が。



	■八幡市	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	 八幡市(やわたし)は、京都府の南部、大阪府との境界線沿いに位置する市である。石清水八幡宮の門前町として発達した。1970
	代以降、京阪電鉄樟葉駅(大阪府枚方市)に近い男山地区で、京阪電鉄や日本住宅公団(現・都市再生機構)などがくずはローズタ
	ウンや男山団地などの住宅を造成して、大阪市方面のベッドタウンとして人口が短期 間で約2倍に増加し、同府の福知山市などを上
	回った(現在は再び福知山市が八幡市より人口が多くなっている)。この人口増により1977年11月1日に市制を施行した。しかし 、
	その後の人口減少により、2008年現在の人口は福知山市はおろか城陽市にも及んでいない。八幡市には幾つかの飛地があり、それら
	は京都市と久世郡久御山町との境や京田辺市と大阪府枚方市との境に置かれている。その為、一時期、枚方市との越境合併が検討さ
	れたこともあった。
	木津川を挟んで久世郡久御山町、洞ヶ峠を越えて大阪府枚方市に接しており、市の中央を国道1号が南北に貫いている。国道1号と直
	交するような形で府道や市道が整備されて おり、京田辺市とつながっている。市の西側は淀川で、対岸に京都府乙訓郡大山崎町、大
	阪府三島郡島本町、大阪府高槻市を眺望できる。市の北端のかわきた自然運動公園内 に、木津川、宇治川、桂川の3川合流点があり、
	近くを通る国道478号で大山崎町とつながっている。
	鉄道駅は3駅ある。京阪本線の八幡市駅・橋本駅。鋼索線の男山山上駅。八幡市駅には急行・準急・普通が停車する。橋本駅は普通・
	準急のみ停車する。鋼索線は市内一の名所 である石清水八幡宮への参詣客が利用する。バス路線が非常に充実している。京阪バスが、
	京阪本線の樟葉駅と八幡市駅を軸に多数の系統を設けており利用率も充分によい。
	男山を取り巻くように住宅地や田園が広がり、特に男山西側の地域は男山団地と呼ばれる人口密集地である。また京阪東ローズタウン
	が美濃山地区にて開発されている。しかしこれら以外の箇所、特に国道1号の東側では人口の減少が目立っている。これにより1980年
	代より約20年間、7万5千人台でほぼ横這いあった人口は減少傾向にある。

	1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、綴喜郡八幡町、都々城村、有智郷村が発足。
	1954年(昭和29年)10月1日、上記3町村が合併して八幡町となる。
	1977年(昭和52年)11月1日、市制を施行し、京都府内で11番目の市となる。
	
	産業の規模は人口の割に小さい。農業の比率が高く、梨が名産品として定評がある。秋には観光梨園が開かれる。工業は主として国
	道1号線沿いに立地している。金属加工などが代表的である。立地を活かし、倉庫・物流拠点としての利用もある。商業は八幡市で
	はあまり栄えていない。大型店舗はイズミヤ八幡店が目立つくらいである。八幡市の人口を大きく支える男山団地と周辺の邸宅街で
	の消費は枚方市楠葉地区に流れており、市内での滞留率が非常に低い。また近年開発が進んだ市東部の邸宅街には小規模ながら商業
	地区が形成されているものの、隣接する久御山町や京田辺市にある大型店に客が流れている。客が流れていることと同時に、雇用機
	会も流れてしまい、ゆえに市の財政事情 は厳しい。

	八幡市駅が当市の玄関駅であるが、駅付近の道が狭いこともあり、八幡市内のバス路線の多くは大阪府枚方市にある樟葉駅に発着す
	る。2003年9月以降は樟葉駅に特急が停車す るようになり、八幡市駅を通る急行が大幅減少したため、現在事実上の八幡市の玄関駅
	は樟葉駅になっている。京阪バスが運行。市の東部は京阪バス京田辺営業所のエリアであるがそれ以外は本市に位置する京阪バス男
	山営業所が運行している(一部例外あり)。

	隣市の枚方市が「京阪間にろくな道無し」と言われるのに対して、八幡市では市街地においても大きな渋滞が発生することは少ない。
	開発段階から生活道路と産業道路や幹線道路の分離が考慮されてきたことが伺える。しかし、第二京阪道路や京都第二外環状道路が
	開通する以前は国道1号、京都府道・大阪府道13号京都守口線などは市域において混雑 が顕著であった。

	<名所・旧跡>
	石清水八幡宮	飛行神社	松花堂		流れ橋(時代劇など、映画撮影が盛んに行われている)

	ヤマダ電機の関西第1号店は八幡市内に設置した(店名は「テックランド京都八幡店」)。同社の全国進出の足掛かりとなった出店
	である。また同市は京都府に位置しているが 、事実上の玄関口が大阪府枚方市にある樟葉となっていることなどもあり、1980年代
	頃に一時期、市民より大阪府枚方市への越境合併を行う要望もあったが、現在の所、八幡市は大阪府への越境合併の構想は行われて
	いない。同市副市長・松本伍男が、同市職員採用を巡って便宜を図った見返りに、受験者の母親や祖母から現金を受け取ったとして 
	、2009年1月に、収賄罪で逮捕された。また、現金を送った受験者の母親や祖母も、贈賄罪で逮捕された。これに関連して、同月に、
	同市役所が家宅捜索を受けている。


	まさしくこの解説の通りである。よく調べて書いている。というか、ここに棲んでいる八幡市民が書いたのかも知れない。八幡市は
	現在では「樟葉市」といった趣がある。



木津の流れ橋




木津川の堤防から見た八幡の町。木津川はここで桂川・宇治川と合体し、淀川となって大阪へ流れる。



	
	気持ちの良い川風を受けて木津川縁を行くと、20分ほどで「木津の流れ橋」が見えてくる。
	
	この自転車道線は、多くの自転車愛好家をはじめ、広く一般府民の皆様に自然とのふれあいによる心豊かな人間性の回復や健康づくりに
	役立てていただくとともに、自転車交通の安全性を確保するため整備されたものです。(八幡市関係HPより)

	路線名	: 府道京都八幡木津自転車道線 
	起点	: 京都市西京区嵐山河原町(渡月橋右岸) 
	終点	: 相楽郡木津町雲村(泉大橋左岸) 
	道路延長: 約45キロメートル 幅員/3メートル 
	京都府管理延長 : 約27キロメートル(八幡市八幡〜木津町木津) 
	京都市管理延長 : 約18キロメートル(京都市西京区嵐山〜伏見区淀) 
	
	知らなかったが、自転車関係者の間では、関西地区でもっとも有名な自転車歩行者道路なのだそうだ。京都の嵐山−(桂川沿い)−八幡−
	(木津川沿い)−木津、まで片道 45Kmほどである。高槻・枚方方面から、京都市街に出かける道としても重宝されているという。





	
	流れ橋遠景。日本一の長さを誇る木造橋である。「流れ橋」というのは、その名の通り、橋が流れるからである。正しくは、上津屋橋
	(こうづやばし)といい、京都府道281号の一部で、長さ356.5メートル、幅は3.3メートルの木製の橋である。



流れ橋をバックに、「世界へ発信」記念撮影。本日の参加者全員。





	
	解説板を読む。この堤防沿いに行けば嵐山まで行けるんやなぁ。大雨や台風により、川の水位が上がれば、架けた橋けたが流れるという、
	その独特な構造をもつことから「木津の流れ橋」と呼ばれ、時代劇のロケーションにもよく使われている。この橋は昭和28年に架設さ
	れて以来、平成9年7月までに通算15回の流出を記録している。江戸時代あたりからこうやって流れていたのかと思っていたら、何と
	戦後生まれの橋だった。







	
	ここには人工物が一切無いので、時代劇によく使われる。水戸黄門や暴れん坊将軍など、太秦で撮影されている時代劇には必ずと言って
	いいほど登場している。みんな知らずに、映画やTVで何度か見ているはずである。





広い河原に吹く風はほんとに気持ちがいい。朝からサイクリングでいい汗をかいたし、爽やかな日曜日(Beautiful Sunday)だ。



飛行神社




	
	木津川の反対側を通って八幡駅前へ戻ってきたが、トイ面は自転車道が整備されておらずジャリ道だった。自転車を返して「預かり金」
	の千円を返してもらい、飛行神社を訪ねる。


	■飛行神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	 本殿は通常の神社建築。流造を三つ連結している。飛行神社(ひこうじんじゃ)は京都府八幡市にある神社。飛行機の神饒速日命と
	航空事故の犠牲者などを祀る。ギリシャ風の拝殿を持っている。 日本で最初に飛行原理を研究した二宮忠八が創建した。二宮忠八は
	1891年(明治24年)に日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功したものの、人を乗せることができる飛行機をライト兄弟が実現した
	ことを知り、飛行機開発から離れる。しかし、飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲
	者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社を1915年(大正4年)に創建した。こ
	の神社は特定の条件にあう死者を神社にあわせて祀るという招魂社の一種で、靖国神社と同様の信仰基盤をもつ。現在の社殿は1989年
	(平成元年)に忠八の飛行原理発見百周年を記念して、二宮忠八の次男二宮顕次郎によって再建されたもので、古代ギリシャの神殿の
	ような拝殿になった。鳥居は航空機に使われることの多いジュラルミンで出来ている。



	
	<祭神>

	中央:饒速日命
	右:航空殉難者の霊・航空業功績者
	左:薬祖神・金毘羅・白龍神

	饒速日命は神話において天磐船にのって地上に降臨したとされることから、空の神・飛行機の神(天磐船:アメノイワフネ=飛行機と
	解釈)として結び付けられ、飛行神社の祭神に選ばれた。大阪府交野市の磐船神社より勧請したものである。右の社殿には航空業界に
	業績を残したものの霊と、世界中の全ての航空事故の犠牲者の霊を祀る。日本国内の航空事故犠牲者については表名(一人一人の名前
	を挙げて)合祀を行い、国外の犠牲者については無表名で(個人を特定しないで)合祀する。
	左の社殿には、薬業の祖神とする武田長兵衛と金毘羅神と地主神である白龍神を祀っている。薬祖神は二宮忠八が製薬会社に勤めてい
	たことによるもので、金毘羅は忠八が讃岐の金刀比羅宮(船の神、飛行機に通じる)を信仰していたことによる。白龍神は境内に出現
	した白蛇を地主神として祀ったものである。



境内にはいくつかの飛行機の部品が置かれているが、これは自衛隊で使用していたF104戦闘機のエンジンである。






	最初ギリシア風神殿の柱がジュラルミンで出来ているのかと思ったがどうもそんな様子はない。後で分かったが神殿へ昇る石段に立っ
	ている鳥居がそうだった。しかしこれも、鳥居とはすぐに気づかない(上右、乾さんの後方に立っている)。



これだけ見れば、とても神社とは思えない。たしかに飛行機は西洋文明の賜ではあるが。



信心深い杉本さんが頭を垂れている。だいたい今までの例では、拝殿で真っ先に拝んでいるのは杉本さんと高野さんやね。









神應寺





	■神應寺		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	神應寺(しんのうじ)は、京都府八幡市にある曹洞宗の寺院。山号は糸杉山。本尊は薬師如来。この寺は、貞観年間(859年〜877年)
	行教によって創建されたと伝えられ、江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。

	<文化財>	重要文化財・木造行教律師坐像



この石段を登っていけば神應寺だが、サイクリングで疲れたおじさん、おばさんは「パス、パス」。



重要文化財「石清水八幡宮五輪塔」。神應寺山門の脇、男山麓の頓宮の側に立つ。高さ6メートルの大型塔で、「航海記念塔」と通称されている。





デカイ! こんな大きさの五輪塔はいままで見たことが無い。



石清水八幡宮 男山麓の頓宮




五輪塔脇の木戸をくぐって中に入ると岩清水八幡宮の「男山山麓の頓宮」である。ここを岩清水八幡宮と勘違いして、ここだけ見て帰る人もいるらしい。





境内には睡蓮の花が咲いていた。



「男山山麓の岩清水八幡宮(頓宮)」の大鳥居。歩いて昇る人はこの鳥居をくぐって行く。





鳥居の脇には八幡市の案内板がある。









鳥居の前にある御菓子舗(おかしやさん)も健在だった。「走井餅」が名物で買って帰った。ここから駅前を抜けてケーブルの駅へ。





石清水八幡宮




	■京阪鋼索線	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	鋼索線車内からの景色鋼索線(こうさくせん)は、京都府八幡市の八幡市駅から男山山上駅までを結ぶ京阪電気鉄道のケーブルカー。
	男山ケーブルと呼ばれている。男山の山上にある石清水八幡宮への足で、初詣客で賑わう1月の利用者数が全体の50%を占めている。
	正月の多客期は12.6km/h、それ以外の閑散期は8km/hの2速度で運転できるようになっている。車両の行き違いは全長111mの大杉谷鉄橋
	上で行われる。2001年に車両が更新され、スルッとKANSAI対応カードが使用可能になった。 なお、京阪電鉄の路線で唯一、PiTaPaが
	使用できない。

	<路線データ>
	路線距離(営業キロ):0.4km 
	方式:単線2両交走式 
	軌間:1067mm 
	駅数:2駅(起終点駅含む) 
	高低差:82m 




	<歴史>
	大正15年(1926)6月、男山索道によって開業した。男山鉄道株式会社に社名変更後、京阪電気鉄道の子会社となった。戦時中の昭和
	19年(1944)2月に廃止され資材が供出されるが、戦後の昭和30年(1955)12月にに京阪電気鉄道直営で復活した。平成13年7
	月、旅客サービスと保安度向上のため、約半世紀ぶりに車両が新造され、巻揚装置も一新された。

	1926年(大正15年)6月22日 男山索道が八幡口 - 男山間を開業。 
	1928年(昭和3年) 5月28日 男山鉄道に社名変更。 
	1929年(昭和4年) 8月31日 京阪電気鉄道の子会社となる。 
	1944年(昭和19年)2月11日 資材供出のため不要不急線として廃止。 
	1955年(昭和30年)12月3日 京阪電気鉄道鋼索線として八幡口(現・八幡市)[1] - 八幡宮(現・男山山上)間再開業。 
	1957年(昭和32年) 1月1日 八幡口駅を八幡町駅に、八幡宮駅を男山山上駅に改称。 
	1977年(昭和52年)11月1日 八幡町駅を八幡市駅に改称。 
	2001年(平成13年)7月11日 新車両運転開始。 
	(当時の駅名は今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図 10号 大阪』(新潮社、2009年)p.31による。 )



	
	桂川、宇治川、木津川の三川合流部の景色を客が楽しめるように、座席の大部分を山下向きに配置している。外観のカラーは、京阪特急
	でおなじみのマンダリンオレンジとカーマインレッドによるツートンカラーに加え、アクセントとして扉部分にメタリックシルバーを配し
	ている。発明王エジソンが八幡の竹を用いて電球を発明したというエピソードにちなみ、スタンションポールの形状は電球をモチーフに
	し、色彩は青竹をイメージしたそうな。(写真提供: 京阪電気鉄道株式会社)



	
	ケーブルの駅を降りてすぐ展望台への昇り口があって、その側にこの杜に棲む野鳥たちの説明があった。Bird Watcherの私としては嬉し
	い限りだ。ここに載っている鳥たちでは、まだアオバズクを見たことが無いな。ここにいるんだ。


森の中の参道を歩くと3,4分で八幡宮に到着。





	■石清水八幡宮	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひ
	とつに数えられる。二十二社の上七社の一つであり、旧社格は官幣大社。本殿などの建造物16棟等が国の重要文化財に指定されて
	いる。また、本社は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。

	<祭神>
	以下の三神を祀り、「八幡大神」と総称する。

	中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)
	西御前 - 比淘蜷_(ひめおおかみ・宗像三女神)
	東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)



	
	清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、空海(弘法大師)の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した
	折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により
	社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由
	来する。以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室
	・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・
	武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰した ことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。



	
	当社の御神前で7歳の春に元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の源頼義が、河内源氏の氏神とした壺井八幡宮は、石清水八幡
	宮を源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したもの。また鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を
	勧請した鶴岡若宮にあり、源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し改めて石清水 八幡宮を勧請したことを創始とする。

	創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、東寺(教王護国寺)や清水寺、比叡山延暦寺、仁和寺、鹿苑寺
	(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、相国寺、大安寺など、多くの寺院との歴史的関連が深い。また、河内源氏と競合相手と考えられて
	いる伊勢平氏もこの社を重んじており、平正盛が造営の功を上げたことや平清盛ら伊勢平氏の主だった人々が八幡宮の臨時際で舞人
	を演じたとする記録が残されている。



	
	明治時代(1868年)の神仏分離までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、寛永
	の三筆として知られる松花堂昭乗も八幡大 菩薩に仕える社僧の一人であった。
	1868年(明治元年)、仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮
	の放生会は仲秋祭に改めさせられた。
	1871年、官幣大社に列するとともに、社号を「男山八幡宮」に改名されるが、1918年には石清水八幡宮に復する。
	また現代では、パナソニックの創業者でもあり「経営の神様」とも称された松下幸之助が深く信仰したほか、厄除開運、必勝、商売
	繁盛、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。

	境内には、国の重要文化財に指定されている社殿をはじめ、楠木正成手植えの大楠(京都府指定天然記念物)や、織田信長奉納の
	「黄金の樋」「信長塀」などがある。

	<境内外社>
	高良社(鳥居)高良神社、相槌神社、石清水社、大扉稲荷社、三女神社、水分社、広田社、生田社、長田社、住吉社、一童社、龍田
	社、貴船社、若宮社、若宮殿社、気比社、 水若宮社など

	<付属施設>
	青雲寮、レストラン石翠亭、エジソン記念碑、鳩嶺茶園、青少年文化体育研修センター(楠峯館(宿泊)、鳩峯庵(茶室)、清峯殿
	(式場・会議室・宴会場)など



	
	<文化財>
	・建造物
	重要文化財「石清水八幡宮」16棟
	本殿及び外殿
	附・摂社武内社本殿、瑞籬
	幣殿及び舞殿
	楼門
	東門
	西門
	廻廊(楼門東門間)
	廻廊(楼門西門間)
	廻廊(背面)
	摂社若宮社本殿
	摂社若宮殿社本殿
	摂社水若宮社本殿
	摂社住吉社本殿
	東総門
	西総門
	北総門
	摂社狩尾社本殿

	<美術工芸品>
	重要文化財「石燈籠」 鎌倉時代
	重要文化財「木造童形神坐像」4躯(2006年度指定)
	重要文化財「石清水八幡宮護国寺略記」
	重要文化財「類聚国史 巻第一、第五」
	重要文化財「石清水八幡宮田中宗清願文」
	重要文化財「石清水八幡宮文書」 平安〜鎌倉〜室町〜桃山〜江戸時代

	<焼失した文化財>
	昭和22年(1947年)2月12日、社務所で火災が発生し、以下6件の旧国宝(現行法の重要文化財に相当)が焼失した。
	絹本著色八幡宮縁起 2巻 永享五年奥書
	絹本著色僧形八幡像 松花堂昭乗筆 附:漆塗箱
	木造男神坐像
	木造女神坐像
	太刀 銘助守作
	法華経 8巻 常子内親王筆



	
	<石清水八幡宮が登場する作品>

	徒然草第52段「仁和寺にある法師」
	和寺に居た老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。念願叶って石清水八幡宮へ行ったのだが、麓にある高良
	社や極楽寺などだけを参拝して満足し、他の人が石清水に行こうとして山を登っていたのに、今いる寺社が石清水だと思い込んで山
	に登らなかったという話。「どんな小さなことにも案内する人が必要である」という話であり、中学校で教えられることの多い文で
	ある。この話は、石清水八幡宮の本殿が男山の山頂にあることや、麓の摂末社も相当に壮大な造りであることを知っていて、初めて
	理解できる逸話である。

	今昔物語集
	謡曲『弓八幡』
	謡曲『女郎花』
	謡曲『放生川』

	<交通>
	最寄駅 : 京阪八幡市駅より男山ケーブル男山山上駅
	駐車場 : あり(但し、西側の住宅街を抜ける必要があり、かなり判りにくい)。山上にもあるが駐車台数はそう多くない。また花見
		 などの季節には制限される。



「エジソン祈念碑」の前で、世界に発信。エジソンは電球の実験にここの「竹」を用いて長時間発熱に成功した。



		
	以下は大分県の「宇佐神宮」を訪れた時に書いた文章である。「歴史倶楽部annex」の「寺社仏閣」コーナー「宇佐神宮」から転載。
	
	こんにち八幡神宮もしくは八幡神社と呼ばれるものは、全国に一体いくつぐらいあるのだろうか?諸縁起によれば、日本全国に八幡と
	つく神社は3万とも4万社とも言われているようだ。私の故郷にも「はちまんさん」と呼ばれる神社があり、それも一つだけではなか
	った様に思う。私の故郷は城下町だが、通った中学校は城跡で、そこからすぐの所に格式高そうな「八幡社」があったし、他にも幾つ
	かの「はちまんさん」があった。小学生の頃はここで行われていた夜祭りに出かけ、露店で買う綿菓子やスルメくじに胸躍らせたもの
	だが、夜祭りはいつの頃からかもう行われなくなった。

	八幡神社の総本山という表記にしても、私が以前住んでいた京都府八幡市の「石清水八幡宮」にも、今回訪れた宇佐神宮にも、「全国
	八幡宮の総本山」という表記が見られるし、一体「八幡宮」というのはどんな神様で、どこから始まっているのだろうか。これは、神
	道関係によほど詳しい人でも無い限り、普通の人ならまず自然に抱く疑問だと思う。なぜ日本中に「はちまんさん」があり、我々日本
	人はなぜさしたる疑問も抱かずに、家の氏神様としてすんなり「はちまんさん」を受け入れているのだろうか?
		
	【八幡宮は現在日本中で祀られ広く知られているが、もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった。宇佐に初めて八幡神が
	顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐地方の神として大神
	(おおが)氏と辛島(からしま)氏によって祀られた。しかし、その神が一体どんな神だったかについてはわかっていない。】
	
	上記は、大分県立歴史博物館が発行している「総合案内」に書かれた「八幡神について」の部分に書かれた文章である。ここに言う大
	神氏、辛島氏とは一体何物なのか? またどうして「どんな神だったかについてはわかっていない。」のか。
	欽明天皇と言えば、仏教伝来の時の天皇として古代史では有名である。伝来の年をめぐっても諸説あり、「日本書紀」では欽明十三年
	(552)とされ、また「元興寺縁起」では欽明七年の戊午年(538)となっているが、両書ともに仏教の伝来は「欽明天皇の御世」と、
	書かれているので、欽明天皇の時代に仏教が伝来してきたのは間違いないと思われる。日本書記によれば、欽明天皇の治世は32年間
	で、八幡神が出現した欽明天皇三十二年(571)に欽明天皇は没しているのである。

	一説によれば、古来より豊前地域は秦氏やその一族である漢氏の居住していた地域とされ、新羅系加羅人と思われる秦氏の故地である
	「加羅」から、辛島(からしま)という名前も来ているという。辛島氏も秦氏一族なのだ。「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」
	が古名で、「八」は多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義だという。「幡」は「秦」とも「旗」とも言われる。八幡とは文字通り、
	多数の「秦氏」が住むところ、あるいは多数の「秦=旗」が立つ所なのだ。そして欽明の出自も豊前辺りだという。この説によれば、
	八幡神は新羅からの外来神で、宇佐においては新羅系加羅人の氏神だったという事になる。宇佐八幡神は新羅の神だったのだ。
	「どんな神だったかについてはわかっていない。」と書くはずである。この説を信じれば、日本中が「新羅の神」を祀っていることに
	なるのだ。
	欽明天皇御代の国際的な記事として見逃せないのは「任那日本府」の滅亡である。「任那」という呼び方は日本書紀の中にしか現れず、
	中国・朝鮮の記録には一切その名前は出現しない。位置的には「書記」では伽耶とか加羅と呼ばれる、朝鮮半島南部中央部分を指すが、
	学者によっては「金官伽耶」と呼ばれる伽耶の中のごくごく一部の地域を指しているという意見もある。最近はこの「任那日本府」の
	存在そのものを否定する説もあるが、従来からの定説に従って「金官伽耶」の中に「任那日本府」が存在し、これが滅びたとすれば、
	その滅亡時に豊前へ逃れてきたという考えも成り立つ。いずれにしても、宇佐八幡神は宇佐地方の一地方神だったのである。記紀にも
	出てこない。
	
	【大宝戸籍・豊前の国風土記逸文】
	豊の国、特にその北側は、朝鮮半島や大陸に近いと言うことで、古くから渡来人達が住み着いていた事は想像に難くない。一般に、玄
	界灘沿岸地方から熊本県北部を流れる菊池川流域あたりまでに、渡来人の痕跡が多く残っているのはよく知られているが、正倉院に残
	る「大宝戸籍」(大宝2年: 702)は、仲津郡丁里など豊前地域の3つの村に住む683人を記載している。このうち秦氏(はたし)
	や勝姓(すぐりのかばね)といった、渡来系と思われる人たちの割合は83%と極めて高い。一方「新羅の神」が祀られていたことを
	伝える「豊前の国風土記」逸文の記述は、渡来系の人たちが様々な信仰を持ち込んでいた事を示唆している。田川郡香春郷(かわらの
	さと)に、新羅の神が祀られてあったと記述する。「日本書紀」には、天皇の病気を治すために、「豊国奇巫」(とよのくにのあやし
	きかんなぎ)や「豊国法師」という人物が招かれたとあるが、これも豊の国の渡来人である可能性が高い。

	そんな地方の神に過ぎない宇佐八幡神が、一躍全国的な神へ展開していく画期が訪れる。養老四年( 720)の大和朝廷による隼人出兵
	である。隼人出兵にあたって朝廷は八幡神を守護神とするが、この出兵が朝廷の勝利に終わり、八幡神は朝廷の守護神となるのである。
	その後の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱などにおいても守護神として敬われ、中央神としての性格を持つようになる。そして天平勝宝元年
	( 749)の東大寺大仏造営を援助した功績で、八幡神は皇族に与えられる一品(いっぽん)という位を得た。皇族と同等のあつかいを
	受けることになった八幡神は、やがて大帯(おおたらし)姫神が息長帯(おきがなたらし)姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果
	として八幡大神は神功皇后の子・応神天皇と認識されるようになった。なぜ応神天皇とその母である神功皇后を、近畿地方でなく、宇
	佐で祭るのか。
	宇佐八幡宮の祭神は、延喜式(905〜927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯姫神、比刀i姫)神の三神とある。最後の比
	神とは宇佐地方・御許山の神であるが、宗像の三姫神と対比して論じられる事もある。比淘蜷_は三人の真ん中に鎮座していて、主神
	の扱いである。この神は一体どんな神なのか。宗像三女神といわれるのは、日本書紀の「一書」にあるだけである。なぜここに祭られ
	ているのか?
	時代はくだり都が平安京へ移ると、八幡神は都の西南の男山に勧請(かんじょう:遷座)された。石清水八幡宮の創設である。現在の
	京都府八幡市だ。我々家族はこの男山団地に7年住んだ。幼い子ども達の手を引いて、タケノコ林の裏山を歩いてよく石清水八幡宮へ
	遊びに来たものだ。
	さらに武士の頭領たる源氏が八幡神を信仰し、康平六年(1063)には鎌倉へ勧請して、鶴岡八幡宮を創設した。こうして八幡神は、時
	の権力と結びついて全国展開を遂げてゆくのであるが、その過程で宇佐神宮は石清水八幡宮の支配下となり、九州の有力神社という立
	場になっていった。鎌倉幕府の成立により、地頭が諸国へ派遣され、各地に源氏が信仰する八幡神を祀った。こうして全国に広まった
	鎮守としての八幡宮は、やがて「ムラの守護神」となっていき、村人達から「五穀豊穣」、生活の「安穏」を祈る神として信仰された
	のである。
	一方で、特に武士の間でも、守護神あるいは武運の神としての崇敬は続き、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)の名号は
	戦場で武士達によって唱えられた。鎌倉時代後半の「蒙古襲来」においても、戦いの勝利は神仏の加護によるとされ、なかでも八幡神
	の霊験は広く崇められた。こうして、武士、農民を問わず八幡神は、あまねく我が国の津々浦々にまで行き渡り、広く国土と国民を守
	護する国家神となったのである。



	
	八幡宮から徒歩で降りてきて、西本さん、杉本さんが本日歴戦の跡を披露。杉本さんはサイクリングの最中に、道の真ん中に立って
	いる車止めにぶつかって転倒し負傷。川を眺めていて、道の真ん中に3本も立っている「車止め」に気づかなかったらしい。くくく。
	西本さんは八幡宮からの帰り、参道脇の石段から足を踏み外して森の中へ。幸いケガはなかったがズボンがよれよれ。あの後「携帯
	が無い」と言ってましたが、西本さん、見つかりましたか?





松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)がもともと住んでいたという松花堂跡。









正法寺








	
	■正法寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	正法寺(しょうぼうじ)は、京都府八幡市にある浄土宗の寺院。山号は徳迎山。本尊は阿弥陀三尊像。この寺は、源頼朝の御家人で石
	清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基となり、1191年(建久2年)創建した寺と伝えられる。以後この寺は志水氏
	の菩提所となった。1546年(天文15年)には後奈良天皇の祈願所となっている。また、徳川家康の側室お亀の方(尾張徳川家の
	祖徳川義直の生母)は志村氏の出身であることから、江戸幕府から朱印状を得た。なお、八幡市八幡高坊にある八角堂は現在正法寺の
	境外仏堂となっているが、八角堂は建保年間(1213年〜1219年)石清水八幡宮の社家善法寺祐清が石清水八幡宮の境内に建立したもの
	で、神仏分離に伴い現在地に移されたも のである。



	
	<文化財>

	重要文化財
	本堂	大方丈	唐門	大方等大集経	絹本著色如来像	木造阿弥陀如来坐像(京都国立博物館寄託)
	木造元三大師坐像(京都国立博物館寄託)











松花堂






	■松花堂	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	松花堂(しょうかどう)は、京都府八幡市にある日本庭園と美術館。国指定史跡。松花堂昭乗が江戸時代初期(1637年)にかまえた方丈
	と庭園で、現在八幡市立松花堂庭園・ 松花堂美術館として整備されている。京阪電気鉄道京阪本線 樟葉駅または八幡市駅より京阪バス
	で10分、「大芝・松花堂前」下車すぐ



こちらは松花堂庭園の裏側である。この門は通常は閉められている。車塚古墳もこの門の向こう側にある。





	
	<松花堂弁当>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	松花堂弁当(しょうかどうべんとう)は、中に十字形の仕切りがあり、縁の高いかぶせ蓋のある弁当箱を用いた弁当。仕切りのそれぞれ
	に刺身、焼き物、煮物、飯などを見栄え良く配置する。盛り分様式としては、ごはんと数種類のおかずを組み合わせたものであり、幕の
	内弁当に似ているとも言え、しばしば混同もみられる。しかし源流は、幕の内弁当が本膳料理の流れを汲む江戸時代に遡るものであるの
	に対し、松花堂弁当は懐石料理(茶料理)の流れを汲み昭和になってから誕生した様式であり、歴史は大きく異なる。

	「松花堂」の名は、江戸時代初期の石清水八幡宮(京都府八幡市)の社僧であった松花堂昭乗(1584年 - 1639年)に因むものである。
	昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していた。その入れ物が松花堂弁当
	に発展したのは、それから数百年たってからである。昭和の始め(昭和8年 (1933年)頃とされている)、代々式部卿を務めた貴志宮家
	の大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された折、日本屈指の名料亭である大阪の「吉兆」の創始者である湯木貞一が、貴志家
	の当主、貴志奈良二郎(二代貴志泉松庵)よりこの器で茶懐石の弁当をつくるようにと命じられ、後にその事が話題となり、松花堂弁当
	の名が広まった 。十字形の仕切りがあることで、見た目が美しいだけでなく、互いに味や匂いが移らないと考えたためである。湯木は、
	当時他家から松花堂弁当の依頼を受けると、その都度 貴志家への挨拶を怠らなかったという。
	異説として「松花堂昭乗が、上記の十字の仕切りがはいった箱に料理を盛って、来客をもてなした」とするものもあるが、おそらくこれ
	は後世の創作あるいは誤解に基づくものであるとされている。現在の松花堂庭園内には、京都吉兆が出している料理店「吉兆」がある。
	今はRenovoに替わった元IBM社製のノートPCの「ThinkPad」は、松花堂弁当の弁当箱をコンセプトにしてデザインされたと言われている。



	■松花堂昭乗	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) − 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の
	僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、
	書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦ととも
	に「寛永の三筆」と称せられた。また松花堂弁当でも有名である。

	天正10年(1582年)摂津国堺に生まれる『中沼家譜』。天正12年(1584年)説は『松花堂行状記』による。
	文禄2年(1593年)この頃近衛信尹に仕える。これは、昭乗の兄(中沼左京)が一乗院門跡尊勢(近衛信尹の次弟)に仕えていたことに
		よる。
	慶長3年(1598年)石清水八幡宮に入り出家、瀧本坊実乗に師事して密教を学ぶ。その後、権僧都宝弁について両部灌頂をうけ阿闍梨位
		に上がった。
	慶長20年(1615年)5月 大坂落城後、狩野山楽を匿っていたことで徳川方の厳しい詮索を受けたが、昭乗は「山楽は絵師であって武士に
		あらず」と言い張り、事なきを得る。 『本朝画史』
	元和5年(1619年)5月〜6月、徳川義直と近衛信尋を対面させるため奔走する。『昭乗書状』
	元和9年(1623年)6月 将軍秀忠・家光の上洛に際しての準備に奔走。
	寛永元年(1624年)近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向する。
	寛永3年(1626年)6月11日、徳川義直を席主とした茶会(昭乗は小堀遠州とともに近衛信尋、一条昭良、一乗院尊覚法親王、八条宮智
		仁親王等を招待)を催し、公武間の斡旋 に尽力する。
	寛永4年(1627年)実乗の死後(3月23日没)、瀧本坊住職となる。
	寛永5年(1628年)7月 大徳寺龍光院蜜庵で、江月宗玩のために小堀遠州、狩野探幽とともに絵筆をふるう(床脇小襖絵)。小堀遠州は
		昭乗のために瀧本坊に茶室「閑雲軒」を つくる。
	寛永6年(1629年)沢庵宗彭の紫衣事件による配流を嘆き和歌を贈る。
	寛永8年〜寛永10年(1631年 - 1633年)この間の茶会については『松花堂茶会記』。
	寛永11年(1635年)6月 この頃徳川義直と面会。
	寛永14年(1637年)11月、瀧本坊の焼失を期に瀧本坊を弟子の乗淳(昭乗の兄中沼左京の子)に譲り、自らは猩々と号して風雅の生
		活を送る。12月、住坊泉坊の一隅に方丈を建てて松花堂と称した。「12月16日付『昭乗宛遠州書状』及び12月23日付『永井直清
		宛昭乗書状』」
	寛永15年(1638年)3月 江月宗玩とともに吉野の桜を見に奈良を旅する(『松花堂芳野道之記』)。帰路、奈良野田の長闇堂に久保利
		世を訪ねる。




ここが庭園「松花堂」の正門。昔に比べると相当立派になっている。入り口も広くキレイになっているし、「吉兆」まである。







	
	庭園内に入ると、な、なんと休憩所に服部さんが待っていた。服部さんは昨年脳梗塞で倒れ、幸い初期だったので大事には至らなかった
	が、もうハイキングは無理なので飲み会には参加する。今日もこの後樟葉駅で例会の終了を待っていてくれると言う。ただ、呑みたいだ
	けかもしれんね。



庭園内の竹林の前で「世界へ発信」。





























足立寺跡史跡公園




	■和気神社・足立寺史跡公園(足立窯遺跡)

	松花堂から男山団地の中を抜けていくと、団地の外れに足立寺史跡公園というのがある。昔子供たちとよく散歩に来たところだ。
	ここは奈良時代から平安にかけての頃の古代寺院があった場所である。この周辺が西山なので「西山廃寺」と名付けられているが、
	足立寺という名前は伝承に基づいており、足立寺という名前ではなかったようだ。三重の塔を持ち、專仏や二彩壺なども出土して
	おり、相当な寺院だったことが伺える。和気清麻呂神社は、やはり岩清水八幡宮との関係だろうな、やっぱし。















	■【和気清麻呂・道鏡事件】

	和気清麻呂は天宝5年( 733)現在の岡山県和気町藤野に生まれ、姉の広虫とともに平城京へ上る。姉の広虫は朝廷で孝謙女帝の
	信任を得ていたため、弟の清麻呂は異例の出世を重ね、33才で従六位上右兵衛少尉となる。孝謙女帝は、淳仁天皇に譲位し上皇
	となるが、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」後天皇を廃帝、重祚(ちょうそ)し称徳天皇となる。そして寵愛の道鏡を天皇の座に
	つけようと考える。その時、太宰府から「道鏡が皇位に就ければ、天下は太平になるであろう」という宇佐八幡の神託があったと
	上奏してきた。その真偽を確かめる為、和気清麻呂が神護景雲3年(769)宇佐八幡へ派遣されるのである。

	清麻呂は、宇佐八幡で「臣は皇統には入れず。退けよ。」という託宣を受けたと報告し、称徳天皇の怒りを買う。清麻呂は穢麻呂
	(きたなまろ)と名を変えられ大隅へ流される。広虫もまた狭虫(さむし)と名を変えられ、備後へ配流されてしまう。しかし天
	皇と言えども神託は覆せず、称徳天皇・道鏡の野望は泡と消える。称徳天皇の失望、怒りは深く、宝亀元年( 770)女帝は、失意
	の内に53才で崩御する。後ろ楯を失った道鏡は下野国(栃木県)薬師寺の別当に左遷され、3年後にこの地で没した。そして清
	麻呂と広虫は都に呼び戻され復帰するのである。清麻呂は桓武天皇に遷都を提言し、その推進責任者となって、長岡京、平安京と
	遷都を実現した。延暦13年(794)平安遷都。清麻呂は遷都の2年後、平安京造営太夫となるが、延暦18年(799)67歳で没
	した。ここから華麗な平安時代が幕を開ける。



	
	清麻呂が、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮へ来たのかをめぐっても論議は絶えない。宇佐に天皇家の宗廟が置かれているのはなぜな
	のか。宇佐地方は、天皇家にとって、古代にどれほどの聖地であったのか。平城京から近いのは伊勢神宮のはずなのに、清麻呂が
	伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かうのはどうしてなのか? どうして伊勢に行かず、わざわざ宇佐まで来たのか?万世一
	系が途絶えるかもしれないお国の一大事に、と言うわけだ。日本史は謎だらけで、ほんとに面白いったらありゃしない。

	道鏡の野望を退け、国体を鎮護した功績により、和気清麻呂は朝廷より崇敬されるようになった。以来宇佐神宮への勅使は「宇佐
	使」と呼ばれ、天皇の即位奉告の勅使には代々「和気氏」が任命された。その後も朝廷から宇佐への勅使参向は連綿と続き、平成
	7年10月には、第254回の勅祭が執り行われている。
	宇佐神宮近くに和気と言う地名の場所がある.清麻呂が船でこの地まで入り、船を繋いだという言い伝えに基づいて「清麻呂の船
	つなぎ石」と呼ばれる所がある。功績を称え、そばには功績碑と祠が造られている。また、皇国の救い主として和気清麻呂は、明
	治23年(1890)以来戦前(昭和14年:1939)まで、一貫して十円札の肖像画に描かれていた。





樟葉宮跡の杜










	
	■市民の森(枚方・継体天皇樟葉宮跡)・交野天神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	所在地 大阪府枚方市楠葉丘2-19-1
	主祭神 光仁天皇
	天兒屋根命
	菅原道眞
	創建 延暦6年(787年)

	交野天神社(かたのてんじんしゃ)は大阪府枚方市にある神社である。名前は「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれる。『続日本
	紀』及び『岩清水神宮 縁起』によると、 桓武天皇が延暦6年(787年)、交野に父光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けたとあり、ここ
	がその地とされている。1402年(応永9年)の創建と伝えられる一間社流造檜皮葺。 隣接して八幡神社の末社が並んでおり、本殿より
	やや小振りでほぼ同じ造りをしている。1950年(昭和25年)に国の重要文化財に指定された。
	原生林が生い茂っている。本殿の北東に貴船神社の末社がある。この場所は継体天皇の樟葉宮跡と伝えられている。神社の境内一帯は
	1984年に枚方市から「枚方八景」の一つ 「樟葉宮跡の杜」に指定された。最寄駅:京阪樟葉駅より北東へ2km。樟葉駅発着のくずは丘
	コミュニティバス終点の市民の森バス停より徒歩5分。







	
	■継体天皇樟葉宮跡

	第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に生ま
	れ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であり、おそ
	らく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思われる。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国への遷都、馬
	飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測できる。)
	息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神功皇
	后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われるものが
	多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて5代後の舒明
	(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。
	さて、琵琶湖・淀川水系に力を持っていた豪族に支えられ継体は天皇となるが、当然奈良にいたそれまでの王族につながるもの達は面
	白くない。王族とは言え直系でもない「遠い王族」(応神の5世。あるいは5世の子)がいきなり天皇に即位するのである。「それなら
	俺だってなれる」と考えた者達がいたとしても不思議ではない。むしろ古代にあってはその方が自然である。おそらく、王権を巡って
	の争いが20年間続いたのではないか。危機に瀕するたび、あるいは戦いにおける防衛上の理由で、継体は樟葉、筒城、弟国と遷都を繰
	り返したと考えられる。大和盆地の勢力はそれほどに強かったのであろう。しかしやがてその大和勢力も、越前・近江・淀川水系連合
	軍である継体軍門に降り、継体は即位から20年後に、大和の磐余の玉穂宮へ入るのである。



	
	継体が仁賢天皇(24代。武烈天皇の父)の娘、手白香(たしらか)皇女(武烈の姉)を妃に迎えるのも、自らは王族の血統から遠いた
	めあえて皇統の血を濃くしようとしたとも考えられるし、あるいは、大和勢は仁賢・武烈の血を引く者こそ正当な王位継承者であると
	いう態度を崩さなかった為、手白香皇女の生んだ欽明天皇(第4皇子)がやっと即位できるような年齢になった頃、やっと大和入りを
	許されたとも解釈できる。継体天皇は、我が国で始めて生前に譲位した天皇としても知られているが、第一皇子の安閑(あんかん)天
	皇に譲位した当日に崩御したとされているのはどうも作為臭い。安閑天皇の次は第2皇子の宣化(せんか)天皇が即位するが、この2
	人の天皇は即位していないという説もある。継体の次はいきなり第29代欽明天皇だというのだ。継体を擁立した大伴氏と、欽明天皇を
	推す蘇我氏の対立がからんで、継体以後の王位継承も混沌としていて霧の中である。



	
	安閑、宣化天皇は在位期間が4年である。継体天皇も大和入りしてからは4年で崩御するが、大和入りの直後北九州で有名な「磐井の反
	乱」がおきる。この事件の詳細についてはまた別の機会に譲りたいが、この反乱も継体の大和入りに対する反抗と見れなくもない。い
	ずれにしても、継体の即位・大和入りを巡っての期間は我が国の王権を巡る大混乱の時期だったのは確かである。継体陵は、彼と結び
	つきの強かった北河内の弟国(乙訓:現大阪府高槻市)にある。




■待っていた服部さんも交えて、樟葉駅前にて反省会。駅前の商店街モールも随分キレイになっていて店も相当増えていた。



	
	栗本さんから、橋本さんが心筋梗塞で入院したという話を聞いた。栗本さんは、「私が胃がんになって、服部さんが脳梗塞、橋本さん
	が心筋梗塞と、これで日本人の三大死因のすべてを、我が歴史倶楽部のメンバーで体験したことになるね。」と笑っているが、お三方
	とも症状が初期で良かった、良かった。橋本さん、お早い回復をお祈りします。ちなみにこのお三人は同じ歳です。







	
	この地は古くより、三川合流の地として交通の要であり、また軍事上でも重要な地点であった。それ故に、淀川陣営を勢力の基盤にし
	たと思われる継体天皇もここに宮を築いたのであろう。また「天下分け目」の天王山は、淀川を挟んでこの地の来た向かいに位置して
	いる。かっては八幡と樟葉の間にある「橋本」に遊郭が存在し大いに賑わっていた。現在も、橋本を歩くとわずかながらその面影を偲
	ぶことができる。
	宇治川と木津川に挟まれた中洲には数万本の桜が植えられ、季節には花見客でごったがえし、「中洲では地面が見えない」というほど
	である。近隣有数の桜の名所になっているし、岩清水八幡宮にも桜があり、また男山団地の中にも「さくら公園」があって、花見の場
	所にはことかかない。




邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部例会 / 石清水八幡宮の町