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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
木嶋神社 (このしまじんじゃ)




	
	●木嶋神社 (このしまじんじゃ) 通称:蚕ノ社(かいこのやしろ)京都市右京区太秦森ヶ東町50
	(正式には木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社)

	主祭神:天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、瓊々杵命(ににぎのみこと)、
		穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)





	
	<朝鮮半島から渡来した秦氏が建立?>

	木嶋(このしま)神社は、京福電鉄嵐山線の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」駅から北へ向かって4分ほど歩いたところの、こんもり
	とした森の中に鎮座している。
	境内社殿は明治以降のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を包むように巨樹が繁茂している。この森を「元糺の森(も
	とただすのもり)」と呼称し、下鴨神社(左京区)の「糺の森(ただすのもり)」と関連がある。創建当時、この地は鬱蒼とした
	森であったとされていて、現在では宅地化の波に押し寄せられ、神社の周辺は住宅が密集している。この嵯峨野(太秦)へ移住し
	て来たのは朝鮮半島から渡来した秦氏一族。



	
	創建年月日は分からないようであるが飛鳥時代後期、大宝元年(701)に書かれた文書に当社名が載っていることから、それ以
	前に存在していたとされる古社。正式社名は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすび)で、通称「蚕ノ社」(かい
	このやしろ)と呼ばれている式内社。







	
	本殿祭神の天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)外四柱は、秦氏が祀った水の神が始まりとされているが、太古からあった
	この地の祭祀権を秦氏が入手した段階で、先住民の神が天之御中主命か大国魂神に変えられたとの説もある。この神は、平安時代
	には祈雨の神として信仰を集めていたらしく、参詣の人も多かったことが文献から判明しているという。



社殿を包むように巨樹が繁茂している木嶋神社



木嶋神社本殿(正面)の右手側に蚕養(こかい)神社(東本殿)が鎮座する
	
	「蚕の社(かいこのやしろ)」と呼ばれているのは、本殿東側にある蚕養(こかい)神社(東本殿)をいう。祭神は保食神、木花
	咲耶姫、雄略天皇である。今から1300年以上も前、製陶・養蚕(ようさん)・機織(はたおり)などを京に伝えた渡来人秦氏が建
	立した神社とされている。朝廷が桑の栽培に適した場所へ秦氏の民を移住させ桑を植栽させたもので、その首長は秦河勝。河勝は
	この「蚕の社」の西に広隆寺を創建した人物でもある。



上左が、蚕養(こかい)神社(東本殿)





正面の拝殿の左側が元糺の森で、森のなかに元糺ノ池(もとただすのいけ)がある
	
	この池の中心に天保2年(1831)に再興された「三柱鳥居」が建つ。京都の三つの珍鳥居の一つとされていて、三つの石製鳥居を三
	角形に組み合わせ、中心に石積みの神座に御幣が立ち三方から拝むことができる。三方向は、北は双ケ丘、西は松尾大社、東は稲
	荷大社の方向で、いずれも秦氏ゆかりの場所(支配地域)である。
	なお、他の二つの鳥居は、京都御苑のなかにある厳島神社の唐破風鳥居(島木とよぶ鳥居の横木が唐破風造り)と北野天満宮内に
	ある伴氏社の鳥居(両方の柱の下が蓮の華状となっている)である。

	「糺(ただす)」は、「正しくなす」「誤りをなおす」の意味。池の水は境内を流れていて、夏の土用丑(うし)の日に、この池
	の水に手足を浸すと諸病によいとされ庶民の間で厚く信仰されていたという。これは、平安時代に貴族の間に流行した身滌(身に、
	罪や穢れのあるときに心身を清める)という風習が庶民の間で採り入れられたものという。現在では、下鴨神社で「足つけ神事」
	として行われていて、多くのひとが訪れている。



	
	「元糺の森」については、嵯峨天皇の時代(809〜822)に、「糺」を下鴨神社に遷してから、当社の森を「元糺」とされたという。
	以来、鴨氏の氏神を祀る下鴨神社の森を“糺の森”と称し、木嶋(このしま)神社の森を“元糺の森”と称するようになった。これ
	は秦氏と鴨氏とのつながりをあらわしている。下鴨神社の糺ノ森の瀬見の小川の西側にある摂社河合神社の正式名称は小社宅(お
	こそべ)神社。祭神は賀茂別雷命の母、玉依姫命である。元は秦氏の祀っていた神で、賀茂氏が秦氏の婿となり祭祀権を譲られた
	関係かと見られる。




	
	「秦氏」は、古事記には僅かしか記述がないので日本書紀に従えば、応神天皇14年に「弓月君」が百済から来朝する。しかし、
	多くの民が新羅の抵抗にあって未だ来れないでいるとし、葛城襲津彦が残りの民を引き取りに新羅国に赴き、120県(一説では、
	127県)の民を引き連れて倭国に帰ってきたとされている。また雄略天皇紀には、全国に散らばっている秦氏一族の統括を「秦
	酒公」に委ねたとある。上田正昭氏によると、平安京に住んでいた有力氏族は、皇別氏族184氏、神別氏族149氏 諸蕃氏族
	174氏(秦氏が最も多い)。天長(824年頃)年間、京都の農耕民114名中84名が秦氏であったとある。

	秦氏は日本全国に勢力をはって殖産事業中心に蚕、絹織物、など日本の文化向上・財政向上に貢献した氏族であったとされている。
	この神社に見られるような伝承や、松尾神社に見られる酒造りに関する伝承、長岡京・平安京遷都に際して、多大の経済的援助を
	したという記事などから、当時有数の富裕層であったとされているのだ。一方、中央政界においては、秦氏の記録記事は非常に少
	ない。もう一方の有力渡来人である「東漢氏(坂上田村麻呂らを輩出)」と対照的である。

	この神社にゆかりの深いもう一つの氏族が加茂(賀茂/鴨)氏である。賀茂県主氏は、雄略朝以降に葛城国を離れ山背国に移動し
	ている。中村修氏は「賀茂県主氏は、5世紀中頃山背国乙訓郡へ入り以降葛野郡、愛宕郡へと移った」とし、上田正昭氏は「6世
	紀ころ葛城系の葛野鴨県主が葛野郡に進出した」とする。秦氏の葛野郡への進出は、賀茂県主氏とほぼ同じ頃であるが、勢力的に、
	葛野郡においては秦氏の方が賀茂氏に勝っていたと考えられる。しかし、県主になったのは賀茂氏である。
	この勢力争いの優劣については諸説在り、果たしてどちらの方が勝っていたのかはわからないが、この神社から「糺の森」が鴨氏
	の氏神である「下鴨神社」へ移っていることを考えると、両者はやがて姻戚関係を結ぶかして、親密な間柄になった事が窺える。


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