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歴史倶楽部・第174回例会 真光寺 神戸市 2012.3.3









	<兵庫津の道>
 
	中世、平清盛によって基礎がつくられた「大和田の泊」は、その後の改修を経て、鎌倉時代には国内第一の港として兵庫津と呼ばれるよ
	うになっていた。この「兵庫津」を中心とした現在の兵庫区南部は、さまざまな歴史や史跡の宝庫となっており、それらを結ぶ散策道は
	一般公募により「兵庫津の道」と名付けられた。
 


須佐野公園。真光寺のすぐ裏にある。下、塀のむこうが真光寺。











ここでは変わった人力車が活躍している。「これなんぼやねん?」と声をかけたら「30分1,500円ですーっ」と、兄ちゃんも客も笑っていた。




	<真光寺>
 
	時宗の寺で、時宗の三檀林(学問所)の一つとされる。開祖一遍上人は正応2年(1289)に51歳でこの地の観音堂で亡くなり、後に弟
	子がここに真光寺を建てた。


	真光寺		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	真光寺(しんこうじ)は神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院。仁明天皇(833年〜850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田
	岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
	正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
	遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領
	数百を寄進とある。応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。慶長
	年間(1596年〜1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
	元禄5年(1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
	天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。昭和20年(1945年)の神戸大空襲で
	全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。







「平清盛公御膳水の井戸」をのぞき込んでいる一団は、沖縄から来た観光客だった。







さきほどの人力車だ。「清盛号」と書いてある。





無縁仏の如来塔。「あぁー、俺も一歩間違うたらここに」てな事を思ってるのかな、橋爪くん。無縁仏にならんで良かったね。




	一遍廟所

	兵庫県指定記念物(史跡)。(昭和46年4月1日指定)。鎌倉時代後期。遺体は敬慕する沙弥教信のように野に捨てて獣に施せとの一遍
	の遺言であったが、在地の人々の結縁により観音堂前の松の根元で荼毘に付し、廟を設けたという。



門の真正面に見えている一遍火葬所。ここで荼毘にふされたものらしい。






	一遍上人五輪塔

	花崗岩製石造五輪塔 兵庫県指定重要文化財(建造物)(昭和46年4月1日指定)鎌倉時代後期〜南北朝時代。高さ1.95cm、阪神・淡路
	大震災で倒壊した時、中から骨灰が現れたという。




	<一遍上人>

	延応元(1239)年に松山で生まれた。水軍の家系だったが10歳で出家し、西山派の浄土宗に接する。父の死により家業を嗣ぐため還俗
	するが、相続問題でのトラブルを契機に再度出家し、文永11(1274)年、妻・娘・下女の4人で諸国行脚しながら念仏を唱えるという
	生活に入った。
	踊り念仏の実質的な創始者は空也上人(903 -972)だが、一遍上人はその300年後に生まれている。信濃の善光寺での参籠、高野山で
	の高野聖たちとの交流を経て、熊野権現で神勅を得、念仏札の配布を始める。これは念仏を唱える人のみならず、唱えてない人にもどん
	どん配るというもので、今でいえば街頭配布のティッシュのようなもので、当時では画期的な布教方法だった。一行は熊野からいったん
	九州へ赴き、再び本州に戻って善光寺から今度は東北まで行き、やがて生まれ故郷の四国へ戻って、最後はここ兵庫で亡くなっている。
 










「遊行柳」となってるが、何かわからんかった。ここに柳が生えてたのかな?













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