有岡古墳群の中でも非常に珍しい、というか、これまで我々が見学してきた古墳のどれにも当てはまらないような古墳が、大麻山 (616m)の山腹に存在している。野田院古墳(のだいんこふん)である。 この例会の話がでたとき、かってこの古墳を見たことのある郭公さんが「是非見た方がいいですよ。」と勧めてくれたのだ。私も 個人的に四国には何度か来ているが、この古墳の事は知らなかった。「岩清尾山古墳群(いわせおやまこふんぐん)」は有名だっ たのでいの一番に見たが、考えてみればあそこも全体が積み石なので、築造時にはここと同じような形態をしていたのかもしれな い。この古墳はそれを忠実に復元している。 しかし、後円部全体が、竪穴式石室も含めて全て「積石造りの古墳」というのは、復元したらこれほどのインパクトがあるとは。 前方部は盛り土であるが、どうせならこっちも積石造りにして欲しかったような気もする。盛り土にする理由が何かあったのかも しれない。
展望台の下に、野田院古墳の説明板がある。丸亀平野で最古式、前方後円墳の祖型、後円部全体が積み石塚、高松の「岩清尾山古 墳群」へ繋がる、などがキーワードと思われる。
積石塚 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 積石塚(つみいしづか)は、石を積み上げて墳丘を造っている墓である。 石塚・築石塚などと呼んだ時代や、他にケルンなども 提唱されたが、近年はこの名称に定着している。 この用語は他の時代(縄文時代・中世)や地域(例朝鮮半島等)でも使用される が、この項では、古墳時代に限って説明する。 <概要> 古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県や山梨県の一部の地域に顕著に見られる。また、 長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎・愛知・静岡・群馬県などにもみられる。なかでも長野市大宮古墳群、香川県高松 市石清尾山古墳群、山口県萩市見島ジーコンボ古墳群などが著名である。この形式の古墳は、起源や系譜に研究の重点が置かれる ことが多かった。 香川・徳島のものは古墳時代前期(3〜4世紀)を中心とし、香川石清尾山古墳群では積石塚の前方後円墳9基、双方中円墳1基、 円墳30数基がある。そのうちの猫塚古墳や鶴尾神社4号墳などは高句麗の積石塚と同時期の築造である。また、徳島県東三好町 の足代東原古墳群や同鳴門市の萩原古墳群などは、弥生時代後期の積石塚墳丘墓の伝統をひくらしい。これに対して大阪府柏原市 国分原臼塚古墳は高句麗積石墓の系譜を引くものと推測される。 一方、長野・山梨のものは中期後半から後期(5〜6世紀)にかけて形成された群集墳にみられる。約500基からなる長野市松 代町に所在する大室古墳群は、日本最大の積石塚古墳群で、大部分が積石塚であり、埋葬施設の多くが横穴式石室である。 長野県史跡である積石塚古墳群の八丁鎧塚古墳(長野県須坂市大字八町)は、第1号から第5号まである。出土品として鏡・碧玉 製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・貝釧(かいくしろ)などがあるが、その出土鏡によって、これまでは6世紀以降の築造とさ れてきたが、5世紀代に溯るものと改められた。 <参考文献> ・田中琢・佐原真編『日本考古学事典』三省堂 2003年 ISBN 4-385-15835-5 白石太一郎「積石塚」 参考文献の『考古学事典』(2003年)589ページ 犬木努「積石塚」 参考文献の『日本大事典』(1997年)1117ページ ・永原慶二監修 石上英一他編集『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999年 ISBN 4-00-080093-0 ・青木和夫他編『日本史大事典』第六巻(全七巻)平凡社 1997年 ISBN 4-582-13106-9
雲海の中に「我拝師山(がはいしざん)」、中山(なかやま)が浮かんでいる。善通寺五岳の2つで、五岳山縦走というのは、香 色山157m → 筆ノ山295.7m → 我拝師山481.2m → 中山439m → 火上山 409m を言うらしい。晴れていれば、善通寺市内 はもとより、瀬戸内海を越えて、岡山、広島までも見えると言う。昨日行った「紫雲出山」も、もちろん見えるが、雲海に浮かぶ 光景も又素晴らしい。
墳頂に、竪穴式石室の穴が2つ見えている。前方部も見えているが、これはどうも「前方後円墳」を意識して作られた前方部では 無いような気がする。もともとは円墳として設計されたものが、儀礼か儀式のための張り出し部として、或いは、築造時に築いた 工作路を、形がいいのでそのまま残した、というような感じである。「前方後円墳」の出現由来など、そんなもんかもしれない。 しかし、昨日見てきた岩清尾山古墳群の中の前方後円墳は、前方部にあたる所にもしっかり積み石があったので、野田院古墳は、 あの古墳群とも時期的にはズレている可能性がある。
元々、尾根筋に作る墳墓は、古墳に限らず弥生時代の首長墓などでも、山麓や下部の集落からよく見えるようにと、一際張り出し た尾根の突端などに作られる事が多いが、ここも同じ発想の元に、尾根の突端(下部)に作られたもので、その発想は弥生時代の 首長墓の延長だったのではないか。 前方部は積み石を運ぶための工作路で、そのまま解体するのは面倒で、或いは儀式を行うための墓(古墳)の附属施設としてその まま残された。これが正解のような気がする。
前方部から後円部を見る。いわゆる「前方後円墳」に見る「前方部」とは、だいぶ異なっているのが判る。形状はバチ型だし、2つ の石室が並ぶ方向とも全く関連がない。しかし「作業工程5」の説明にもあるように、後円部が完成した後、前方部との連結部分に わずかに葺き石をもうけている。見るからに、作業用の工作道路だったものをそのまま残した、という形態がありありである。 とすれば、この古墳が「前方後円墳の祖型」という説にも頷ける。