Music: さくら
歴史倶楽部 161回例会
圓光寺
2010年12月26日






	ここで橋爪君の携帯が鳴った。なにやら知り合いが近くに居るような話しぶりだ。「え、何。百万遍におるんか?」とか言
	っている。話し終わって聞くと、何と東京に居る息子が、彼女に会いに近くに来ているという。息子は今年就職して東京に
	いるが、彼女はまだ学生で、近くの京大にいるのでちょくちょく帰って来ているらしい。「奈良には全然帰ってこないのに」
	と、それでも奥さんも嬉しそうである。当然息子も京大出身だ。
	「会う時間あるんなら、行きなはれ!」「吉田校舎言うたらそこやんか。」「そやそや、東京からきとるんなら行かんと。」
	と、3人で二人を息子の元へ送り出した。
	橋爪君は5人が3人になるのを済まなさそうにしていたが、「行き、行き!早よ。こっちはどうでもええから、そんなもん」
	と言うと、奥さんと二人喜び勇んで息子の元へ去っていった。彼女も居るのかしらん。

	と言うわけでここからは、歴史倶楽部始まって以来の、3人の例会になってしまった。しかし、今日は天気も良く、距離的
	にも短いので、3人で「のんびり散策」するのも又一興だ。
  





	圓光寺(えんこうじ)	臨済宗南禅寺派 瑞巌山圓光寺  京都市左京区一乗寺小谷町13

	圓光寺は、詩仙堂から北へ徒歩3,4分ほどのところにある。慶長5年(1600)、学校として徳川家康が伏見で起こしたのが
	始まりで、一時期、相国寺山内に移ったが、寛文7年(1667)にここへ移されている。伏見にあった頃の圓光寺は、足利学校の
	三要元佶(さんようげんきつ)閑室(かんしつ)を招き、文教事業に傾注していた。特に朝鮮から輸入した木版活字を使っ
	た書籍の出版活動をしていたことが有名である。圓光寺には今も伏見版木活字52320個が残っていて、陳列されている。
	紅葉の名所として知られる栖龍池(せいりゅうち)を囲む庭園「十牛(じゅうぎゅう)の庭」は、禅の修業の課程を表して
	いるといわれ、11月中旬から見事な紅葉に包まれる。水琴窟の澄んだ音も聞かれ、夜はライトアップされる。




	どういうわけだか、デジのsizeが小さなサイズに変わっていて、きれいな写真になっていない。拡大してみたが、それでも
	よく判別できない。ま、大意、以下のような事が書いてある。この前後3,4枚の写真はみな小サイズだった。


	圓光寺は臨済宗南禅寺派に属する古刹で、号は瑞巌山(ずいげんざん)である。圓光寺の創建は、徳川家康が慶長6年(1610)
	に京都伏見に開いた学問所が起源となっており、足利学校から招いた三要元佶(さんようげんきつ)和尚が開基した。徳川
	家康はこの寺で武士や僧侶に儒学を習わせた他、十万もの木製活字を与えて多くの書物を出版させた。使用された木製活字
	は現存する活字としては最古といわれ、国の重要文化財に指定されていまも大事に保存されている。寺地の移転や焼失を経
	て寛文(かんぶん)7年(1667)に幕命により定められた今の地に再建された。
	本尊の千手観世音坐像は本堂に安置され、尼僧の専門道場として歴史ある禅堂は、今は南禅寺の研修道場として使われてい
	る。元佶和尚像一幅と円山応挙が描いた重要文化財の竹林図屏風六曲一双などを寺宝として所蔵している。
	






境内への生け垣には山茶花(さざんか)が咲き乱れていた。椿と山茶花の見分け方を、植物博士の錦織さんに教わった。





上左、玄関の襖絵。











昔、松下電器の子会社で四国にあった「松下寿」という会社がお客さんだったので、この絵の表題にはびっくりした。























玄関横に庭園への入口。本堂前の水琴窟で、竹筒に耳をつけると琴の音に似た涼しい音がきこえる。




	ここは修行道場で、長い間一般公開されていなかったが、新緑と紅葉の美しさで知られていた。公開後は、秋に夜の拝観が
	行われるなど、多くの人が訪れている。庭園へ一歩足を入れると、水琴窟が迎えてくる。
	シーズン外れの夏・冬は訪れる人もマバラ。ゆっくりと本堂 から庭園が眺められ、気持ちが落ち着く。庭園にある栖龍池
	(せいりゅうち)は、洛北一の古い池といわれている。
  




緑の濃い庭園で、聞こえるのは野鳥のさえずり。本堂から見る庭園は、すばらしい。紅葉はさぞ見事だろう。






	境内の墓地には、儒学者の中村タ斎(てきさい)、広島で原爆に遭遇したマレーからの留学生、オマール、井伊直弼に仕え
	た密偵・村山たかの墓などがある。さらに、その墓地の奥の高台に徳川家康を祀る「東照宮」がある。東照宮のある高台か
	らは、市街・洛北一帯が望めるらしいが、河内さんも錦織さんも上がって行こうとはしなかった。かく言う私もだが。





オマールなんて初めて知った。何故、武者小路実篤なんかが追悼文を書いているのかもよく判らん。


井伊直弼に仕えた密偵・村山たかの墓。たか女は、ここから300mほど南の金福寺で生涯を終えた。




	錦織さんと二人で、「いやぁ、もうかすれて戒名も読めまへんなぁ。」「相当古そうやん。」などと話していると、後から
	河内さんが、「何してまんね、裏側見ても何もわからんですやろ。」と言う。立て看板が、表も裏も「村山たかの墓」とな
	っているので、てっきりこっちが表と思っていたのだ。
	下が表で、ちゃんと「清光素賓禅尼」という戒名が見える。まぎらわしい看板じゃ。





これは石像をそのまま墓石にしたものらしい。こっちの方がたか女に相応しいような気もする。「入れ替えトコか?」「アホな!」









通りすがりの邸宅の玄関が、まだ正月まで1週間もあるのに、もう門松を備えてあった。気の早い。それとも海外にでも行ったかな。



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