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歴史倶楽部例会 第155回例会・東四国

矢野古墳・矢野遺跡 2010.06.27(日)







	<矢野古墳>	徳島県指定史跡
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	徳島市立考古資料館から歩いて5分くらいの所にある、古墳時代後期(6−7世紀)の円墳である。ここの裏山一体は気延山
	(きのべやま)古墳群で、辺り一帯が阿波史跡公園になっている。資料館敷地のすぐ裏にある、石段を上って矢野古墳に行く。
	直径約17.5m、南に開口する石室長は12m、玄室長3.8m、幅2.4m高さ2.5m。羨道の途中に間仕切りを設け
	た複式構造を持つ。奥壁は高さ2mを越える巨石1枚で仕上げている。石材は結晶片岩(緑泥片岩)が使われている、
	ここへ上る石段も結晶片岩で作られていて、近くで手に入る「阿波の青石」として広く分布している。2003年に発掘調査
	が行われて須恵器の杯・蓋・高杯・甕、土師器、金環などが出土している。出土品から7世紀頃の築造と推定された。近くに
	ある阿波国府ができる直前の有力者のものとされ、この地方では一番新しいものとされている。













古墳手前に、石棺の蓋のような石材がむき出しで置いてある。入口の扉か何かだったのだろうか。しめ縄で廻りを囲っていた。



資料では開口部は埋まってるように書いてあるが、後に掘り下げたようだ。




	玄門下に梱石がある。玄室はまぁまぁの大きさ。側壁の石積みは基本的に割り石の横積みだが、左側壁だけが巨大な一枚岩。
	奥壁の鏡石も巨大な一枚岩である。



天井部分は、玄室中央部だけが一段高い構造になっていて、穹窿式天井と中高式天井の中間タイプみたいな感じである。天井になにやら・・・。



な、な、なんと、コウモリ君である。古墳に居るのはよく聞いていたが、見たのは初めてである。



おっさんがドヤドヤ入ってきても動きもしない。眠っているのか、まさかぶら下がったまま死んではいないと思うが。



玄室から開口部。




	埋葬施設は南に開口する両袖型横穴式石室で、全長12m、玄室長さ3.8m、幅2.4m、高さ2.5m、羨道長さ3.9
	m。奥壁には巨大な結晶片岩の一枚石が使用されており、玄室側壁の基底部と天井にも巨石を使用。玄室の平面プランは長方
	形を示し、天井部は天井石を前後に持ち送ることで一段高く構築している。玄門部両側に立石を配す。 



羨道から開口部。











資料館へ戻ってくる。足の悪い服部さんが待っている。



矢野遺跡


	この後、考古館の人に教わって「矢野遺跡」の発掘跡を見に行ったが、既に産業道路と田畑の下で、ここが遺跡だと特定できる所は
	わからなかった。徳島県埋蔵文化財センターのホームページに、2001年の発掘調査の模様が紹介されていたので転載した。



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	矢野遺跡(弥生時代)   徳島県最大級の弥生時代の集落、銅鐸(重要文化財)が出土

	<概要>
	1992年(平成4年)から始まった徳島南環状道路建設に伴う発掘調査により、徳島県では最大規模の弥生時代の集落遺跡である
	ことが判明した。現在までに、竪穴住居跡約100棟が見つかっている。
	大量の遺物の中で、とくに注目されるのは銅鐸である。鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る突線鈕式と呼ばれる銅鐸の中でも最新
	型式。1992年12月18日に発見された。銅鐸は木製容器に納めて埋められたと考えられ、土坑の周りには、7本の柱穴が確認
	されている。このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しく、銅鐸の謎を解く鍵となる。1995年6月15日に重要文化財
	(考古資料)に指定された。そのほか、鉄器を製作したと考えられる鍛冶遺構も見つかっており、集落内での鉄器生産を考える上で
	興味深い。出土遺物は徳島県立埋蔵文化財総合センターや、遺跡に隣接する徳島市立考古資料館で展示されている。


	Hl 調査地の様子

	

	矢野遺跡は、徳島市国府町矢野にあり、吉野川の支流、鮎喰川左岸の標高10m前後の微高地に位置しています。南北約2km、東西約1km
	の範囲に拡がり、縄文時代から中世にかけての、非常に大きな遺跡です。特に徳島県内の弥生時代の中心的な役割を果たした集落で
	あることが分かりました。



	H2 竪穴住居群跡

	

	調査の結果、弥生時代の中ごろから終わりごろにかけての竪穴住居跡が100軒ちかく検出され、徳島県内で最大級の集落遺跡であるこ
	とが確認できました。そして、5〜10軒が一つの群をなし、住居と住居は数mの間隔で存在していたことも分かりました。弥生時代の
	一集落の規模が確認されたのは、県内で初めてのことです。




	H3 竪穴住居と銅鐸埋納坑

	

	竪穴住居跡に隣接して、銅鐸埋納坑が検出されました。集落内での銅鐸の出土は、全国的にも類例が少なく、銅鐸出土数の多い徳島
	県においても貴重な例です。そのうえ、銅鐸が集落の中心から出土したことにも重要な問題が含まれています。銅鐸に関わるマツリが、
	ムラの指導者のもと、おごそかに執り行なわれていたと考えられます。



	H4 銅鐸の社跡

	

	銅鐸が埋納されたのは、今から約1800年くらい前の弥生時代終わりごろです。銅澤の埋納にあたって、マツリが行われています。銅鐸
	を埋める穴の上に、棟持柱をもつ建物を建て、銅鐸のひれという部分を上下にして埋められています。銅鉾埋納坑に柱穴や建物跡が伴
	う例は、矢野遺跡と島根県の荒神谷遺跡だけです。



	H5 謎に包まれた銅鐸

	

	矢野銅鐸は、高さが97.8cm、ひれを含めた最大幅が44.8cm、厚さが約2.9mm、重さが約17.5kg、底の口径が37.4cmです。この大きさの
	銅鐸は最新式のものといえます。古いタイプの銅鐸は小さくて、音を鳴らし「聞く」銅鐸、それがだんだん大きくなり、置いて「見る」
	銅鐸に変わってきたと考えられています。銅鐸がどのように使われたのか、なぜ埋められたのか、謎に包まれています。



	H6 鉄鏃

	
	弥生時代になると、大陸から鉄器が持ち込まれ、弥生時代の中ごろには、日本でも作られるようになりました。この鉄鏃は弥生時代の
	終わりごろのものです。大きいもので長さが約10cm、幅が約3cmあります。おそらく戦いの武器として使われたのでしょう。 
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	徳島県埋蔵文化財センター年報 /vol.13 2001年度
	調査原因 道路局部改良事業(一般国道神山国府線)関連埋蔵文化財調査 
	所在地 徳島県徳島市国府町矢野553他 
	発掘調査面積 725平方メートル 
	調査期間 2001年4月1日〜2001年6月30日、2002年2月1日〜2002年3月31日 
	担当者 相原 島田 




	矢野遺跡(縄文時代)
	<概要>
	現在の地表面から2〜4m下層より発見された低地性の集落。1994年(平成6年)〜1998年(平成10年)にかけて行われた道路建設に
	伴う発掘調査により、竪穴住居跡19棟などの遺構が検出された。
	土器と石器に水銀朱が付いていたが、多くは朱の精製時についたものと見られており、朱の精製としては全国的に見ても古い段階の
	ものである。遺物には、土器(深鉢・鉢・浅鉢・双耳壷)、石器(石鏃・石匙・石錘・石斧・磨石・台石など)がある。土器の表面
	はヘラ描の区画に縄文で埋めた文様によって華麗に飾られる(磨消縄文)。遺物の中で特殊なものに石棒・円柱状土製品・亀形土製
	品があり、特に土製仮面が注目される。顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある。

	
	西日本でも有数の遺構と遺物に恵まれた縄文時代の集落である。

	
	土製仮面

	顔の部分を表した土製品。呪術的な道具と考えられる。全国で約 点の出土が知られており,関東から東北地方に分布の中心が
	ある。矢野遺跡(縄文)のものは全国でももっとも西端の出土事例。

	
	多数の竪穴住居跡が見つかった縄文時代の生活面



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