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歴史倶楽部・第174回例会 萱の御所跡 神戸市 2012.3.3







	<薬仙寺>
 
	奈良時代に行基によって天平十八( 746)年に建立された寺と伝えられている。薬仙寺の名は、後醍醐天皇が隠岐より兵庫の福厳寺に泊
	まった時、ここの霊水を服用薬に奉り、病が回復したところから付けられたと云う。元々は須佐の入り江に面した町はずれにあったよう
	である。天台宗の寺だったが、延文元(1356)年に時宗に改宗した。元弘三(1333)年、隠岐を脱出した後醍醐天皇に薬水を献上したと
	いう伝説がある。本尊の薬師如来像は平安時代中期の槍の一本造りで国重要文化財に指定されている。同じく国重要文化財の紙本着色施
	餓鬼図は李氏朝鮮時代の作で、当時はわが国最初の施餓鬼修法の寺とも伝えられている。
	よく整備された「兵庫津の道」を歩いて清盛橋を越えたところ、御崎八幡宮のはす向かいにある。境内は広くよく整備されているが、阪
	神・淡路大震災で大きな被害を受けて、多くの施設は建て替えられている。




	<萱の御所跡>

	境内の萱の御所は、福原遷都の際、後白河法皇を幽閉した跡で、牢の御所とも呼ばれている。もとは寺の北にあったが、昭和28年の運
	河拡張工事の際、水中に没したため現在地に移した。
	平清盛は、京都から福原へ都を遷したが(福原遷都)、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不
	快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。その時後白河法皇を幽閉したのが清盛の邸宅であった萱の御
	所だといわれている。
	伊豆に流された文覚上人は、そこで同じく流罪になっていた源頼朝と出会い、その後文覚上人はこの萱の御所に忍びこみ、幽閉されてい
	た後白河法皇から平家追討の院宣を授かって頼朝に伝えたと云う。実際の「萱の御所」の位置については、夢野にあった、現在「平教盛
	邸」とされている場所とする説が有力なようである。




	<萱の御所と平清盛>(一部、ウィキペディアより)

	治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排
	除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は備前国へ流罪、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。
	ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避
	するために行ったとする見方もある。
	治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死去。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。さらに7月、重盛が42歳で病死。
	するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、
	8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた
	清盛は憤慨する。




	<萱の御所と平清盛>(続き)

	清盛は後白河法皇の施策に激怒し、11月14日、福原から軍勢を率いて自ら上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であ
	るが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非
	違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。
	後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は
	完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。
	このクーデターは発端が後白河法皇の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基
	通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山
	院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔
	を図った。実際の政務に関しては、平時忠・四条隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。

	治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。
	名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握った
	ことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。




	<萱の御所と平清盛>(続き)

	平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力
	で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなって
	いた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城
	寺もこの動きに同調した。
	しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使で平氏家人の藤原景高・藤原忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼
	政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ
	平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸
	市)を望む地への遷都を目指して福原行幸を強行する。






	<萱の御所と平清盛>(続き)

	しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国にお
	いて木曾義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の
	戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。
	この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂
	起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、
	九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は京都に帰還する。
	12月になると清盛は、平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち
	破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は背後の脅威を
	一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺は炎上した。

	確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、南都焼討は清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった。
	治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国の河野通清・通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国
	の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義な
	どが頼朝によって討伐される。




	<萱の御所と平清盛>(続き)

	このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内
	を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また丹波国
	に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに越後国の城資永、陸奥国の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。
	2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた。
	死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったた
	め、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。享年64。






	<萱の御所と平清盛>(続き)

	清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に
	供えよ」と遺言を残したとしている。死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として
	「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した。

	清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ
	反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、
	折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の
	攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。

















上は寺の納骨堂。寺のすぐ裏は運河である。かっての大輪田泊の一部だ。



	
	<摂播五泊>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	大輪田泊は、延喜14年( 914年)の三善清行の『意見封事』に、奈良時代に大僧正行基が築いたとして記される五泊のひとつである。
	五泊は東より、
 
	河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
	大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
	魚住泊(兵庫県明石市魚住町)
	韓泊(兵庫県姫路市的形町、のちの飾磨津)
	室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)
 


	
	いずれも摂津から播磨にかけて所在するため、「摂播五泊」とも称される。なお、「大輪田」の地名は津泊の意におこるとも理解されて
	おり、上記河尻泊の所在した摂津国・神崎川の河口にも「大和田」の地名があるのをはじめ日本列島各地に同様の地名がのこり、そうし
	たなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この地が古くから最重要港湾として認められていたことを示している
	とも考えられる。


摂播五泊を建置したといわれる僧行基



大輪田泊・全盛時の想像図ジオラマ(兵庫県考古博物館)




「萱の御所跡(薬仙寺)」を出て「和田神社」へ向かう途中の公園で昼食にする。













福原雪見御所の碑
	<雪見御所>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	雪見御所碑雪見御所(ゆきみのごしょ)は、平安時代末期に摂津国福原京(現兵庫県神戸市兵庫区雪御所町)にあった平清盛の邸宅。
	雪之御所、雪御所とも。仁安3年(1168年)に出家した清盛は遁世生活に入り、福原に別荘である雪見御所を構えて日宋貿易拡大の拠点
	とした。『山槐記』治承4年11月21日条に安徳天皇の「本皇居」を「禅門(清盛)の家、雪御所の北なり」と記している。
	明治時代に礎石や土器類が多数発掘され、現在湊山小学校の校庭に「雪見御所旧跡」の碑が建てられている。1978年の小学校建て替えに
	伴う調査では平氏時代と断定出来る遺物は発見されていない。

	今回<雪見御所>については、兵庫駅から北東へ行かねばならず、コースからだいぶはずれるため割愛した。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 174回例会・神戸・福原京跡を訪ねて