香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松 市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在する古代以来の郡名「香川」をとった。 この博物館は、現在は、歴史博物館と美術館、両方の機能を併せ持つ総合的ミュージアムと言うことになっているが、私が以前訪 れた時(平成15年11月)は「香川県立歴史博物館」だった。 原始から近現代までの香川の歩みや空海の生涯など、香川の歴史を大型展示物や映像を交えて紹介していたが、今回美術館と一緒 になっていて、歴史関係の展示は相当少なくなっていた。 香川ゆかりの彫刻家イサム・ノグチの作品を常設するなど、美術品の展示が多くなったので歴史部分を削ったのだろう。地方自治 体の緊縮財政の折から仕方のない事なのだろうが、歴史ファンからすれば全くものたりない展示になってしまった。
<香川県の原始> 約2万年前の旧石器時代人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高 400mの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、サヌカイト製のナイフ形石器、 尖頭器、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した。 縄文時代晩期後半の林防城遺跡(高松市)で、当時の土器と木製諸手狭鍬が出土しているなどから、県下にも稲作が伝播し、水田 耕作が行われたと推定されが、他に水稲耕作に直接かかわる道具や同時に伝播するはずの文化要素が見当たっていない。また、水 稲耕作に従事したムラの形跡がない。
<香川県の古代> 『日本書紀』などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐ではため池の開発や雨乞 い儀式などが行われていた。大宝年間から工事が開始され、弘法大師空海が修築工事を指導したとされる満濃池のほか多くのため 池が開発され、それより耕地は灌漑された。菅原道真も、一時は讃岐国国司となっている。 平安時代には関東地方での平将門の乱に乗じて藤原純友が伊予国(愛媛県)で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させた。朝廷が 追捕使として小野好古を派遣すると讃岐国の武士も乱の平定のために戦う。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流刑され、讃岐 国で死んだ。平安時代後期には源平合戦の1つである屋島の戦いが行われる。一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平氏は屋島の戦い (高松市内)においても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は瀬戸内海における制海権を失った。
<香川県の中世> 鎌倉新仏教派の法然上人も流刑されたことで有名。足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、 讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入った。以後、南北朝時代を経て室町時代を通じて、細川氏が守護大名として讃岐国を 支配した。室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い敗れた。(白峰合戦、現宇多津町・坂出市) 讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が 多く、香西、香川、安富、奈良の4氏は細川氏四天王と称されたという(南海通紀)。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西 氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。 戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香川、阿野、鵜足郡に長尾氏、奈 良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。しかし安富氏が細川・三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏によって滅びると、若干 の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。三好氏は三好長慶の弟である十河一存に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、 この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った元吉合戦があったとされる。 長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻してこれを平定する。豊臣秀吉が四国征伐を行うと讃岐へは宇喜多秀家を総 大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤氏、生駒氏が相次いで封 ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。