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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
秦氏ゆかりの広隆寺






	
	●広隆寺		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はち
	おかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である
	秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、
	聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られる。







	
	<創建>
	広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都
	市北区平野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。
	創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を
	中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆
	寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。



	
	『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこ
	ともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
	秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人であり、朝鮮半島を経由し日本に渡来した。葛野郡(かどののこおり、現・京都市
	右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天
	照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。
	なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。



	
	『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいる
	か」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838
	年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古
	天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。



境内の桜はほぼ満開であった。

	
	『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至っ
	て完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。
	蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとあ
	る。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)
	の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。



	
	なお、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、
	聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していた
	という。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子
	が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こ
	えた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の
	由来と関連して取り上げられる。





馬酔木(あしび)の花も満開だ。





	
	<平安時代以降>
	広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した
	道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全
	焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、
	中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。
	寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(ともに国宝)が伝
	わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数
	年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが「実録帳」の記載によってその欠落部分を補
	うことができる。

	秦氏の中で、歴史上その実在性が確実視されている有名人物は、聖徳太子に仕えて太秦の地に広隆寺を建立した秦川(河)勝である。
	生没年は不詳で秦氏の本家本元のような存在であるが、秦氏本流系図には謎が多い。生没年がはっきりしている人物は一人もいない
	のである。弓月君と秦川勝は元々別の流れであるという説もある。

	京都伏見にある稲荷神社は、全国に現在5万社以上は存在するとされる稲荷神社の総元締めである。この創建は711年とされてい
	る。これに関しても様々な伝承が残されている。創建者は、「秦伊侶具」といい、秦大津父の玄孫説もあるが、現在は賀茂県主久治
	良の子供が当時紀伊郡で富裕を誇っていた秦氏に養子に入って秦氏として活躍したとする、稲荷神社祠官家の一つである大西家系図
	が信じられているようだ。この系図は現在まで続いている。
	しかしこの説には異論もある。主なものは、711年に創建したのは、秦伊侶具ではなく、その累孫である秦忌寸中家であるという
	説(中村修也著「秦氏とカモ氏」)である。しかしこれも年代的に合わないという見解もある。
 
	京都嵐山の松尾神社は、全国の酒の神様の総元締め的存在である。この創建は、701年とされ創建者は、秦都理とされている。こ
	の秦氏もよく分からない。川辺腹男都理と記された古文書があるが、そうだとすると葛野郡川辺郷という地名があり、川辺秦氏と記
	された文献もあるので、ここの出身の秦氏と考えるのが妥当かもしれない。一般的には、松尾神社は太秦秦氏の氏神であった。上述
	の中村修也は松尾の秦氏と嵯峨野の秦氏は異なり、互いに競い合う仲であったと、従来からの説に異説を展開している。

	一説によれば700年代では秦氏は賀茂神社をも実質的に掌握していた模様である。賀茂氏と秦氏は互いに婚姻関係がもたれ、これ
	が稲荷神社・松尾神社の社家への賀茂氏の婿入り的なことが行われたのではなかろうか。とすれば、葛野郡「松尾神社」愛宕郡「賀
	茂神社」紀伊郡「稲荷神社」と、京都盆地の総ての地で秦氏は氏神を有していたことになる。




















上の石碑は肉眼で見ても、しかとは判別できなかった。



河内さんや乾さんらが、拝殿へ昇って弥勒菩薩像を見学に行くと言う。私と栗本さんはもう何回か見たのでと、境内で待機。



	
	切符売り場(?)の横に掛かっていた、上の絵はがき写真を携帯で写していたら、売り場のおばちゃんがきつい顔して「撮ったらア
	カン」という仕草をする。こんな絵はがきぐらいどうちゅう事は無いんだが、全く京都の人間は了見が狭い。
	弥勒菩薩像など、net内で検索すれば、たちまち下のように集められるのに。





	
	<弥勒菩薩像の由来>
	広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥
	勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛
	鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。
	前述のとおり、『書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には
	「尊仏像」とあるのみで、「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証は
	ない。
	このほか、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年( 616年)、坐高二尺の金銅救世観
	音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古
	天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これ
	らの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。
	なお、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬師如来に代わっており、縁起によれば延暦16年(797年)、山城国乙
	訓郡(おとくにのこおり)から向日明神(むこうみょうじん)由来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたという。現在、寺にあ
	る薬師如来立像(重要文化財、秘仏)は、弘仁9年(818年)の火災後の再興像と推定される。通常の薬師如来像とは異なり、吉
	祥天の姿に表された異形像である。



広隆寺裏門。どんな世界にも表があれば裏があるって。ん、何んのこっちゃ?



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