Music: 人を恋うる歌
歴史倶楽部・第174回例会 能福寺 神戸市 2012.3.3







	<能福寺>平相国廟(能福寺境内)
 
	延暦二十四( 805)年、最澄は唐留学の帰りに和田岬へ上陸し、自作の薬師如来像を本尊として安置し「能福護国密寺」としたのが始ま
	りとされる。清盛は仁安五(1181)年当寺で剃髪したと言う。養和元(1161)年に清盛が京都で没した時、その遺言にのっとり、初代住
	職・円実法眼が遺骨を首に掛けて持ち帰り、法華堂に納めたと伝えられるが、その所在地は不明である。現在当寺には清盛廟がある。
	また清盛の弟教盛の子である忠快が、源平の合戦にて全焼した寺を、寿永二(1183)年に再建し、文治二(1186)年には、一ノ谷合戦の
	戦死者を追追悼し、千僧供養を行った。
	境内には、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大仏の一つと称する兵庫大仏がある。胎蔵界大日如来像【毘慮舎那物】で、本体11m、蓮台3m、
	台座4m。初代は明治24年(1891)に、兵庫の豪商南条荘兵衛が寄進したもので、昭和19年、金属回収令で国に供出したため長い間
	台座だけになっていたが、平成3年5月に関係者の努力によって再建された。
	当寺にはまた、神戸事件で切腹を余儀なくされた滝善三郎の供養碑や、ジョセフ・ヒコの、寺の縁起を記した日本初の英文碑、新川運河
	開削に寄与した北風正造の顕彰碑などがある。




	能福寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	兵庫大仏能福寺(のうふくじ)は、兵庫県神戸市兵庫区にある天台宗の仏教寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくざん)。本尊は秘仏
	・薬師如来。寺伝では 805年(延暦24年)に最澄(伝教大師)により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化
	霊場と称する。
	平清盛所縁の寺としても知られており、1180年(治承4年)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大
	伽藍が建設され大いに栄えた。その後、1341年(興国2年/暦応4年)に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、1599年(慶長3年)に長盛
	法印が再興したという伝がある。




	大河ドラマの舞台地では、どこでもそのドラマの放映期間中、町をあげての一大イベントが繰り広げられる。その期間だけ観光地になる
	のだ。それ自体は悪い事ではないし、経済的にも潤うのでNHKも地域振興に大いに貢献していると言っていい。しかしブームが去った
	後のわびしさもまた、ブームが大きければ大きいほど強い。
	日本人の大半は、心情的には平家よりも源氏に味方しがちだ。どんなに華やかに脚色しても、平清盛もイメージ的には悪役の印象が濃い。
	法王を監禁した狼藉者、権勢をバックに都すらも移転させた成り上がり者、天皇を道具に世の中を牛耳った極悪人というイメージである。
	平家にも悲劇の若武者はいるが、源義経にはとうていかなわない。

	そんな中にあって、真の「歴史観光地・神戸」を目指すためには、整備された平家旧跡・福原京・兵庫津等の史跡、正しく理解されるた
	めの解説書、そして何より、一般に興味を持ってもらうための一過性では無い、地域に根付いた息の長いキャンペーン等々が必要だろう。
	これを期に今年のようなキャンペーンを、たとえば10年計画とかで持続して活動すれば、やがてメリケン波止場だけではなく、「歴史
	の町・神戸」のイメージも定着すると思うのだが、ついぞ、そういう町にはお目に掛からない。



「清盛茶屋」と染め抜かれた幟の周りでは、現代の「平家公達・女御衆」が、かいがいしく観光客の相手をしている。










	神戸事件	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊
	列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件で
	ある。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
	この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であっ
	た滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。




	<事件の発端>		(赤字は筑前)

	慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に
	摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へき
	たてわき)率いる500人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神
	戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の
	引き金の一つとなってしまう。
	1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を
	横切ろうとした。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第
	3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突き
	かかり軽傷を負わせてしまった。
	これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵
	が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃
	口を向け、数度一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所
	(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中
	しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない。

	<事件の推移>

	自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、ア
	メリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。備前側では、家
	老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。
	神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日
	本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博
	文)が折衝に当たるも決裂するに至る。
	1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。
	諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この
	事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」
	への対処は武士として当然のものでもあったが、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊
	達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。
	結局、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日( 3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹
	させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。




	<事件の意味>

	神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という一
	人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示
	した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」(外国を討ち払う)政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。
	ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその
	事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日(1869年7月7日)に行われた新政府の上局会議における決定によるも
	のである。
	この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港や上海の様に理不尽な占領下に置かれる事態
	も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。

	<エピソード>

	シーパワー論の提唱者として後年名を知られることになるアルフレッド・セイヤー・マハン少佐は、神戸事件の最中、兵庫港に停泊する
	米国艦イロコイ号の副長を務めていた。明治23年(1890年)に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)を創立することになる高山紀齋は、
	日置帯刀の家臣として、備前藩兵の一員であった。

	堺で「堺事件」の旧跡を見たときにも、その悲劇に「嗚呼!」としか表現できない思いを感じたが、今回も同様である。300年に及ぶ
	閉鎖的な社会がもたらした事態ともとれるし、列強に比べて弱体だった国力・国体が引き起こした悲劇とも言えるが、封建社会の悲しい
	出来事である。




	八棟寺旧蹟(はつとうじのきゆうせき)

	神戸の平清盛の墓、平相國廟(へいしょうこくびょう)、十三重塔(じゅうみえとう)。
	真光寺の南にあり。平相国の建立にして、諸堂巍々たり。太平山といふ。天正年中兵火に喪ぶ。『元享釈書』に云ふ「承安二年道場を福
	原に営みて法華の法を修す」と書きしはこの寺也。




	平相國廟(へいしょうこくびょう)

	能福寺境内に養和元年(1181)清盛の死後、能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に墓所平相國廟が建立されたと云う。平家滅亡と共に
	ことごとく破壊された。弘安9年(1286)2月、北条貞時が一基の石塔を建て、清盛の霊を弔ったのが現在に伝わる清盛塚十三塔で、清
	盛公800回大遠忌を迎えるにあたり平家物語類書にも有名な平相國廟を昭和55年2月建立復興した。

	左 忠快法印塔(九重塔)鎌倉時代 清盛公の弟教盛の長子。圓實法眼の弟子にして当山住職 
	右 圓實法眼宝筺印塔 鎌倉時代 能福寺住職 清盛公剃髪出家の師匠





願いもむなしく、阪神・淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日(火)に発生した。




	<兵庫大仏>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	1891年(明治24年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された。この大仏は1944年(昭和19年)に金属類回収令で国に供出さ
	れるまで日本三大大仏の一つに数えられた。
	現在の大仏は1991年(平成3年)に再建されたものである。毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含め
	ると高さ18mになる巨大な坐像である。1991年5月の開眼法要には、東大寺管長、高徳院貫主が臨席した。
























	院家	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	院家(いんげ)とは、寺院を構成する塔頭のこと。出身身分に由来する僧侶の身分。門跡に次ぐ。
	
	<寺院塔頭としての院家>

	単に「院」とも呼ばれる。大寺院の内部においてその一郭を占めて、寺院本体とは別に独自の所領・組織を保有した別院を構成する塔
	頭及びそこに止住する僧侶集団を指す。本来、寺院の僧侶は三面僧房で共同生活を送ることが原則とされていたが、僧侶の中には修行
	に専念するために独自の僧房を設置して独立空間を構える者もいた。これが院家のルーツである。特に複数の宗派が混在する寺院が多
	かった平安時代においては、同じ宗派を信奉する僧侶が1つの院家において集団生活を行い、修行・研究の場とするケースも多かった。
	なお、後世では門跡寺院において、下記僧侶身分の院家が止住する塔頭のことも指した。

	<僧侶身分としての院家>

	皇族及び貴族身分出身の僧侶。後に同身分が居住する塔頭のことも指した。
	元は昌泰2年(899年)の宇多上皇出家の際に、上皇とともに仁和寺の院家の1つであった「御室」に付き従って出家した皇族・貴族達
	を指した。当初は「門跡」と混同して用いられていたが、後には門跡に次いでこれを補佐する身分とされて門跡に就任するための要件
	とも考えられるようになった。このため、院家は平民出身の凡僧とは格別した身分的特権が与えられるようになるとともに、その実家
	の財政力を背景に既存の院家を獲得あるいは新規に創設することが盛んに行われるようになった。
	門跡寺院に付属する院家の代表的なものとしては延暦寺の青蓮院、興福寺の一乗院・大乗院、醍醐寺の三宝院、南禅寺の金地院、相国
	寺の鹿苑院などが挙げられる。こうした院家からは凡僧は排除されて皇族・貴族身分の学侶だけが止住を許されていた。
	また、新たに門跡寺院に加えられた寺院が自己の別院・末寺を院家として設定することも行われており、永禄3年(1560年)には前年
	の本願寺の門跡寺院指定に伴って摂津富田の教行寺や伊勢長島の願証寺などの9ヶ所の末寺が尊助法親王によって院家として定められ
	ている。







どうもこの顔は好きになれんという人多いよなぁ。



この看板の後ろにかっては円筒埴輪のような顕彰碑が建っていたが、今は見当たらない。シュロの後ろに隠れたかそれとも壊れたかな。

	北風家	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	北風家(きたかぜけ)は兵庫県の旧家。伝説によれば古代から続く歴史を持つ。1895年(明治28年)北風正造の逝去によって歴史を閉
	じた。伝説及び家伝については以下の通り。




	<北風 称姓以前>

	第8代 孝元天皇の曾孫である彦也須命(ひこやすのみこと)を初代家祖とする。彦也須命が阿閇氏遠祖の彦屋主田心命(ひこやぬした
	こころのみこと)と同一人物かは不明。北風氏系図は複数有り、名前が似ている22代 彦主(ひこぬし:家伝では「ひこのし」)、6代
	 彦連(ひこむらじ)と初代彦也須命との事跡に混乱が見られる。
	第10代 崇神天皇が 桑間宮(くわまのみや)にて治世時、彦也須命は、四道将軍の1人として都を離れている父に代わり、天皇に近侍、
	浪速の浦の魚網所(現在の玉出か)を監督。古くは、家内重大決定時、神意を問う為に、遠方にある初代の古墳まで当主が出かけてい
	たというが、いつの頃か忘れられ、古墳の所在地は不詳。
	6代彦連(7代彦麻呂あるいは彦丸)が神功皇后に従い、新鮮な魚介類を献上すると共に、新羅に出兵、功あり、兵庫の浦一帯の管理を
	任される。家宝に皇后の鐙が伝わる(御手判もあったが寛政7年焼失、有栖川宮織仁親王の手判に置き換えられた)。その後、 平氏に
	よる福原京遷都計画の影響で浜方に移るまで、代々、会下山(えげやま)に居を構えた。尚、神功皇后が新羅から帰還の折、阿倍野の
	近くの浜で吉志舞を舞った阿倍氏は大変近しい一族に当たる。
	22代彦主の頃、当時まだ新興の藤原氏と婚姻を結び、白藤(しらふじ)氏を名乗る。

	近隣の丹生山田荘(神戸市 北区山田町)には、矢田部郡(八部郡)郡司の山田左衛門尉真勝(さねかつ)が右大臣 藤原豊成の娘で中
	将姫の妹でもある白瀧姫に身分違いの恋をし、帝の援助を得て、故郷に連れ帰って子孫を成したとの伝説「栗花落の井(つゆのい)伝
	説:神戸市兵庫区都由乃町にも栗花落の森伝説有り」が有り、真勝は彦主と官職が同じ左衛門尉でもあり、関連が注目される。尚、藤
	原豊成の時代に衛門府は左右に分かれておらず、左衛門尉という官職はない。幕末の当主北風正造は、現在の神戸市北区山田町小部に
	唐御殿と呼ばれた別荘を持っており、勤王志士たちとの密談に使用していた。
	44代白藤惟村が一門(当時支流だけで21家)を引き連れて南朝後醍醐天皇方に加勢し、1336年北風の強い日、家伝によると、わざわざ
	敵前を兵庫から東の敏馬(みぬめ)まで船で漕ぎ渡り、敏馬神社に参拝の後、取って返して、兵庫の浦で足利尊氏の軍船の大半を焼い
	た。尊氏の姿が見えるほど肉薄したが、もう少しのところでその船を取り逃がす。


	<北風(喜多風)家の成立>

	九州に逃げた尊氏の追討将軍である新田義貞公から軍忠状とその佩刀を賜り、喜多風(後に北風に改める)の姓、名前の「貞」の字を
	賜り、喜多風貞村 となり、左衛門佐(従五位上相当)に任官。左記より、北風家の人名には「貞」のつくものが多い。
	しかし、九州から反撃してきた尊氏軍によって、湊川の戦いで楠正成は戦死、新田義貞と共に喜多風家一門は敗走。貞村は、猪名川上
	流の地に隠遁、度々兵庫に潜入して再起を期すも病死する。遺児は父の意志を継いで尊氏を付け狙うが、貞村の妻(藤の尼:本名不明)
	は一門を一時出家させる等、尊氏に認められた新領主赤松氏との仲裁に奔走。喜多風家の命脈を繋いだ。
	藤の尼が一門を諭した文書が尼ぜ文書であり、滅亡するはずだった喜多風家の面々は私心を排除して公に奉仕すべしとの家訓を残した。
	これより公に奉仕する伝統が北風家に伝わる。また、幕末に荘右衛門家に婿養子に入った北風正造は、尼ぜ文書を利用して家人を説き
	伏せ、勤王の志士等を後援した。


	<その後の北風家>

	厳しい時代を乗り越え、再び繁栄の時代がやって来る。47代良村の後、本家は二家に分かれ、宗家は六右衛門(48代行村から)、嫡家
	は荘右衛門(48代惟春から)を代々名乗った。宗家は酢の販売、嫡家は海運業を主に取扱い、張り合いながら繁栄した。今は生田裔神
	八社の1社とされているが、七宮神社は出自が敏馬神社か長田神社といわれ、元々会下山に北風家が祀っていた。また、菩提寺につい
	ては元々西光寺(藤の寺)であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家は江戸時代、主要七家に分かれ、兵庫十二浜
	を支配した。
	江戸時代、河村瑞賢に先立ち、1639年加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将
	山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖(?)であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が1600年、馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ
	事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、こ
	れは後の樽廻船の先駆けともなった。尚、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、
	取扱店では「北風酢颪:きたかぜすおろし」と看板を出す酢屋もあったという。
	俳人与謝蕪村の主要なパトロンが63代北風荘右衛門貞幹である。貞幹は司馬遼太郎の著作『菜の花の沖』で取り上げられた様に、無名
	時代の高田屋嘉兵衛を後援したことで有名。


	<最後の当主・北風正造(荘右衛門貞忠)>

	幕末から明治にかけての当主・北風正造(66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金
	・別途除金(1796年以降代々の主人が個人の剰余金を居間と土蔵の二つの地下秘密蔵に貯めていた。60万両以上あったという。)の資
	金と情報を提供、倒幕を推進。明治に入っては、初代兵庫県知事伊藤博文のもと、国事・県政に尽力した。
	明治元年、鳥羽伏見の戦の時、有栖川宮が東征総督として征途につかれた祭、駿馬と3000両を郡に献上し、又、姫路藩が官軍の攻撃を
	受けて城下町が戦場になろうとした時彼が仲裁に入り、軍需金十五万両と引き換えに紛争を解決させた。現在白鷺城が無傷で現存する
	のは彼のお陰である。
	明治元年3月、兵庫裁判所御用掛、商法司法判事、権大族等を歴任。同7年、新川社を起こして兵庫新川の開発事業に関係し、米商会
	所、第七十三国立銀行等を創立し、その頭取となったほか、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社の創立など、実業界にも貢献した兵庫き
	っての豪商であり、神戸発展の功労者である。
	しかし、正造はあまりにも公徳心の権化であり、友人の伊藤博文も「きれいごとだけでは生きていけん」と忠告するが、理想とのギャ
	ップから正造は官を辞する。家業も終には倒産し、正造は東京で客死する。明治28年12月5日。62才。
	正造の死を惜しんだ伊藤博文はその後すぐ、自ら筆をふるい、正造の菩提寺、能福寺の北風正造君(顕彰)碑の文字を書いた。こうし
	て、荘右衛門家は没落し、六右衛門家も寛政年間に血脈が絶え、荘右衛門家が引継ぎ、家財・遺品等の管理をしていたことから、両家
	の没落はほぼ時期を同じくしたこととなる。






	ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/03/19 13:22 UTC 版)

	浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍
	した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。帰国後は「ア
	メ彦」の通称で知られた。

	<ジョセフヒコ年表>

	和暦 		西暦 			主な出来事

	天保8年 	1837 8月21日、		播磨町古宮に生まれる。幼名は彦太郎 
	嘉永3年 	1850  9月、		栄力丸で江戸へ向う
			10月29日、		遠州灘で暴風にあい漂流
			12月21日、		米商船オークランド号に救われる
	嘉永4年 	1851 2月3日、		サンフランシスコに着く 
	嘉永5年 	1852 3月13日、		帰国のためサンフランシスコ発
			5月20日、		香港着
			10月初め、		再び、渡米。
			12月初め、		サンフランンスコ着
	嘉永6年 	1853 8月5日、		サンダースに伴われてニューヨーク着
			8月13日、		大統領ピヤース氏と会見
	安政元年 	1854 1月17日、		ボルチモアのミッション=スクールに入学
			10月30日、		カトリックの洗礼を受け、ジョセフの名を用い始める
	安政4年 	1857 11月25日、		大統領プキャナンと会見 
	安政5年 	1858 6日30日、		帰化し米国市民権を得る 
	安政6年 	1859 5月29日、		上海のハリスを訪ね、神奈川領事館通訳に決まる
			6月18日、		長崎着神奈川入港
	万延元年 	1860 2月、		領事館を辞任
			3月、			貿易商館をひらく
	文久元年 	1861 9月17日、		三度目の渡米の途に着く 
	文久2年 	1862 3日2日、		リンカーンと会見
			10月13日、		横浜に帰り、再び米国領事館通訳の仕事を始める
 	文久3年 	1863 9月30日、		領事館を辞任
			秋、			『漂流記』上梓
	元治元年 	1864 6月、		『海外新聞』発刊 
	慶応2年 	1866 12月25日、		横浜を去り長崎に向う 
	慶応3年 	1867 6月、		木戸孝充・伊藤博文が訪ねてくる 
	明治元年 	1868 8月7日、		故郷古宮に帰る 
	明治2年 	1869 			神戸に永代借地権を得る
			6月、			香港造幣局の施設を買収し、大阪造幣局を創設するについて尽力する
	明治3年 	1870 10月、		両親の墓碑をたてるために帰郷 
	明治4年 	1871 11月2日、		両親の墓碑除幕、英文が刻まれているところから「横文字の墓」とも呼ばれている 
	明治5年 	1872 8月、		大蔵出仕となり「国立銀行条例」の編さんに従う 
	明治7年 	1874 			大蔵省を退き横浜の岡本伝右衛門に請われて商業教習に従う 
	明治8年 	1875 5月1日、		北氏と合同、神戸で製茶の輸出貿易を始める 
	明治9年 	1876 			北氏との茶商解散、単独の事業となる 
	明治14年 	1881 1月、		神戸で精米所も始める 
	明治17年 	1884 12月26日、		精米所の蒸気機関を貸し、神戸にはじめて電燈がともる 
	明治20年 	1887 3月12日、		神経痛治療のため上京、駅頭で伊藤博文と再会 
	明治21年 	1888 2月4日、		東京に移り住む 
	明治25年 	1892 			ヒコ自伝『ナレティヴ』の上巻丸善から発行 
	明治26年 	1893 			『開国之滴』出版される 
	明治30年 	1897 12月12日、		心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる 
	昭和10年 	1935 			神戸市が生田区中山手通六丁目に「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏居址」碑を建てる 
	昭和31年 	1956 5月16日、		「ジョセフ・ヒコ墓地保存会」生まれる 
	昭和35年 	1960  12月19日、	阿閇村(現在の播磨町)が「新聞の父浜田彦蔵の碑」を阿閇小学校(現在の播磨小学校)の
						校庭に建てる 
	昭和49年 	1974 6月、		播磨町の浜田海岸に「生誕の地」の碑を建てる 
	昭和55年 	1980 4月12日、		播磨町中央公民館の前庭にヒコの胸像を建てる 



これはちょっと何かわからない仏像だった。手は六本。




	裏側に何か字が刻んであるがよう読めん。善休法師のために施主角屋弐右衛門が寛政七年正月に建てたものとある。寛政年間は、時の
	天皇は光格天皇で、江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉である。時代背景としては、浅間山が噴火(天明三年)、石川島に人足寄場を
	設置(寛政二年)、湯島聖堂を昌平坂学問所と改称(寛政九年)など。同時代に生きていた人物は、杉田玄白、伊能忠敬、長谷川平蔵、
	蔦谷重三郎、喜多川歌麿、松平定信、葛飾北斎、山東京伝、十返舎一九、滝沢馬琴、雷電為衛門、間宮林蔵、遠山金四郎、渡辺崋山、
	水野忠邦、千葉周作などなど。







阪神淡路大震災の残骸が残っている。前回もあったので、あえて残してあるもののようだ。





能福寺を出た所にいたお姉さんと話していたら、なんと娘はもう女子大生というおばさんだった。「えぇー、見えんなぁ」と記念撮影する橋爪さん。














邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 174回例会・神戸・福原京跡を訪ねて