Music: 旅愁
歴史倶楽部 161回例会
曼殊院門跡
2010年12月26日





上右手の敷地が武田薬品工業の薬草研究所。

	曼殊院	天台宗 左京区一乗寺竹之内町42  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)
	は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮
	院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌
	集をはじめ、多くの文化財を有する。近畿三十六不動尊第十七番。

	他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃
	に北山(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地
	に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。

	曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当
	(責任者)を兼ねていた。通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である
	北野神社の創建(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではな
	く、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と
	是算の没年である寛仁2年(1018年)の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性が
	あると言えよう。




	曼殊院は、圓光寺から北へ徒歩10分ほどのところである。圓光寺から北へ細い道を歩いていくと、武田薬品工業の薬草研究所が
	あらわれる。広い敷地内に瀟洒な建物が並んでいる。金持ち企業の施設は全く豪華である。登り坂を少し進むと曼殊院に至る。
	途中左手に鳥居があるが、曼殊院天満宮・弁天堂である。今日は工事中だった。ここを過ぎると、最初に目に入るのが勅使門、石
	垣に白壁でなかなかいい雰囲気だ。曼殊院は、もとは比叡山に最澄が開いた坊が始まりで、天暦元年(947)、住持の是算(ぜさん)
	国師が菅原氏の出であったことから、曼殊院の門主は代々、北野天満宮の別当を兼務して明治の初めまで続いていた。それで天満
	宮があるのだ。



勅使門。上の写真を取り込んだ正面からの全体像が、下の写真。なかなか荘厳な構えである。







拝観入口のある北の通用門。入場料600円なので、ここも庭の拝観はパス。






	有名なキリスト教系の「関西セミナー・ハウス」(関西企業にはここで企業研修を受けた人も多い)を抜けていくと、音羽川に突
	き当たる。ここに京都府の土木工事事務所が立てた砂防工事の看板があった。これはもう犯罪に近い。






	こんな砂防ダムを川全体に渡って、上流から下流にまで施して、しかもそれをモデル事業として啓蒙しているのだ。川をこんなに
	してしまって、その成果を誇っている。役人達のやることは、もう「呆れ」を通り越して哀しい。日本人とはここまで馬鹿なのか
	と思ってしまう。イヤだ、イヤだ。全く魚影はないし、水性昆虫も当然死に絶えている。ここまでする必要がどこにある。この川
	が大洪水で被害をもたらしているとでも言うのだろうか。セメント屋と土建工事屋を潤わせるだけではないか。日本人は、こうや
	って少しづつ自らの国土を毀してゆき、やがて後世の子孫達からその所業を糾弾される事だろう。
	諫早湾干拓しかり、有明海堤防しかり。




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