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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
雙ケ岡(双ケ丘:ならびがおか)
雙ケ岡(双ケ丘)とは、丘が並んでいるからだろう、安直なネーミングだこと。
●雙ケ岡(双ケ丘)
洛西、右京区御室学区は、北には衣笠山などの美しい山々を望み、西には、兼好法師ゆかりの双ケ丘があり、その小高い山に登れば、
緑の木々の間に、北には皇室ゆかりの仁和寺、”虎の子渡しの庭”で有名な竜安寺、東には、臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺、南に
は待賢門院ゆかりの法金剛院の伽藍を眼下に眺められる。
<雙ケ岡(双ケ丘)の謂れと歴史>
仁和寺の南に広がる小丘は『雙ケ岡』(現在の『双ケ丘』)と呼ばれ、昭和16年に名勝に指定された。雙ケ岡は北から南に向かい、
次第に低くなる三つの丘から構成され、北側から順次一の丘、ニの丘、三の丘と呼んでいる。
一の丘の頂上には、大規模な古墳があるが、何度も盗掘されているため被葬者はもとより造成の時期等は一切不明である。しかしな
がら、石室を造成する石材の規模は奈良の石舞台にも匹敵するほどのものであり大きなものは25トンもある。一の丘にこの石材は
なく、三の丘には同じ質の石があることから、石室を構成する時にこの頂上まで運びあげたものと想像されている。よほど有力な者
が葬られていたに相違ない。雙ケ岡には、これほどの大きなものは外にはないが、規模の小さい古墳は無数に散在している。ある時
期、この丘はその全山が墳墓の地であったといえよう。
一の丘頂上から見た北東方面。
木々の間から見る北方面。仁和寺が見えている。妙心寺は画面右下にある。
頂上から見た「一の丘1号墳」。石室の上部が見えている。
頂上には中学生のグループがいた。この近くの花園中学校だそうだ。
桓武天皇の時代になり、都が京都に移されると、このあたり一帯は天皇が鷹狩を行なうための禁野の地として知られるようになった。
さらにまた、この地の風光が一段と明媚なところから、貴族の別業(別荘)の地としても知られるようになった。
例えば、『日本後記』や養老律令の解説書である令義解(りょうぎのげ)を編纂した右大臣清原夏野(782〜837)や嵯峨天皇
の皇子である左大臣源常(812〜845)などがこの地に山荘をかまえている。雙ケ岡の北に仁和寺が創建された後では『徒然草』
を書いた兼好法師(1283〜1350)、さらに時代が下がると尾形光琳、仁清、乾山がこの地に簡居をかまえている。
「双ケ丘一号墳」の横手に「右大臣清原夏野の墓」という石柱がある。一号墳の事なのか、それとも石柱の裏手にあるこんもりした
盛り土の事を言っているのかはわからなかった。その石柱のそばに「双ケ丘一号墳」の解説板が立っている。
●雙ケ岡(双ケ丘)古墳群
[群集墳]
小規模な古墳が一定の地域の次々と築造されて群をなすもので、5世紀末から6世紀初頭に始まり6世紀後半の最盛期を経て7世紀
前半に衰退していった。被葬者は墳丘規模、内部構造さらにその圧倒的な数から見て、一部の支配階級ではなく、より広範な階層の
人々と考えられる。丘内にはニ群20余の円墳が確認されている。
[一号墳]
一の丘山頂に1号墳がある。昭和55年の発掘調査により全容が明らかになった。1号墳は円墳で、その規模は直径約44メートル、
高さ約8メートルを測る。主体部は横穴式石室で、石室の全長14.6メートル、玄室(死者の棺を安置する所)は幅3.6メート
ル、高さ5メートルあり、その規模からみて上でも述べたように、首長級の古墳(※)と思われる。6世紀末から7世紀初頭の築造
で、調査では金環、須恵器、土師器などが出土している。
※ 「一号墳」は廣隆寺の創建者「秦河勝(はたのかわかつ)」の墓といわれている。
雙ケ岡古墳群位置図 1号墳石室断面図
秦氏は、全国に機織りの技術を広めたので機(ハタ)と呼ばれたという。前述したように、書記で、絹製品を献上し帝の前に「うず
たかく積み上げた」という記事からその説が唱えられているようである。ま、それはそれとして養蚕やその他の産業殖産の技術を日
本にもたらした氏族ではあったようだ。
秦氏は、元々の出身地が旧新羅国、現在の韓国慶尚北道(けいしょうほくどう)蔚珍(うるじん)郡波旦(ぱたん)であるらしいと
され、この波旦(ハタ・ハダ)にちなんでつけられたのであるという説が、最近浮上してきている。太秦(うずまさ)についても、
上記蔚珍に由来しているというのである。
桓武天皇の時代に、平城京から長岡京・平安京への遷都を裏から経済的に支えたパトロンとされるが、平安京への遷都に尽力したと
いう記録はない。しかし長岡京への遷都には、山背国葛野郡の秦氏が支援したという記事が見える。
この氏族を出自とする後代の有名氏族には、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の
東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などがあるが、勿論真偽の程はわからない。一般的には、日本各地の富裕な土豪として、
各地の殖産事業に貢献したとされている。
秦河勝 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秦河勝・『前賢故実』より秦 河勝(はた の かわかつ、生没年未詳)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏
出身の豪族。姓は造。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。冠位は大花上。
<概要>
秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は秦氏
の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、
その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建て
それを安置した。610年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。644年、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)という者を
中心に「常世神」を崇める集団(宗教)を、河勝が追討した、とされる。
没したのは赤穂の坂越である。一説には流罪に遭ったためという。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島
には秦河勝の墓がある。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものであ
る。
本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区西京極には川勝
寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河
勝の子孫と認識していた。秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏が有名。幕臣川勝氏も河勝の
子孫を称した。猿楽などに従事した芸能の民にも河勝の裔を名乗る者は多く、代表的なものとしては金春流が挙げられる。「秦河勝ノ
御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と
金春禅竹が『明宿集』の中で記している。長谷川党は大和の国衆・十市氏を刀禰とする武士団であり、薩摩国の島津氏の系譜と密接な
関係がある。また、河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称した。現在、楽家として知られる東儀家は
河勝の子孫であるといわれている。
<景教との関係>
佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教
(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方
キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。ただしこれは学会の通説とはなっていない。
弓月君 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。新撰姓氏録では融通
王ともいう。『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされ
る)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。朝鮮半島を経由して渡来したが、秦氏は漢民族である。
<考証>
加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承が
ある)。また一説には五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと
言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝
手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。
上の写真で所々にある小さな盛り土が、どうやら群集墳墓のようである。一号墳がもし秦河勝の墓だとすれば、これはその一族の墳墓
群という事になるのだろうか。多くの渡来氏族達と同じように、秦氏もまた謎の多い氏族である。勿論信憑性のある系図はないし、人
物も断片的にしか記録が残されていない。
奈良県出身の日本史学者で、氏族制度の研究で知られる太田亮は、その主著「姓氏家系大辞典」のなかで秦氏について「天下の大姓に
して、その氏人の多き事、殆ど他に比なく、その分支の氏族もまた少なからず。そして上代より今に至る迄各時代共、常に相当の勢力
を有する事も、他に類例なかるべし。」と冒頭に記している。我が国最大の蕃別氏族、即ち渡来人にその出自を有する氏族である。
上の図は、私の考える我が国における「渡来」の段階である。
縄文人は、明らかに旧石器時代、新石器時代と我が国に生きてきた旧人・新人達の末裔であろう。しかしながら、縄文時代と弥生時代
の人口比を考えると、弥生人は明らかに渡来人である。勿論縄文人との混血という意味においてだが、人口の割合から考えるともう圧
倒的に弥生人は渡来の人々である。小規模な渡来は遙かな昔から散発的に行われていたと考えられるが、本格的な渡来は縄文末期から
弥生時代に駆けてであろう。
それはまず距離的に最も大陸・半島に近い北九州に向かって行われ @ 、
ついで出雲は北九州とは別個に「渡来人の国」を山陰に築き、その勢力を拡大していた A。
その勢力は大和にも及んでいたと考える B。
やがて出雲を傘下においた北九州勢力は大和を攻めこれを征服する C。
勢いに乗った新興勢力は矢継ぎ早に周辺部族を征服し、初期王権国家を立てる。そして未だまつろわぬ西国・東国を攻めるD E。
今日大和朝廷と呼ばれるこの勢力は、ほどなく全国を統一して中国に倣って律令国家を樹立する。その課程で大陸・半島から多くのブ
レーンを呼び寄せ、国家建設のシンクタンクとして重用する F。
上記、@ A B 波に前後して、南方、中国、朝鮮半島などから日本列島に渡ってきた諸々の人々が列島の土着の縄文人種と混血を繰
り返し、弥生人と称され弥生文化を日本列島に広めた。そういう意味では、現在の日本人は総て渡来人系である。決して単一血族では
ない。色々の血族・氏族が混血して日本人なる民族が出来たことは、間違いない。遣唐使の時代にも渡来人は来たようだが、基本的に
は平安時代以降江戸末期まで、日本にはいわゆる集団的な渡来人は来ていない。明治以後は、はっきりと帰化人という扱いになる。
D E F の過程においても渡来は継続し、その中を詳細に見ていけば、
第1波:5世紀前後 秦氏族らが渡来。
第2波:5世紀後半ー6世紀初め 高句麗氏族・漢氏族
第3波:天智天皇時代663年百済滅亡頃 百済氏族 (上田正昭著「帰化人」(中央公論社)参照)
というような様相が見て取れる。勿論纏まった集団としてではなく、家族を単位とした渡来や、命加羅韓(からがら)たった一人で海
を渡ってきた者もいたかもしれない。つまり渡来人は、頻繁に日本列島に入って来たのだ。しかし、歴史的に画期をなす渡来は中国大
陸や朝鮮半島との関係を抜きにしては語れない。氏族単位での渡来の中心に秦氏もいたのである。
応神天皇以降に渡来して、新しい文化を有した、主に朝鮮半島から入った氏族が「渡来人」として他と区別され、蕃別氏族として新撰
姓氏録に記されたものと思われる。
日本書紀によると、15代応神天皇14年に、百済から弓月君が120県の多くの人民を率いて渡来したとなっている。この応神14
年は西暦でいうところの何年頃にあたるのだろうか。これは非常に難しい。
そもそも、その天皇の御代が何世紀に当たるのかも、古代史の上では未だ確定出来ていない。書記は編年紀体で書いてあるから、相対
的にどの天皇が誰よりも後か前かと言うことはわかるが、絶対年代などは、律令国家の基盤がしっかりして、複数の記録が同じ年を指
していると判断できるまでは皆目分からないのが現状である。
それでも、研究者達は必死で絶対年代を追い求めていて、応神天皇14年についても諸説あり、387年ー396年頃の4世紀末から
5世紀初め頃と見るのが有力なようである。新羅に留められていた人々を葛城襲津彦らが連れにいっている記事があるし、弓月君の父
とされている功満君が14代仲哀天皇朝に渡来したとの姓氏録の記事もあるので、前述のような巾があるものと思われる。
後になって、弓月君が秦始皇帝の末裔であるという系図が作成されたが、これは信憑性に乏しい。従来、秦氏は秦国に基づいた氏族名
とされていたが、朝鮮半島の旧新羅国にあった地名に基づく名前との説もあるし、それ以外にも諸説ある。120県から引き連れてき
たという記事にも疑問は残る。そのような多数の人数なら、日本に定着した地域では古朝鮮語以外は使われていなかったハズだがその
ような痕跡はない。しかしある程度の朝鮮人が渡ってきたのは想像に難くない。そしてそれらを束ねたのが、秦氏本流の系図に載って
いる人物達だったのかもしれない。
その本拠地は、葛城襲津彦との関係もあり、元々は大和国葛城郡朝津間腋上に土地を与えられたとされていて、後に河内国・摂津国経
由で山背国葛野郡に本拠地が移った様だが、途中の経過などははっきりしない。
京都の嵯峨野周辺に、天塚古墳・蛇塚古墳などの古墳が発生するのは5世紀後半からで、それまでは存在していない。とすると、秦氏
の京都定住は5世紀後半以降となる。日本書紀では、21代雄略15年(485年?)の御代に、秦酒公に太秦の姓を与え秦氏の総元
締めにしている。この時には山背国葛野郡太秦が、既に秦氏の本拠地になっていたと考えると、上記古墳の発生とも一致してくる。
また日本書紀29代欽明天皇(539年)の記事に、秦大津父が、山城国深草の出身と記されている。これらから、秦氏の本流が5世
紀後半から6世紀初めにかけて、山城国葛野郡、紀伊郡辺りに勢力を持っていたことは間違いないものと思われる。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 164回例会・秦氏ゆかりの太秦を歩く