Music: 少年時代
歴史倶楽部 161回例会
一乗寺下り松
2010年12月26日






	一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)   京都市左京区一乗寺下り松町

	宮本武蔵は、慶長5年(1600) 17歳の時、友人の又八と関が原の戦いで石田光成らが率いる西軍に加わったが、西軍は敗れ、
	落ち武者となって諸国を遍歴しながら武道に励んだ江戸初期の剣豪である。島原の乱にも参戦しているから驚く。我が故郷、
	福岡県の秋月藩にも立ち寄ったという伝承がある。




	この武蔵が、慶長9年(1605)、京都の兵法家として名高い吉岡一門に挑み、吉岡清十郎に蓮台野(現在は佛教大学の敷地内)の
	戦いで勝ち、更にその弟の伝七郎を三十三間堂で破った。吉岡道場は、一門の面目に賭けて17歳の吉岡源次郎を跡目人として、
	武蔵に最後の一戦を挑んだ場所が、この一乗寺下り松なのだ。武蔵は、この決闘では源次郎をはじめ70数名もの門弟を相手に
	したとされるが、勿論真偽の程は定かではない。吉川英治は、武蔵を相当美化して描いているのではないかと思う。




	現在は住宅地の真ん中にあり、松も四代目。松の傍には『宮本・吉岡決闘之地』と刻した石碑が建っている。初代の下り松の古
	株は、ここから少し東へ行った「八大神社境内」に保存されている。武蔵決闘当時の初代下り松は、昭和二十年まで現在の位置
	にあり、二代目は修学院離宮から移植され、その後、三代目に植え替えられた。この三代目が、昭和五十六年三月ごろ、流行し
	た松くい虫の被害に遭い、同年五月ごろついに枯死してしまった。
	一乗寺のシンボルである下り松を途絶えさせない為、氏子の皆様により善後策が検討され、氏子の一人から、丹精を込めて育て
	てきたクロマツを奉納頂き、昭和五十七年一月十一日に四代目となる下り松が植樹された。



「宮本 吉岡 決闘之地」石碑    河内さんの反対側にいるのが橋爪君の奥さん。裏側の由緒を読んでいる。




	石碑は、大正十年、広島県呉の剣道家「堀 正平」氏により、自書自刻にて建てられた石碑で、堀氏は後に剣道九段となられた。
	堀氏は、以前から名刀を売ってでも、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の碑を、その地下り松に建てたいと思っておられ、石碑に、
	「大正十辛酉年 堀 翁女 建之」とあるのは、同年堀氏の妻が亡くなられ、その供養として自ら彫られたものだそうだ。剣道家
	たちからの香典と親族からの御供えを加え、自費で建碑されたものだという。(剣道藩士九段 堀正平 遺稿集 「正剣記」)




	下り松は古くからの交通の要所で、松の前で道が二つに分かれる。北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に、比叡
	山を経て近江へ通じる、平安時代からの古い街道である。一乗寺下り松には、由緒や逸話が数多くあり、中でも有名なものが
	「敦盛遺児伝説」である。一の谷で戦死した平敦盛の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育て
	あげたと、伝えられている。

	また、建武三年(1336年)、楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、この地に陣を構えたことも伝わっている。




	楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、後醍醐天皇を中心とした「建武の中興」
	ではその立役者として足利尊氏らと共に活躍した。しかし尊氏の反抗後は、南朝軍の一翼を担い、最後には神戸・湊川の戦いで
	尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれたが、明治以降は忠君として称えられ、「大楠公(だいなんこう)」
	と称された。明治13年(1880年)に正一位を追贈された。




	楠木氏の出自については河内国という意見が根強いが、これは大阪の千早赤阪村に居城を構えていたからであって、千早赤阪
	村には「楠公誕生地」が存在しているが、河内国及び他の出身地と言われる場所にも、楠木氏の由来となるような地名はない。
	一説には、駿河国入江荘楠木村(現静岡市清水区)を出自とする武士と言う見方もある。
	鎌倉幕府が永仁元年(1293年)に楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したという記録があり、当時幕府の有力御家人だった長崎氏の出自
	が楠木村の隣の長崎郷で、河内に領地を保有していた関係で楠木氏が河内に移ったと言う。正慶2年/元弘3年(1333)の公家
	の日記に、「楠木の根は鎌倉に成るものを……」と言う落首が記録されていることも、楠木氏が元々東国の出身だったことを示
	唆している。更に、現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。




	また一説には楠木氏の本姓は橘氏。伊予橘氏の橘遠保の後裔とされる(『系図纂要』など)。『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太
	平記』は橘為政の後裔とする。他に、武蔵国の出身であるとする説、秦氏の系統とする説、熊野新宮神職楠氏の系統とするとす
	る説(『熊野年代記』)もある。
	生年に関しての確実な史料は存在せず、父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしてい
	ない。そのため正成の前半生は殆ど不明であり、判明している生涯は元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか
	6年ほどに過ぎない。




	上左は、下り松の側にあった公衆トイレ。バス停前のスーパーで、一人ずつ順番待ちをしてトイレを借りたのに、ここへくれば
	綺麗なトイレがあったのだ。ここから右に行き、住宅街を抜けると北山別院、金福寺がある。



	洛中からあまり遠くないこの一乗寺周辺は、昔から都に住む文人、俳人など、知識人の隠棲の地となっていたようだ。江戸時代
	以前は、一乗寺から少し南の鹿ケ谷や岡崎辺りがその中心で、その代表格的山荘が「銀閣寺」といえる。人々が増えるにつれ、
	静けさを求め北の一乗寺、修学院あたりが隠棲地になってきたのかもしれない。哲学の道なども、西田幾多郎が選んだ隠遁の地
	だったのかも。
	一乗寺という名前はその昔、天台宗・比叡山延暦寺の末寺である園城寺の別院「一乗寺」という寺があったことからついた。南
	北朝時代末に廃寺となり、寺名のみが地名として残っている。この一乗寺に続く北側一帯を修学院と呼び、幕府の朝廷抑圧策に
	たまりかねた後水尾法皇が癒しを求めて造営した山荘が「修学院離宮」である。この山麓を散策していると、聞こえてくるのは、
	鳥のさえずりと、風に吹かれた草木の擦れ合う音のみである。




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