Music: 北上夜曲

歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
仲野親王陵古墳


	
	仲野親王【なかのしんのう】	  朝日日本歴史人物事典の解説

	生年: 延暦11 (792) 	没年: 貞観9.1.17 (867.2.25)(桓武天皇第十二皇子)

	平安前期の皇族。桓武天皇と藤原大継の娘沢子の子。利発で寛大な性格であったといい、藤原緒嗣から伝授された「奏寿宣命の道」
	(寿詞を奏し宣命を読誦する法)は当時の模範とされ、自邸六条第において藤原基経や大江音人らに伝え習わせたという。弾正台の長
	官などを経て、嘉祥3(850)年式部卿。生涯に男子14人、娘15人をもうけ、このうち班子女王所生の宇多天皇が即位したことで外祖父
	となり、没後仁和3(887)年、一品、太政大臣を追贈されている。右京区太秦箕山町にある前方後円墳が墓所(高畠墓)と伝えられてい
	るが、明治期に治定されたもので、形状からいっても疑わしい。 (瀧浪貞子) 

	仲野親王─班子女王(母山陽公秋裔当宗氏)─宇多天皇─醍醐天皇。





京福電鉄「帷子の辻」からすぐである。



住宅街の小高い丘の上にある。南は平地で台地上にあるが、形は前方後円墳になっている。



	
	●仲野親王陵古墳(片平大塚古墳:右京区太秦・帷子の辻=かたびらのつじ) 

	桓武天皇の皇子である仲野親王を埋葬してある皇室の陵墓が、仲野親王高畠陵である。この陵墓は南が平地で台地にあるが、その形
	は前方後円墳になっている。古墳時代後期に、この地域の首長墓として造られたものが、平安時代初期になって古墳の上に親王の墓
	を重ねて造ったと言われている。
	古墳は東南に向いており、その周囲に堀があったと思われる跡が、今も残っている。前方部が後円部よりはるかに大きいので、古墳
	が後期に造られたものとわかる。宮内庁管理なので古墳の保存はいいが、内部は調査されていない。



	
	片平大塚古墳は、主軸方向をほぼ東西にとる、全長約63mの前方後円墳で、南側くびれ部には造出を有し、南側が平地で台地上に
	ある。「第50代・桓武天皇皇子・仲野親王高畠陵」(867年没)として伝承されているが、学術的には、この古墳は蛇塚古墳より
	少し古いので、仲野親王とは年代は全く合わない。



	
	京都西部では、5世紀後半から6世紀後半の古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中しているが、その一つが片
	平大塚古墳で、秦氏が築いたものと一般には考えられている。ここも、6世紀初頭ごろの築造と推定されている。



	
	当時ヤマト葛城地方から移住してきた渡来系の秦氏は、京都市東部と西部に勢力をもっていたと云う。古墳時代後期に、この地域の
	首長墓として造られたものが、平安時代初期になって古墳の上に親王の墓を重ねて造ったと伝承される。写真の通り、本古墳の周囲
	に濠があったと思われる痕跡が、今も残っており、又後円部にある埋葬主体部施設は、横穴式石室と考えられている。





	
	墳丘の規模は、後円部の径39m、高さ5mで、前方部の最大幅は55m、高さ5mを測り、墳丘全長は63mとなっている。基本
	的には盛土で造られたものである。



と思いましたが、めんどくさいので、下に大きくしました。





前方部が後円部よりはるかに大きいので、古墳が後期に造られたものと言われているが、宮内庁管理なので、古墳内部は調査されていない。



	
	この高畠墓は考古学上は大塚古墳と呼ばれるが、大塚古墳という名は全国のいたる所にあるため、ここは地名をとって「片平大塚古
	墳」と呼ばれている。また垂箕山町にあるので、垂箕山古墳と呼ばれることもある。「太秦古墳群」を構成している。




	
	これで本日の歴史散歩は終了である。見てきたように、太秦の秦氏には多くの謎がある。その出自、派脈、大和朝廷でのその後、な
	どなど。桓武天皇が平安遷都するまでは、秦氏は総力を挙げて財政的な支援をしたものと思われるのに、遷都後の秦氏に関する記事
	が全く残っていない。秦氏の流れはこれ以降は、惟宗氏系と、三上氏・長曽我部氏系と、朝原氏系、金春家系、及び伏見稲荷神社と
	松尾神社社家の流れが系譜として残されているが、本流である太秦の秦氏はどうなったのかが、皆目分からない。実質的に惟宗氏が
	秦氏の家督を継いだのだろうか。883年、秦氏19氏が惟宗朝臣に改姓されたと記録に残っているので、この時太秦の秦氏は消滅
	したとも考えられるが、しかし、これ以降も秦姓は、日本各地に展開しているのである。

	ところで、我々も以前例会で訪れた山背国乙訓郡物集郷(物集女(もずめ)とも記す:現在の向日市物集女)に、物集女城址がある。
	戦国時代この地方にいた物集女氏が、この城を造ったとされている。この物集女氏も秦氏の流れを引く氏族とされる。現在も近くの
	京都市大原野(旧乙訓郡)近辺には、秦氏の末裔と思われる人々が現存しており、これが物集女氏と関係あったのかもしれない。
	古墳時代後期に築造されたとされる「物集女古墳」からは、おびただしい玉や装飾品、武具や馬具などが出土しており、相当な勢力
	を持った人物の墓であることは間違いないし、秦氏の一族であった可能性もある。

	長岡京建設には、秦氏が経済面で桓武天皇を助けていた。長岡京太政官院の垣を築いたのは「太秦公宅守」と記録されている。山背
	の秦氏だけでなく、近江その他全国の秦氏がこれを後押ししたようである。秦川勝の邸宅跡が内裏になったとの記録もある。ところ
	が、これだけ貢献した秦氏の記事が、平安遷都建設以降歴史上全く出てこなくなる。中村修也氏は、桓武天皇の平安遷都に伴う造営
	事業には、秦氏は意図的に協力をしなかったとの説を展開しているが、これには諸説あって、藤原氏がその総ての権益を奪ったとす
	る説が有力なようである。その後の藤原氏の台頭をみると、秦氏は衰退し、朝廷のタニマチの座は藤原氏に移ったとする方が正解か
	もしれない。



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