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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
大酒神社(おおさけ神社)








路面を走る京福電鉄嵐山線。上左に見えているのが「太秦駅」。上右、電車の右手に「広隆寺」がある。



広隆寺の手前にある舗道を、上の写真で言えば右手の方へ歩いてゆくと、5,6分で「大酒神社」に着く。生け垣は舗道と接している。



	
	●大酒神社(おおさけ神社) 京都府京都市右京区太秦蜂岡町30  

	式内社: 山城國葛野郡 大酒神社 元名大辟神
	祭神 : 秦始皇帝 弓月王 秦酒公
	相殿 : 兄媛命 弟媛命(呉服女 漢織女)

	京都市右京区にある。京都太秦、太秦映画村や広隆寺のすぐ南、京福太秦駅の北に鎮座。道路脇に鳥居があり、やや狭い境内に
	社殿が鎮座。観光地の中心部にあるのだが、あまり目立たない。



	
	『広隆寺来由記』によると、仲哀天皇四年、秦始皇帝の裔・秦氏の祖功満王が来朝し始皇帝の祖霊を、広隆寺に祀ったのが当社
	であると云う。もとは広隆寺桂宮院内にあったが、明治になって神仏分離のより遷座されたという。
	ということで、祭神は、秦始皇帝とされており、秦氏との関連が指摘されているが、諸説あるようだ。秦氏ゆかりの広隆寺の鎮
	守の一つでもある。
	延喜式神名帳には、「元名大辟神」とあり、オオサケの神、つまり、悪疫・悪霊を避けるためのものとされている。当社の牛祭
	は天下の奇祭として有名で、牛に乗った摩多羅神が四天王を従えて疫神鎮送を行うらしい。



	
	ここもよくわからん神社である。秦始皇帝が祀神になっている神社など他にあるのだろうか。
	隋書倭国伝」に出てくる秦王国という言葉がある。これは、607年の聖徳太子による遣隋使「小野妹子」らの、随の答礼使で
	ある「裴清(裴世清) 」が、608年日本に来た時の記録を隋書に残したものとされている。
	「百済を度り行きて竹島に至り、南に耽羅(から)国を望み、都斯麻(つしま)国を経、迥かに大海の中にあり。また東して、
	一支(いき)国に至り、また竹斯(ちくし)国に至り、また東して秦(しん)王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷洲となす
	も疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。」
	ここに登場する秦王国が初出とされ、山陽道西部にあった秦氏の居住地という説がある。具体的に周防国という学者もいる。事
	実周防地方には秦氏の末裔とされる人が多いらしい。
	秦氏の遙か以前、中国より渡来した秦始皇帝の末裔を主張する集団があった、さらに、素戔嗚尊の子供である新羅系の五十猛命
	の後裔とする「辛島氏」が盤踞した豊国宇佐神宮の後背地付近(豊前国)が秦王国ともされる。私も辛島氏と渡来については昔
	熱心に調べたことがあって、宇佐神宮にも何度か足を運んだ。秦王国については他にも播磨説など諸説ある。秦氏はこの秦王国
	と関係があるのだろうか。
	ここに秦始皇帝を祀る「大酒神社(大避神社)」があって、もともとは秦氏が建立したと伝えられる広隆寺の中に在ったとされ、
	「秦氏は酒の神」となれば、少なくともこの神社を建てた人々の頭の中には、「秦の始皇帝の末裔=秦王国=太秦の秦氏」とい
	う図式が出来上がっていたものと考えられるが、秦氏はこの秦王国とは関係無いとする説もある。

	<秦氏が関係したとされる寺社>

	広隆寺	  (秦公寺、蜂岡寺、太秦寺、桂林寺、三槻寺など):603年川勝建立
	秦楽寺	  (奈良県田原本町);647年川勝建立。金春氏氏寺。
	木島神社  (京都市太秦森が東町):木島坐天照御魂神社、蚕の社
	大酒神社  (京都市太秦蜂岡町):大辟神社 赤穂の大避神社も川勝を祀ってある。
	白山神社  8世紀に修験僧である三神氏(秦氏流)出身の泰澄が活躍。
	平野神社  平安遷都直後に秦氏が建立したとの説あるが謎である。諸説あり、疑問あり。
	宇佐八幡宮 新羅神八幡神説。これが秦氏と関係あるという説もある。
		  (「歴史倶楽部Annex」の「寺社仏閣コーナー」、「宇佐八幡宮」を参照されたし。)





	
	由緒書								大 酒 神 社

	祭神 : 秦始皇帝 弓月王 秦酒公
	相殿 : 兄媛命 弟媛命(呉服女 漢織女)
	神階 : 正一位、治歴四年

	当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
	「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる
	国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。

	后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化
	し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出
	し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を
	賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭
	す。
	機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績あ
	りし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
	今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られて
	いたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の
	一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
	尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。
	又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代
	の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。 

	昭和五十九年
 








鳥居横の石柱には、「太秦大明神 呉織女 漢織女」また、「蠶養機織管絋樂舞之祖神」と彫られていた。「蠶」は蚕、養蚕の事。



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