Music: シャボン玉飛んだ
歴史倶楽部 161回例会
八大神社
2010年12月26日








	八大神社(はちだいじんじゃ) 京都市左京区一乗寺松原町1

	祭神:素盞鳴命(すさのうのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、八王子命
	今から約700年前の永仁2年(1294)の創建。応仁の乱の兵火により焼失したが、慶長元年(1596)に再建されたもの。八大神
	社は、祇園社(現八坂神社)と同格で、皇居守護神12社中の1社として、東北隅の表鬼門に位置したことから北の祇園社とし
	て方除、厄除、学業の神として厚く信仰された。後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇などの修学院離宮行幸の時には、白銀などが
	奉納された由緒ある神社である。











本殿横に奉られている初代の下り松







宮本武蔵のブロンズ像。


	詩仙堂のすぐ東隣が八大神社。八大神社が有名になったのは、吉川英治の小説「宮本武蔵」の中で、武蔵が一乗寺下り松の決闘
	の前に立ち寄ったと紹介されてからである。武蔵21歳の時、八大神社の境内にあった「下り松」の下で吉岡一門と決闘を行っ
	た事になっている。
	その決闘の朝、武蔵は八大神社の神に祈ろうと立ち寄ったが、神の寸前で考え直し、そのまま戦いに挑んだと伝えられている。
	祈りを止めた武蔵の心境は、有名な「独行道」という遺文に「我、神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず」と書き記されている。
	決闘から約400年が経ち、平成14年秋に、決闘に挑む武蔵のブロンズ像が本殿横に設置された。




	宮本武蔵 下がり松の決闘 吉川英治
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	小説「宮本武蔵」は、昭和10年から14年にかけて朝日新聞に連載された。それまでの武蔵のイメージと違って、吉川は、剣
	に心を写し、ひたすら己を磨く求道的な武芸者として武蔵を描いている。現在の宮本武蔵のイメージは、殆ど吉川英治が作り出
	したものと言ってよい。

	「もう人間の個々の振舞いなどは、秋風の中の一片の木の葉でしかない」。しかし武蔵にとって頼れるのはやはり剣しかない。
	孤剣! たのむはただこの一腰。武蔵は、手をやった。「これに生きよう! これを魂とみて、常に磨き、どこまで自分を人間
	として高めうるかやってみよ う!」 青春、二十一、遅くはない。(「宮本武蔵」地の巻)

	諸国を旅した武蔵は、生涯で60余度の勝負に挑んだという。21歳のとき京にのぼった武蔵は、名門吉岡道場の門をたたく。
	門弟との試合では6人を倒し、2人が死んだ。その後、当主の清十郎、弟の伝七郎が相次いで武蔵に挑むが、あえなく倒される。
	面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、又七郎(小説では源次郎)を跡目人にし立て、弓、鉄砲も携えた70人余人もの門
	弟たちが遺恨試合にのぞむことになっている。慶長九年の京都一乗寺下り松の決闘である。

	武蔵は約束の「一乗寺址下り松」には背後から山道を駆け下り、一気に幼い吉岡道場の跡目人を斬った。矢を刀ではねのけ、向
	けられた刀に斬り込んでいく。
	「彼の剣法には形も約束も極意もない。想像力と実行力が結びあって生まれた無名無形の剣なのだ」

	一乗寺の決闘は、武蔵の著述には一行もないという。後年、弟子筋らが書いた伝記「二天記」には「京洛東北の地 一乗寺藪ノ
	郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されている。
	小説では下り松にくだる途中、八代神社で神頼みを思い立ったことになる。しかし武蔵は、社殿の鰐口の緒に手をかけ 「一勝
	させたまへ。今日こそは武蔵が一生の大事。」と祈ろうとして、はっとその手をとめた。「さむらいの味方は他力ではない。死
	こそ常常の味方である。さむらいの道には、たのむ神などない」。『我れ神仏を尊んで、神仏を恃まず』
	神仏に頼ろうとした自分の弱さこそが問題だと思う。武蔵は後に、自戒の壁紙文「独行道」の一項に「仏神は尊し仏神をたのま
	ず」と書き残した。
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	よしかわ・えいじ 明治25(1892)−昭和37(1962)年。横浜市生まれ。
	高等小学校中退後、職業を転々としながら文学修行。大正15年に「鳴門秘帖」で作家デビュー。昭和35年に文化勲章受賞。
	著書に「宮本武蔵」「太閤記」「私本太平記」など。







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