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歴史倶楽部 第164回例会 3月27日
統子内親王花園東陵・藤原璋子花園西陵
ここは直接「秦氏」とは関係ない。ここと、今日の最後に廻った「仲野親王陵古墳(片平大塚古墳)」は、たまたまこのエリアにあ
ったので見学コースに含めたが、50代桓武天皇が平城京から長岡京・平安京へ遷都した際、経済的支援は山背国葛野郡の秦氏であ
っただろうというのは定説なので、まんざら関係無くも無い。
●統子内親王花園東陵 出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)
統子内親王(むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日)− 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の
皇族。初名は恂子。
鳥羽天皇第2皇女、母は中宮藤原璋子。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳天皇朝賀茂斎
院。後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院。院号は上西門院。法名は金剛親・真如理。
大治元年(1126年)8月17日内親王宣下、同年12月27日著袴。同2年(1127年)4月6日准三后、斎院に卜定される。同4年(1129年)
4月19日、紫野院に入る。
長承元年(1132年)6月29日、病により退下。同3年(1134年)6月16日、恂子から統子に改名。保元3年(1158年)2月3日、後白河
天皇准母として皇后宮となる。同4年(1159年)2月13日、院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、仁和寺法金剛院(母待賢門院璋
子から相続していた)において出家。寿永元年(1182年)7月8日、藤原家房を猶子とする。文治5年(1189年)7月20日、六条院
において、64歳で崩御。花園東陵に葬られた。
『長秋記』『今鏡』等によれば、幼少時より並ぶもののない美貌の女性であったという。母待賢門院璋子時代からの家臣・女房らが
仕えた上西門院統子の御所は、源氏・平氏双方の縁者が多く見られる一方、優れた歌人たちを輩出した文雅豊かなサロンでもあった。
またその准母にもなった同母弟後白河天皇とは親しい仲で行動を共にすることも多く、彼女の死に際して後白河院は深く悲しんだと
伝えられる。
統子内親王花園東陵の裏側に、母の藤原璋子花園西陵がある。母娘で隣り合わせに葬られている。
●藤原璋子花園西陵 出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)に加筆
藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ、康和3年(1101年)− 久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天
皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。
<系譜>
閑院流藤原氏の出身。父は正二位権大納言・藤原公実、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。太政大臣・実行
(三条家祖)は異母兄、権中納言・通季(西園寺家祖)、左大臣・実能(徳大寺家祖)、大炊門経実室・公子(二条天皇の外祖母)
らは同母兄姉。
<略歴>
七歳にして父を失い、時の治天・白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。長じて摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がっ
たが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河の不興を買った。
見せしめに、藤原忠実は一切の公職を解かれ不遇をかこったと伝えられる。再び公に復帰するのは、白河法王が崩御し、鳥羽上皇の
天下になってからであった。
永久5年(1117年)12月13日、白河を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨を蒙った。1ヶ月ばかり経った
翌元永元年(1118年)正月26日、立后され中宮を号す。翌2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。
その後、賀茂斎院・禧子内親王や、通仁親王・君仁親王を産むが、この両親王は生来障害児であった。統子内親王(上西門院)の年
子として、大治2年(1127年)9月11日、第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)を出産し、2年後には末子・本仁親王(後の覚性法親
王)も生まれた。保安4年(1123年)正月28日、白河は5歳になった顕仁を践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)11月24日に院号
を宣下されて待賢門院と称した。
このように璋子は鳥羽との間に五男二女を儲け、熊野詣にも同行しているが、それは白河の在世中であればこそだったという。本仁
の生まれた年、大治4年(1129年)7月7日、「幼主三代の政を執」った白河が77歳で崩御し、これを機にして璋子の人生は暗転する。
鳥羽上皇が治天を継承し廷臣を統率、後ろ盾を持たぬ幼帝・崇徳は孤立した。鳥羽は白河によって関白を罷免され逼塞していた忠実
を起用し、その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。
保延5年(1139年)8月17日、鳥羽は得子が産んだ生後三ヶ月の第八皇子・体仁親王を立太子させ、2年後の永治元年(1141年)12月7
日、崇徳に譲位を迫り、体仁を即位させた(近衛天皇)。
こういう記事を読むと、鳥羽上皇は白河法王・璋子・崇徳天皇を、とことん嫌っていたのだなと思う。
ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事
件)が相次いで発覚し、璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。また、このころから崇徳は白河の胤だとする
風説が囁かれるようになる(これは『古事談』のみの記述であり、真偽は不明である)。
こうして権勢を失った璋子は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。3年後、久安元年(1145年)8月22日、
長兄・実行の三条高倉第にて崩じた。鳥羽は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏
具)を打ちながら大声で泣き叫んだという。(『台記』同日条)。
この記事は何かよく判らんよねぇ。後悔して泣くのか、憐憫の情か、それとも単に居なくなる事に対する悲しさか。
没後10年目の久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で夭折し、図らずも璋子の生んだ四宮・雅仁親王が天皇に指名された(後
白河天皇)。朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し保元の乱が勃発するが、もはや璋子には遠い話であった。
自分の生んだ子供同士が戦いを行っている事など、土の下の璋子にはもう知るよしもない。このあたりの一連の物語を読んでいると、
璋子にも、自分の生んだ子供達の父親が誰だったのか、ほんとは判らなかったのではないかと思えてくる。
<備考>
京都市右京区花園扇野町に現存する法金剛院は、平安前期、右大臣・清原夏野の山荘だったものを死後に双丘寺とし、天安2年(858
年)、文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後は荒廃し、大治5年(1130年)になって璋子が復興したものである。
璋子はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった璋子を慕
い、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧・西行もいたという。璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀河(村上源氏、神祇伯
・源顕仲の女)は、『百人一首』に歌を採られるなど、歌人として名高い。
西行は世の無常をはかなんで、ストイックに家庭を捨て武士を捨てて隠遁したとされているが、璋子に振られたのが出家の原因とい
う説のほうが信憑性は高そうである。その後の西行を見ると、隠遁どころか世俗に執着し続けている。
<天皇陵めぐり・「鳥羽天皇」より>
4才で即位。母は藤原実季の娘苡子。母苡子が没すると白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。17才の時、祖父白河法皇
の養女で愛人でもあった待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)を皇后に迎えるが、璋子の生んだ子(顕仁(あきひと):後の
崇徳天皇)は白河法皇の子であると言われ、その事を知っていた鳥羽天皇も顕仁を「叔父子(おじご)」と呼び、終生憎み続ける。
世は白河上皇の時代であり、顕仁かわいさの白河上皇は鳥羽天皇を退位させてしまう。白河上皇が亡くなると、すでに顕仁(崇徳天
皇)に譲位して鳥羽上皇となっていた鳥羽院は唯一の上皇となる。以後、院政を引き継ぎ、崇徳、近衛、後白河と続く3代28年に
およぶ「鳥羽院政」が続く事になる。康治元年(1142)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 164回例会・秦氏ゆかりの太秦を歩く