Music: 北上夜曲
歴史倶楽部・第174回例会 大黒天・福海寺 神戸市 2012.3.3



	福海寺縁起	福海寺hpより

	当寺は康永3年(1344年)、足利尊氏公により開かれました。
	話は建武3年にさかのぼります。京都合戦に敗れた尊氏公は、丹波路を取り播州三草より兵庫に来られましたが、新田義貞軍の兵士
	に追われるところとなり、急遽福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜められました。それにより辛うじて一命を取り留め
	た尊氏公はその後兵庫を出航され、九州より西国の水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船を兵庫の地に再上陸させます。
	そして見事湊川の合戦に勝利されたのでした。
	室町幕府を開かれた尊氏公は、康永3年(1344年)一命を取り留めることとなった針が崎観音堂への報恩と、彼我戦没者供養、祝
	国安民祈願の為に、京都正伝寺より在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師を拝請し福海寺を開かれました。
	福海寺は正式には「福海興国禅寺」と言います。「福海興国」の文字は、尊氏公が福海寺の前身である針が崎観音堂で命拾いされ、
	兵庫より出航された事が国を興す元に成ったとの感謝の念を表されたものです。そのため尊氏公からは寺録と「福海興国禅寺」の寺
	額を賜り、足利義満公からも「大光山福海寺」の寺額を賜るなど、福海寺は室町将軍家から厚い崇敬を受けました。
	 その後福海寺は、嘉吉(かきつ)の乱の火災で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転して来ました。慶長の除
	地帳にもその名は出ており、元和元年の調査では、除地高四反九畝十七歩、六石四斗四升と記され、本堂はじめ十六人の僧の屋敷が
	除地となっています。
	 元禄九年の兵庫津絵図等を見ると、福海寺は兵庫津の西の入り口「柳原惣門」の要衝にあり、境内が「枡形」を構成する大規模な
	様子から、兵庫城の防備の役目をしたことがうかがえます。
















	境内の祠にお供え物をしていた女性が居たので、早速誰かが話しかける。ここの現在の住職さん(13代目)の奥さんだそうで、阪神
	淡路大震災で伽藍が全部倒壊したこと、それを檀家が十年で元通りにしてくれたこと、などなどの話を伺う。真新しく綺麗な寺だなぁ
	と思ったらそういう事か。しかし檀家ってエライねぇ。私の実家の寺も30年位前本堂を全面改修したが、親父も数百万出したとか言
	ってたもんねぇ。総工費2億円とか言ってたが、ここの寺はとてもそんな額では無かろう。まず10倍はかかるね。
	それにしても、足利尊氏の時代から13代か、祖先の在庵圓有禅師は足利尊氏とサシで話してた人物なんだねぇ。室町時代、ひぇー。
	もともとは現在の兵庫駅にあったんだと。





本堂入り口左側にちょこんと座っている坊やが14代目だ。果たして14代目になるかな?













邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 174回例会・神戸・福原京跡を訪ねて