Music: usagi

歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
妙心寺










	
	●妙心寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。
	開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)。
	日本にある臨済宗寺院約6千ケ寺のうち、約3千5百ケ寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)
	などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内
	で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。









	
	<歴史>
	座禅が行われている京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それ
	とは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」(そうりん)、後者を「林下」(りんか)といった。
	妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。

	平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年
	(1335年)落飾(剃髪して仏門に入ること)して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。
	法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月
	没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄
	(かんざんえげん、1277−1360)を推挙した。
	その頃、美濃(岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の
	院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。

	なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた
	「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。

	関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像
	もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)のほかほとんど残さ
	れていない。
	妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義
	満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収し、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身とな
	った。
	妙心寺は応仁の乱(1467−1477年)で伽藍を焼失したが、中興の祖である雪江宗深(せっこうそうしん、1408−1486)の尽力に
	より復興。細川家や豊臣家などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。





この写真は絵になっている。



































これを見て、「もう本物を見たことにしよう」



霊雲院の前に立つ「西田幾多郎墓」の石柱。理科系出身の橋爪君は西田幾多郎を知らなかった。







佐久間象山の墓道というからには、この先に佐久間象山の墓があるのだなと思っていたが、とうとうどこか判らなかった。



	
	広い。とてつもない広さである。我々がこの日まわったのは、案内図によれば全体の四分の一ほどに過ぎない。これだけの寺圏を
	維持するには相当な財力が必要だろうし、時の権力の庇護も当然必要だった事だろう。

	臨済宗	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	臨濟宗(りんざいしゅう)は、中国禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(? - 867年)を宗祖と
	する。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
	現在の日本の臨済宗は江戸時代に白隠が再興したもので、唐代とは大きく異なり、公案に参究することにより見性しようとする看
	話禅(かんなぜん)に変貌を遂げている。この家風は、坐禅に徹する曹洞宗の黙照禅と比較されることがある。

	<中国における臨済宗>
	臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点
	とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度使の王常侍を支持基盤として宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は
	5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
	臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする、黄龍慧南と楊
	岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
	南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となっ
	た。

	<日本における臨済宗>
	宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩
	提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らに
	よって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、
	はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗
	の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。その後時代
	を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
	室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。

	<その他の国における臨済宗>
	韓国や越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々に伝わっている。

	<伝統>
	法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中
	から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案
	(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読
	もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至
	るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱と
	いう)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡
	継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が
	悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なた
	め、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を
	残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在
	まで伝わっている。

	<悟り>
	一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く
	ことを言う。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法
	が考案されてきた。坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務
	(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウ
	ソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達で
	はない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅
	師を選ぶという意味もある。しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・
	シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉
	により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に
	伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、
	茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生
	まれている。

	<公案体系>
	宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅
	語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
	公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、
	公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公
	案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。

	修行の初期段階に与えられる公案の例:

	・狗子仏性 - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」 
	 この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑
	 わす知識からの解脱を目的としている。 
	・隻手の声 -「片手の拍手の音」 
	 弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、
	 そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。 

	<宗派>
	・建仁寺派 1202年(建仁2年)、中国・宋に渡って帰国した栄西により始まる。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。 
	 大本山は京都の建仁寺。 
	・東福寺派 1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。 本山は京都の東福寺。 戦国時代、毛利家の外交僧と
	 して活躍した安国寺恵瓊はこの宗派。
	・建長寺派 1253年、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が中国・宋から招いた蘭渓道隆により始まる。本山は蘭渓道隆が開山した鎌倉
	 の建長寺 
	・円覚寺派 1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で始まる。本山は鎌倉の円覚寺。円覚寺は、無学祖元から高峰顕日・
	 夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となった時期もある。明治以降の有名な禅師は、今北洪川・釈宗演・朝比奈宗源。禅を
	 西洋に紹介した鈴木大拙は今北と釈宗演の両師の元に在家の居士として参禅した。また夏目漱石も釈宗演に参じており、その経
	 験は「門」に描かれている。
	・南禅寺派 1291年、無関普門により始まる。 本山は京都の南禅寺。 
	・国泰寺派 1300年頃、慈雲妙意により始まる。総本山は明治時代に山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺。鉄舟
	 開基の谷中の全生庵も国泰寺派の名刹である。 
	・大徳寺派 1315年、宗峰妙超により始まる。本山は京都の大徳寺。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興した。 
	・向嶽寺派 甲斐国塩山の向嶽寺を拠点とする向嶽寺派は鎌倉後期から南北朝時代にかけて武家政権と結んだ夢窓派と一線を画し、
	 独自の宗風を築いた。向嶽寺派は無本覚心の弟子である孤峰覚明に師事した抜隊得勝により始まり、抜隊は永和4年(1378年)
	 に入甲し、康暦2年(1380年)には守護武田氏の庇護を得て塩の山に向嶽庵(向嶽寺、山梨県甲州市塩山)を築いた。
	 向嶽寺派は抜隊の遺戒による厳格な戒律を定めていることが特徴で、抜隊の生前から法語などが刊行されている。
	・妙心寺派  1337年、関山慧玄により始まる。本山は京都の妙心寺。塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院・隣華院などが
	 ある。末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派。 
	・天龍寺派 1339年、夢窓疎石により始まる。本山は京都嵐山の天龍寺。 
	・永源寺派 1361年 寂室元光により始まる。本山は滋賀県東近江市永源寺地区にある永源寺。末寺は滋賀県を中心に約150か寺。 
	 明治13年(1880年)までは東福寺派に属した。
	・方広寺派 1384年、無文元選により始まる。本山は静岡県浜松市北区引佐町奥山の方広寺。末寺は静岡県を中心に約170か寺。 
	 明治37年(1904年)までは南禅寺派に属した。
	・相国寺派 1392年、夢窓疎石により始まる。本山は足利義満により建立された京都の相国寺。末寺は日本各地に約100か寺。
	 鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)は当派に属する。 
	・佛通寺派 1397年、愚中周及により始まる。本山は広島県三原市の佛通寺。末寺は広島県内を中心に約50か寺。明治38年
	(1905年)までは天竜寺派に属した。
	・興聖寺派 1603年、虚応円耳により始まる。本山は京都の興聖寺。 

	<関係教育機関>
	花園大学  花園大学国際禅学研究所  正眼短期大学  花園中学校・高等学校 



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 164回例会・秦氏ゆかりの太秦を歩く