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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
蛇塚古墳


	
	●蛇塚古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	蛇塚古墳(へびづかこふん)は、京都府京都市右京区太秦(うずまさ)にある古墳。京都府下でも最大の横穴式石室をもつ前方後円墳
	である。国の史跡に指定されている(1977年5月4日指定)。




	
	墳丘の長さは約75メートルあったと推測されているが、封土は失われて後円部の石室のみが露出している。石室の全長は17.8m、玄室
	の長さ 6.8m、玄室の高さ5.2mで明日香村の石舞台古墳に匹敵する大きさである。床の部分の面積で比較すると日本で第4位の規模であ
	る。石室部分のみ国の史跡に指定されている。
	現在は崩落の危険があるため石室内部は鉄枠で補強されており、石室の周囲はフェンスで囲われて施錠され、普段は出入りできないよ
	うになっている。
	古墳時代後期の6世紀末から7世紀頃の築造とされ、現存する京都府の前方後円墳としては最後期に属する。被葬者は不明であるが、秦
	氏一族の首長クラスの人物ではないかと考えられている。被葬者を秦河勝とみる説もある。京福電鉄 帷子ノ辻駅より南に徒歩約7分、
	住宅地の中にあり場所はきわめて分かりにくい。



	
	「蛇塚」の名の由来について、石室内に蛇が棲んでいたことから名付けられたと説明されることがある。また周囲が住宅地になる前は、
	空き地に石室がそびえている状態であり、石室に近づくことができた。かつて「いわや(岩屋)」と呼ばれていた時期がある。石室の
	規模から蛇塚古墳はしばしば石舞台古墳と対比される。石舞台古墳の石室は花崗岩であるが、蛇塚古墳の石室は堆積岩である。蛇塚古
	墳の石室の天井石は失われている。かつて東北に「蛇塚撮影所(面影撮影所)」と呼ばれる撮影所が存在した(後に大映オープンセッ
	トの一部となった嵐寛寿郎プロダクション太秦撮影所)。



netから印刷した地図を頼りに住宅街を抜けていくと、突然剥き出しになった石室が現れる。古墳の全体形状はもう失われている。



あまりの大きさに唖然としてしまう。石室だけこういう形で残っているのは、飛鳥の石舞台古墳以外でははじめて見るかも。



廻りはフェンスで覆われていて中には入れないので、周囲をぐるっと一回りしてみる。





	
	それにしてもデカイ石室だ。これを盛り土の墳丘が覆っていたとすれば、幾世代にもわたって取り崩していったのだろうが、ここまで
	平坦にするのにも相当な労力を要したものと思われる。しかし石室の巨大な石群は、もう村人達の力だけでは動かせなかったのだろう。







	
	説明板のすぐ向かいの家に、「古墳当番」(?)のような掛札があったので、もしやこの家にフェンスの鍵があるのではと思って聞い
	て見ると、果たして、鍵は一軒向こう隣の家にあって、身重の若い奥さんが気軽に開けてくれた。さっそく順番にフェンスの中へ入る。





	
	巨大だ! 研磨や綺麗に形成はされていないが、石室を構成する石群としてはとてつもなく巨大である。壁石や天井石は、奈良の石舞
	台古墳よりも大きい。この石群こそ、まさに「一体どうやって?」と考えてしまう。「京都府下で最大の横穴式石室」というのも頷け
	る。呆れてしばらく石室内を眺める。綺麗に研磨こそされてはいないが、羨道の積み石を見ると、いくらか大雑把に、立方体にはした
	ようである。しかし大きい。





	
	これを作るのに、一体どのくらいの人員が必要なのだろうか。ホントに秦氏がこの辺りを治めていたのだとしたら、こここそ、正しく
	秦河勝の墓かもしれない。











	
	<嵯峨・太秦の古墳>
	蛇塚古墳を初めとして右京区の嵯峨・太秦地区には数多くの古墳があったが、都市開発によって消滅したものが多い。現存するものと
	しては以下のものなどがある。

	・天塚古墳(国の史跡) - 古墳時代後期、全長71mの前方後円墳。全長10メートルと7.5メートルの2つの横穴式石室を有する。 
	・千代ノ道古墳 - 古墳時代後期、直径16mの円墳。横穴式石室を有する。
	・双ヶ岡古墳群 - 雙ヶ岡(名勝)にある古墳時代中期の古墳群で20基ほどある。中でも1号墳(一ノ丘古墳)は直径44メートルの
	 円墳で、蛇塚古墳に匹敵する巨石を用いた横穴式石室を有する。 
	・大覚寺古墳群 - 古墳時代後期。4基の古墳のうち1号墳(円山古墳)、2号墳(入道塚古墳)は陵墓参考地。3号墳(南天塚古墳)は
	 喪失。 
	・甲塚古墳(かぶとづか)- 古墳時代後期の円墳(墳丘は全壊)、横穴式石室。「安堵の塔(ルルゲさん)」は石室の一部と伝えられ
	 ている。 
	・垂箕山古墳(片平大塚古墳・仲野親王高畠陵) - 蛇塚の北方500メートルにある前方後円墳、墳丘長75メートル。蛇塚古墳と同じ
	 く古墳時代後期に属するが、築造は6世紀中葉とされる。垂箕山古墳は保存状態が良く、現在は宮内庁が管理している。



敷地内にいろんなセットがあったが、おそらくは、もう営業していないのではないかという感じだった「松竹京都映画株式会社」。



宝賀寿男「古代氏族系譜集成」の葛野県主系図









	
	現在日本全国に秦氏の末裔とされる人々がいる。かって平成6年に総理大臣を務めた羽田孜(はたつとむ)氏も自分は秦氏の末裔だと
	自称していた。
	巻頭頁や上の系図で見て頂くように、秦氏の末裔とされる氏族には、惟宗氏、薩摩島津氏、宗氏、長宗我部氏、川勝氏、東儀家、天池
	氏、などがおり、この他にも実に多くの氏族が展開している。日本全国の「勝(すぐり/かつ)姓」も、秦氏の流れとされている。
	勝海舟もそうかもしれない。京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされる。「綾部」「園部」「六
	人部」「余部」「物部」「六万部」「土師部」「服部」などなど。
	しかしこの秦氏の全国展開の模様は、京都太秦に拠点を置いていた秦氏とは直接の関係はないと見た方が正解だと思う。全国展開の秦
	氏は、中村修也氏が言うように、「海を越えてきた人」を朝鮮語の海(hata/bata)という意味で「はた」と呼んだものだと
	思う。つまり渡来人の一群である。勿論なかには、中国(秦)から朝鮮を経由して日本列島まで逃れてきた「秦(しん)」の敗残兵や
	流民もいたかもしれない。いや、絶対いただろう。
	しかしながら、太秦の秦氏が全国へ拡散したと考えるには、その展開はあまりにも広範囲にわたっており、またそれを示唆するような
	資料も無い。多くの「秦氏の末裔」は、「渡来してきた人々」と同義なのだ。


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