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歴史倶楽部 161回例会
佛日山 金福寺
2010年12月26日









金福寺の表門は大きくない。表門への石段を登ると直ぐに拝観受け付けで、右手が庭園となる。



金福寺の入口にある、村山たか女が奉納したとされる弁天堂


	金福寺	(佛日山金福寺)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	金福寺(こんぷくじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺である。山号は佛日山。本尊は聖観音菩薩。詩仙堂の
	少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興
	された芭蕉庵がある。また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである村山たか(村山たか女)ゆかりの寺として知られる。

	864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。当初天台宗であったが、
	後に荒廃したために元禄年間(1688年〜1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より
	臨済宗南禅寺派に改宗した。
	その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と
	名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り、村山たか女
	(村山たか)が尼として入寺し、ここでその生涯をとじた。

	<芭蕉庵>
	庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。
	元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ば
	れるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興
	された。

	<文化財>
	芭蕉翁像・・・・・ 与謝蕪村筆 
	洛東芭蕉庵再興記・ 与謝蕪村とその一門が芭蕉庵を再興した際に、蕪村が寄せた俳文。 
	宝塔 ・・・・・・ 蛇が入っているもので、村山たか女が寄進した。 
	他

	<所在地>	〒606-8157 京都府京都市左京区一乗寺才形町20



芭蕉庵の扁額が架けられた庭園への入口





猫ちゃんが、蔵物展示場となっている書院の中を案内してくれる。



本堂前の枯山水の庭園(右手奥に歌碑が見える)。






	与謝蕪村	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の
	日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去
	来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅
	(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
	摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおりけまむら:大阪市都島区毛馬町)に生まれた。20歳の頃江戸に下り早野巴人(はやの
	はじん:夜半亭宋阿(やはんていそうあ))に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このと
	きは宰鳥と号していた。
	寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓
	し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮
	(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を
	号した。
	その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名
	乗ったという説もあるが定かではない。
	45歳頃に結婚し一人娘くのをもうけた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後京都で生涯を過ごした。明和7年(1770)
	には夜半亭二世に推戴されている。
	京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症
	下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は
	「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)にある。


	松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもあ
	る。写実的で絵画的な発句を得意とした。
	独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた
	中心的な人物である。蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られ、『俳
	人蕪村』(現在は講談社文芸文庫)がある。旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。

	蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規

	蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗

	作品

	春の海 終日のたりのたり哉		柳散り清水涸れ石処々 			鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 	
	花いばら故郷の路に似たるかな 		不二ひとつうづみのこして若葉かな 	牡丹散りて打かさなりぬ二三片
	夏河を越すうれしさよ手に草履 		ゆく春やおもたき琵琶の抱心 		易水にねぶか流るゝ寒かな 
	月天心貧しき町を通りけり 		さみだれや大河を前に家二軒 		菜の花や月は東に日は西に
	笛の音に波もよりくる須磨の秋 		涼しさや鐘をはなるゝかねの声 		古庭に茶筌花さく椿かな 
	ちりて後おもかげにたつぼたん哉 		あま酒の地獄もちかし箱根山 		鰒汁の宿赤々と燈しけり 
	二村に質屋一軒冬こだち 			御火焚や霜うつくしき京の町 		寒月や門なき寺の天高し 
	さくら散苗代水や星月夜 			住吉に天満神のむめ咲ぬ 			みじか夜や浅瀬にのこる月一片 
	秋の夜や古き書読む南良法師 		うつつなきつまみ心の胡蝶かな 		雪月花三世つゐに三世の契かな 



鳶鴉図(重文) 紙本着色
 こんな絵を見ると、蕪村が画家としても相当な匠だったのがわかる。


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	中学生時代、国語の中村先生にこの「奥の細道」の序を暗記させられた。空で朗読するテストがあって、当時は「月日は百代
	の過客にして、行きこう年もまた旅人なり。・・・」とすらすら言えたもんだが、もうダメである。45人の級友たちのなか
	で、完璧に言えたのは私だけだった。そういえば、国語の試験はほとんど満点だったね。一度だけ、「夕餉(ゆうげ)」の意
	味を問われて、「夕食」ではなく「夕方」と書いて満点を逃し、中村先生からエラく叱られた記憶がある。

	でも円周率は、今でも小数点以下30桁を暗記している。




	村山たか		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期
	に活躍した女性で、舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。

	1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預け
	られ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。
	20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り生まれ故郷の彦
	根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会い、その数年後直弼が長野主膳と出会い、たかとも深い
	関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる
	倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。
	1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日
	3晩晒されたが、女性ということで死罪を免れた。その後金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。墓
	は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。




	金福寺に展示されている、たか女が三条河原で晒し者にされた絵。その翌日には、主膳の門下生となっていた金閣寺の僧との
	間にできた彼女の息子・帯刀も捕まり、さらし首にされてしまう。大弾圧の片棒を担いだのでおそらく覚悟はしていたのだろ
	うが、この時の彼女の心境はいかなるものであったのか。さらされてから三日後、彼女に手を差し伸べる人がいた。百々御所
	(どどのごしょ)と呼ばれる宝鏡寺の尼僧だった。助けられたたかは、剃髪して妙寿尼と号し、その後は、東山山麓の金福寺
	で、直弼や主膳の菩提を弔いながら、静かな晩年を過ごし、明治九年(1876年)、67歳でこの世を去った。




	村山たかは井伊直弼の女スパイとして知られている。安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄で橋本左内らが死刑となったが、
	それら勤王の志士の状況を、長野主膳を通じて井伊直弼に送っていたという。




	村山たかは、多賀神社般若院の僧と彦根の芸妓との間に生まれたので、世間体から村山氏に預けられたものと想われる。18歳
	の頃、時の彦根藩主・井伊直亮(なおあき)に見初められて愛妾となるが、まもなく暇を出されて、京都で芸妓に出る。母と
	同じ道を歩むのであるが、可寿江の源氏名で、なかなかの人気芸者だったようである。間もなくこれも母と同じく、金閣寺の
	僧との間に子ができ、寺侍の多田源左衛門に譲り渡されるが、出産と同時に子供ともども離縁された。




	その頃、彼女は、井伊直弼と出会う。埋木舎(うもれぎのや)と呼ばれた小さな住まい(今も彦根城の前にある)で、学問三
	昧の日々(お茶と歌と鼓ばかりやっていたので、彦根藩士たちからは「ちゃかぽん」(茶・歌・ポン)と呼ばれていた。)を
	送っていた直弼も、その美しさの虜になったのかもしれない。かっては兄の愛人だった女を今度は自分の女にした。私見では、
	直弼には初めての女だったのではなかろうか。つまり「筆卸し」の相手である。しかし、やがて直弼は「たかとの縁を切りた
	い」と家臣への書状にも書いているように、たかと離別する。
	その後たかは、直弼の国学の師であった長野主膳義言(しゅぜんよしとき)とも心を通わせる。直弼に長野主膳を紹介したの
	はたかであるとの説もあり、こののち二人はともに、直弼の手足となって働くようになるのである。




	金福寺には、彼女が生涯大切にしていた直弼直筆の和歌の書かれた掛け軸が残っている。(写したつもりが、写真が無い。)

	柴の戸の しばしと云(い)いて もろともに  いざ語らわん 埋火(うずみび)のもと	 直弼

	生涯大事にしていたという記事を読むと、その波乱に満ちた彼女の生涯の、ただ一つの心の支えは、埋木舎で過ごした直弼と
	の、わずかな時間であったのかも知れないと思えてくる。



書院をでて、庭の脇を芭蕉庵へ登ってゆく。










	橋爪君の奥さんは、私のWifeと同様に書道をやっているそうで、ここらの歌で、書になるようなものは無いかと探していたが、
	「やはりここは墓ばかりなので、暗い歌が多いですね。これじゃ書にならないかな。」と言っていた。










現在も水が涌き出ている、鉄舟和尚が芭蕉をもてなす時に使われた井戸 (翁之水)













金福寺は知らない人も多いかもしれないが、呉春、景文、青木月斗、蕪村らの墓があり、俳人なら一度は詣でたい所だろう。





山の斜面をうまく使っている。高度があるので、墓からは市街が見渡せる。









上の最初の句、「春が来た 梅じゃ 芝居じゃ うかれ人」。これなら書にいいじゃないかと奥さんに言ったら笑っていた。



あの飲みやすい酒「呉春」の名前のもとになった松村呉春の墓。舎弟の景文と一緒に葬られている。

	呉春	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	呉春(ごしゅん、 宝暦2年3月15日(1752年4月28日) - 文化8年7月17日(1811年9月4日))は江戸時代中期の絵師である。
	四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字を裕甫、のち伯望(はくぼう)、通称を文蔵(ぶんぞう)、
	嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転(かてん)、允白(いんぱく)、存允白、孫石(そんせき)、軒号に
	百昌堂、蕉雨亭など。初期の画号・松村月渓が広く知られる。

	京都の金座年寄役の家に六人兄弟の長男として生まれる。何時頃から絵を学び始めたかは不明だが、最初は大西酔月の門を叩
	いたともいわれる。酔月の死後、安永の初め頃には与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。最初は趣味
	や余技として学び始めたが、安永4年(1775年)の『平安人物誌』の画家の項に早くも名前が載っている。安永末頃、何らか
	の事情で金座を辞すと、本格的に俳諧師や絵師として身を立てていく。

	呉春は、金座に勤めていた時、嶋原の名妓・雛路を身請けし妻としていたが、天明元年(1781年)3月、単身里帰りの途中海難
	事故に遭い妻を、8月には父を相次いで失う。傷心を癒す為か剃髪し、蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人を頼り、
	しばらく現在の大阪府池田市に転地療養する。翌年の正月、この地の古名である「呉服(くれは)の里」に因み、呉春を名乗
	るようになる。今でも池田市には「呉春」と言う名の地酒があるが、それはこの縁によっている。

	天明3年(1783年)蕪村が重病に伏せると、呉春は京に戻る。兄弟子紀梅亭と共に献身的に看病するけれども、同年末に蕪村
	は亡くなってしまう。師の死後も、自ら挿図を描いて遺作句集『新花摘』を出版し、池田と京を往復し蕪村の家族の世話をす
	る。しかし、この頃から次第に師匠とは対照的な画風である円山応挙に接近していく。

	文化8年(1811年)7月自宅で没する。享年60。法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年、
	(1889年)9月、四条派の絵師たちによって金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。

	呉春は社交を好む粋な都会人で、絵の他にも俳諧、書、篆刻、謡曲、横笛、蹴鞠にも堪能だった。友人の上田秋成によると、
	応挙は衣食住に全く無頓着だったが、呉春は「食い物が解らない者は、何も上手になれぬ」と語っていたと言う。そうした気
	質が絵にも反映され、応挙及び円山派の写生画が、時に生真面目すぎて窮屈な感じを与えるのに対し、呉春の写生画には、平
	明で都会的な洒脱な要素が加味されている。こうした点が、当時の人々に一層親しく感じられ、呉春の四条派が円山派から独
	立した画派を形成できた理由であろう。頼山陽は「京都の画風は、応挙において一変し、呉春において再変した」と評してい
	る。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。







金福寺にある村山たか女の詣墓。本墓は約400mほど北にある圓光寺境内にある。



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