Music: 新人哀歌
歴史倶楽部・第174回例会 柳原惣門跡・柳原蛭子神社 神戸市 2012.3.3




いきなり持ってくるか、という声が聞こえてきそうですが、ま、普段はあまり登場していないのでたまにはいいでしょう。先月ハワイで買った帽子です。



	本日のオールキャストでございます。今回もご覧いただいてありがとうございます。河内さんの足下が乱れているのが「合成写真」
	の証。写真右上に飛行機のスタンプがありますが、これが押してある写真は、すべて河内さんが最近買ったデジカメによるものです。
	河内さん、写真ありがとうございました。


	福原京	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進めら
	れた日本の首都の通称。場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現
	在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。
	平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したため
	ともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。福原京の建造物群は源義仲によって
	全て焼き払われた。
	治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれ
	た。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたが
	る地域にあたる。
	当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってし
	まった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がっ
	たが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えら
	れることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京(京都)を放棄せず、福原には離宮を建て、
	内裏や八省は必要ないとした。これに対して平清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省な
	どの役所もつくるという方針で構えた。
	そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、17日(12月5日)から20日(12月8日)に新嘗祭の五節のみが行な
	われると(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、23日(12月11日)には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するた
	め清盛が決断したといわれている。

	<主な史跡>

	平相国廟(能福寺境内)
	清盛塚
	萱の御所跡の碑(薬仙寺境内)
	雪見御所趾の碑(平清盛の山荘趾)
	安徳天皇行在所趾の碑(平頼盛山荘趾、荒田八幡神社境内)
	陣場の井(平教経陣地跡、氷室神社境内)
	湊川上温泉
	夢野八幡神社
	祇園神社



JR兵庫駅をでて2,3分で「柳原蛭子神社」である。大阪側へ300m戻る。








	<柳原惣門跡>
 
	兵庫の町に西国街道が入ろうとする西側の地点にこの門はあった。また、町の東側には湊口の総門があった。これらの門は、町の出入り
	口として機能したと考えられる。織田信長の家臣、池田恒興による兵庫城の建設に伴い造られた、外曲輪の土塁に伴って立っていた門と
	考えられる。門の設置や廃絶の時期はよく分かっていないが、曲輪の造られた天正八(1580)年頃に造られたと考えられている。また明
	治八(1876)年の土塁の撤去に伴い、門も撤去されたと考えられる。平成14年度に行われた神戸市の発掘調査では、外曲輪堤と外堀、
	総門の柱石柱が見つかり、本柱と控柱の寸法が六尺(1.8m)程度である事がわかった。






	西国街道	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)とは、江戸時代における街道のひとつであり、
	近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中
	国路(ちゅうごくじ)、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる。京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。
	また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮〜下関まで区間、あるいは同じく京〜西宮までの区間を指すこともある。

	江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するな
	ど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎とし
	ての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
	江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関(あかまがせき)に 至る道として再整備されたものである。 
	幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇街道に位置付けられることとなった。
	この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を
	越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。これらのことは、寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を
	契機としたが、寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。
	なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都〜西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮
	〜下関間を狭義での西国街道、大坂〜尼崎〜西宮間は中国街道などと呼称する場合が多いようである。

	慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。
	京都から下関までのうち、以下のように区分されることもある(多少の重複がある)。

	 京〜西宮(山崎通) 

	西国街道のうち、特に六宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹
	市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指し山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通
	(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。なお狭義の西国街
	道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある。
	現在、旧街道に並行するように国道171号が京都〜神戸(西宮 - 神戸間は国道2号重複)間を結んでいる。
	さらに山崎通とは別に、京と大坂を結ぶ街道として京街道(大坂街道)がある。他にも大坂と西宮を結ぶ浜街道(はまかいどう)があり、
	別名で狭義での中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、中国道(ちゅうごくどう)とも呼ばれた。両者とも現在で
	も主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。

	 西宮〜下関 	西宮〜下関までを狭義での西国街道と呼ぶこともある。

	また、打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)前までは山側と海側の南北二手に分岐しており、山(北)側のルートを西国本街道、海
	(南)側のルート西国浜街道と呼んだ。
	また、幕末には、1867年(慶応3年)の神戸開港に伴い、生麦事件のような外国人と大名行列の衝突を避けるために、石屋川(神戸市東
	灘区) - 大蔵谷(明石市)間を六甲山中を抜けて迂回する西国往還付替道も開削された。しかし、開通3ヶ月後の1868年(慶応4年)
	3月に、外国人居留地を小迂回する別の道が設けられ、あまり使われないまま廃れていった。現在、神戸市・明石市内に部分的に残る西
	国往還付替道は、地元では徳川道と呼ばれている。

	 宿場一覧	寛文9年銘道標(市指定文化財)京都東寺 - 起点

	1.山崎 (大山崎町・島本町)
	2.芥川 (高槻市)
	3.郡山 (茨木市) - 郡山宿本陣が現存
	4.瀬川 (箕面市) - 能勢街道との結節点
	5.昆陽 (伊丹市)
	6.西宮 (西宮市)
	7.大蔵谷 (明石市)
	8.加古川 (加古川市)
	9.御着 (姫路市)
	10.姫路 (姫路市)
	11.正條(たつの市)
	12.片島(たつの市)
	13.有年(赤穂市)
	14.三石(備前市)
	15.片上(備前市)
	16.藤井(岡山市)
	17.岡山(岡山市)
	18.板倉(岡山市)
	19.川辺(倉敷市)
	20.矢掛(矢掛町)
	21.七日市(井原市)
	22.高屋(井原市)
	23.神辺(福山市)
	24.今津(福山市)
	25.尾道(尾道市)
	26.三原(三原市)
	27.本郷(三原市)
	28.西条(東広島市)
	29.海田市(海田町)
	30.広島(広島市)
	31.廿日市(廿日市市)
	32.玖波(大竹市)
	33.関戸(岩国市)
	34.玖珂(岩国市)
	35.高森(岩国市)
	36.今市(周南市)
	37.呼坂(周南市)
	38.久保市(下松市)
	39.花岡(下松市)
	40.徳山(周南市)
	41.福川(周南市)
	42.富海(防府市)
	43.宮市(防府市)
	44.小郡(山口市)
	45.山中(山口市)
	46.船木(宇部市)
	47.厚狭市(山陽小野田市)
	48.吉田(下関市)
	49.小月(下関市)
	50.長府(下関市)

	下関(下関市) - 終点

	現代において、かつての西国街道やそれに並行する国道・県道等のことを岡山県内や広島県東部では、「西国街道」とは呼ばず、「旧
	山陽道」と呼ぶ。その理由としては、岡山県岡山市〜広島県福山市にかけて国道2号が、かつての西国街道に並行したルートを通らず、
	鴨方往来に並行したルートを辿っているためである。






	<柳原蛭子(えびす)神社>
 
	創建年代は不詳だが、元禄五(1692)年の兵庫津の「寺社改帳」に出てくる。現在は「柳原のえべっさん」という愛称で親しまれ、毎年、
	1月9日〜11日の「十日えびす大祭」は商売繁盛や家内安全、学業成就を祈して、多くの参拝者で賑わうそうである。また、門前には
	明治維新まで高札を掲げる札場があった。籠屋も集まってきたことから、「棒鼻」(かごのかつぎ棒の端)の別称がある。社記によると、
	「往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建された。」となっている。




	その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われていた。往路は、海上20kmを兵庫津和田岬まで渡御し、還幸
	は陸路西宮内町を通って西宮へ還った。その当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在所となっていた。後に現在の柳原の地に遷座し一
	社として創建された。光格天皇の御代には、奉幣御勅使の代参もあったと言う。


しかもその稲荷神社の額には、な、なんと我が倶楽部の「西本」さんの名前が。西本さんもとうとう「正一位」をもらうまでになったか。










	通りを隔てた蛭子神社の向かいには、福海寺がある。足利尊氏が建立したといわれる臨済宗の寺院で、本尊は釈迦如来で、「福原西国第
	23番札所 大黒天」となっている。こっちは「大黒天」(大国主命)である。足利尊氏や義満もたびたび訪れ、足利歴代将軍の厚い崇
	敬を受けた。もとは二本松(JR兵庫駅の西)の地にあったが嘉吉(1441〜3)の乱で焼失し、その後現在の位置に移ったと伝わる。
	兵庫の西の入口・柳原惣門の要所にあって大規模な様子から、兵庫城の守備の役目をしたとも思われる。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 174回例会・神戸・福原京跡を訪ねて