Music: Twilight Zone
同志社周辺遺跡へ向かう 2010.3.28 歴史倶楽部 第152回例会






	京都府の京田辺市(きょうたなべし)は、西で大阪府(枚方市)、奈良県(生駒市)と接している。「京阪奈丘陵」と呼ばれる丘陵地帯
	が市域の西側にあり、東は木津川である。京都・奈良・大阪を結ぶ三角形のほぼ中央に位置し、丘陵の麓には木津川が造りだした肥沃な
	田園地帯が広がっている。このような地理的好条件によって古くから文化が開け、南山城の中心であった。京都・奈良間の交通の要衝で
	もあり、遺跡や文化財も数多く残されている。
	宇治茶の中でも最高級品の玉露は、京田辺市の特産であり、全国的に知られている。タケノコ、田辺なす、一休寺納豆、茶筅なども有名。
	京都市・奈良市・大阪市のベッドタウンとして、次々とマンションが建設され、関西でも人気の地域となっている。
	特に、ここに同志社大学・同志社女子大学が移転してきてからは、アパート、マンションなどが立ち並び、学生街につきものの周辺施設
	も次々に出現し、「大学のまち」として確立しつつある。同志社の構内には、継体天皇の「筒城宮跡」とされる旧蹟があり、すぐ側には
	弥生時代の集落遺跡「田辺天神山遺跡」の竪穴住居や、飯岡の古墳群をはじめ数多くの遺跡が発掘されている。ほかにも、国宝十一面観
	音立像が安置される観音寺や、とんちで有名な一休宗純ゆかりの一休寺(酬恩庵)なども周辺にある。





木津川を渡って山城町から京田辺市へ入る。下右の、左手に見えるこんもりした森が「祝園神社」(ほうぞの神社)。今日はパス。



近鉄下狛駅から近鉄電車に乗って「同志社前」で降りる。











同志社への坂の途中にある、付近案内板。栗本さんがしきりに頭に入れようと。


	同志社大学には素晴らしい資料館がある。日曜は閉館しているので今日は見れない。してみると、以前訪れたのは平日だったのか。そ
	ういえば、スーツに革靴で見に来たような記憶が在るので、果たしてサボッて来たのか、仕事の途中に寄ったのか。いまとなってはも
	う覚えていないが、その成果は「博物館めぐり」のなかにある。












筒城宮跡旧蹟 2010.3.28







	継体天皇に関しての「古事記」の記事はわずかである。武烈記に「天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王(みこ)無かり
	き。故、品太(ほむだの:応神)天皇の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、蓑本杼(をほどの)命を近つ淡海国より上りまさしめて、手
	白髪(たしらがの)命に合わせて、天の下を授け奉りき」とあり、継体記に「品太王の五世の孫、蓑本杼命、伊波礼(いわれ)の玉穂
	宮(たまほのみや)に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめしき」とある。
	前半は、「武烈天皇が死んで世継ぎがなかったので、応神天皇の五世である継体天皇を近江から招いて、手白髪命と結婚させ皇位につ
	かせた」、後半は、「応神天皇の五世である継体天皇は、伊波礼の玉穂宮で天下を治めた」というものだ。これに反して「日本書紀」
	にはその辺りの事情がかなり克明に記述されている。要約すると、

	
	小泊瀬(おはつせの)天皇(武烈天皇)は、若い頃恋に破れてひどい女性不信に陥り、女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。妊
	婦の腹を裂いて胎児を見たり、女を裸にして馬と交尾させたり、そのため一生を独身で過ごすはめになり、当然一子ももうけることが
	なかった。即位から8年で武烈天皇は崩御し、その事で大和朝廷には一大事件が発生する。即ち、世継ぎがいないため王朝断絶の危機
	に陥ったのである。
	重臣達は合議を開き、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)
	にいる足仲彦(たらしなかつひこ:仲哀)天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせようとしたが、
	王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまう。
	そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)大連、許勢男人(こせのおびと)大臣らと協議して、今度は越前の国三国(現福井県
	坂井郡三国町あたり)にいる誉田(ほむだの:応神)天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。

	男大迹王は、応神天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子で、母振媛(ふりひめ)は垂仁天皇の七世の孫であったという。振媛は
	近江の国高島郡三尾の出身である。
	琵琶湖西岸の中央部に位置し安曇川によって開けた平野部が故郷であった。この振媛を迎えて妻にしたのが、越前の国三国の坂中井
	(さかない)の彦主人王である。男大迹王が生まれてすぐに彦主人王は崩かったので、振媛は子を連れて高向(たかむこ)に隠棲する
	事になった。男大迹王は、大伴金村らが皇位継承の要請に来るまでここに住み、既に58歳になっており多くの妃、子達に囲まれて暮
	らしていた。
	ちなみに、越前の国三国の坂中井は、九龍川の下流域に位置し交通の要所であった。「国造本紀」によればここに三国国造が置かれ、
	蘇我氏一族の若長足尼(わかながのすくね)がその任にあたっていた。蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭してく
	る豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。継体天皇出身越前説に少し信憑性が増すと考えられる。

	男大迹王ははじめ皇位継承の要請をなかなか受け入れなかったので、金村らは北河内一帯を基盤とする、王の知人河内馬飼首荒籠(か
	わちのうまかいのおびとあらこ)を説得役に越前へ使わし、ようやく王もこれを聞き入れ、やがて507年2月4日に樟葉宮(くずは
	のみや:現大阪府枚方市楠葉)で即位した。ところが、男大迹王は即位して直ちに大和で政治を行ったかというとそうではない。5年
	間樟葉で過ごした後、都を山背国の筒城(つつき:現京都府京田辺市)に移し、更に6年後には同じく山背国の弟国(乙訓:おとくに
	:現大阪府高槻市から京都府長岡京市にかけてのあたり)に遷都する。更に8年たって、ようやく大和の国磐余(いわれ)の玉穂宮
	(たまほのみや)に入るのである。

	そこは現在の、奈良県桜井市池ノ内付近であろうという説が有力だが、実はこの磐余は皇位継承者には非常に重要な聖地なのである。
	初代神武天皇は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)と名乗っていたし、神功皇后は磐余の若桜宮(わかざくらのみや)を都として
	いる。仁徳天皇の子履中(りちゅう)天皇も磐余の若桜宮に遷都し、雄略天皇の子清寧(せいねい)天皇も磐余の甕栗宮(みかくりの
	みや)を都としている。磐余は歴代の宮居が置かれていたところなのである。
	磐余は桜井市の阿倍丘陵を中心とする一帯、という説が有力だが、一方曾我地方にも神武天皇を祀る磐余神社があり、また磐余田と呼
	ばれる場所があることから、桜井市と特定できないという学者もいる。なお、継体の父彦主人(ひこうし)、母振媛(ふりひめ)の出
	身にも諸説有り、父が近江で母が越前という説もある。

















花とおじさん。昔そんな歌があったっけ。














	継体天皇をめぐる謎は、まとめれば以下のように集約される。

	(1).出自。すなわちこのHPの主題である、継体天皇はどこからきたのか?
	(2).20年の間どうして大和へ入らなかった、あるいは入れなかったのか?
	(3).継体天皇はほんとに新王朝の創始者か?即ち、現皇室の祖先なのか。

	(1).から見ていくことにしよう。現在継体天皇の出自については大きく3つの意見がある。

	@.「古事記」を信用し、近江の国の豪族だったという説。
	A.「書紀」の記述通り越前から招聘されて皇位に付いたとする説。	それから、これは学会では賛同者は少ないが、
	B.新羅から渡来した王族の末裔であるという説。
	
	3番目の説については出典がはっきりしない。何時の頃からこういう説が出現したのだろう。幾つかの「読み物」風歴史本を読むとこ
	の説が紹介されているが、何の本にそう書いてあるのか説明がない。おそらく後世になって、皇族の出自も朝鮮半島であると強調した
	い歴史家によって唱えられた説だろうと思われる。
	勿論、時代を遡って縄文末期、あるいは弥生前期までたどればその可能性は大いにあるが、それは日本人全てにあてはまる。
	また、それまでの天皇家とは全く関係ない豪族が、地方豪族の力を結集し力ずくで王権を奪い、さもそれまでの天皇家の系譜であるか
	のように「記紀」を捏造した、という説も現れたが、これまた出典がない。あいまいな「記紀」の記述から想像はできるが、やはり記
	録されている内容を分析し大筋ではそれに沿うのが学問としては王道だろうと思う。

	さてそうなると、近江か、越前かという事になる。だが、現在の史学会ではこの問いに対する結論は出ていない。歴史学や考古学以外
	の学者もこの問題に取り組んだりしているが、前述した「蘇我氏」との関係を捉えて「越前」としたり、「近江」の安曇川周辺の豪族
	だった息長(おきなが)氏との関係で「近江」を唱えたりと入り乱れている。私の意見としては、堺女子短期大学教授だった塚口義信
	氏が唱えていた考え方に近い。(2).(3).の問いに対する答えも含めて以下に要約する。






	第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に生
	まれ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)
	また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であり、おそらく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思わ
	る。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国への遷都、馬飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測で
	きる。)
	息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神功皇
	后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われるものが
	多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて5代後の舒明
	(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。
	さて、琵琶湖・淀川水系に力を持っていた豪族に支えられ継体は天皇となるが、当然奈良にいたそれまでの王族につながるもの達は面
	白くない。王族とは言え直系でもない「遠い王族」(応神の5世。あるいは5世の子)がいきなり天皇に即位するのである。「それな
	ら俺だってなれる」と考えた者達がいたとしても不思議ではない。むしろ古代にあってはその方が自然である。
	おそらく、王権を巡っての争いが20年間続いたのではないか。危機に瀕するたび、あるいは戦いにおける防衛上の理由で、継体は樟
	葉、筒城、弟国と遷都を繰り返したと考えられる。大和盆地の勢力はそれほどに強かったのであろう。しかしやがてその大和勢力も、
	越前・近江・淀川水系連合軍である継体軍門に降り、継体は即位から20年後に、大和の磐余の玉穂宮へ入るのである。

	継体が仁賢天皇(24代。武烈天皇の父)の娘、手白香(たしらか)皇女(武烈の姉)を妃に迎えるのも、自らは王族の血統から遠いた
	めあえて皇統の血を濃くしようとしたとも考えられるし、あるいは、大和勢は仁賢・武烈の血を引く者こそ正当な王位継承者であると
	いう態度を崩さなかった為、手白香皇女の生んだ欽明天皇(第4皇子)がやっと即位できるような年齢になった頃、やっと大和入りを
	許されたとも解釈できる。
	継体天皇は、我が国で始めて生前に譲位した天皇としても知られているが、第一皇子の安閑(あんかん)天皇に譲位した当日に崩御し
	たとされているのはどうも作為臭い。安閑天皇の次は第2皇子の宣化(せんか)天皇が即位するが、この2人の天皇は即位していない
	という説もある。継体の次はいきなり第29代欽明天皇だというのだ。
	継体を擁立した大伴氏と、欽明天皇を推す蘇我氏の対立がからんで、継体以後の王位継承も混沌としていて霧の中である。

	安閑、宣化天皇は在位期間が4年である。継体天皇も大和入りしてからは4年で崩御するが、大和入りの直後北九州で有名な「磐井の
	反乱」がおきる。この事件の詳細についてはまた別の機会に譲りたいが、この反乱も継体の大和入りに対する反抗と見れなくもない。
	いずれにしても、継体の即位・大和入りを巡っての期間は我が国の王権を巡る大混乱の時期だったのは確かである。

	継体陵は、彼と結びつきの強かった北河内の弟国(乙訓:現大阪府高槻市)にある。


		【袁本杼命】繼體天皇		古事記

		品太王五世孫、袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。
		天皇、三娶尾君等祖、名若比賣、生御子、大郎子。次出雲郎女。【二柱】
		又娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、廣國押建金日命。次建小廣國押楯命。【二柱】
		又娶意祁天皇之御子、手白髮命、【是大后也。】生御子、天國押波流岐廣庭命。【波流岐三字以音。一柱】
		又娶息長眞手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。【一柱】
		又娶坂田大俣王之女、黒比賣、生御子、神前郎女。次田郎女。次馬來田郎女。【三柱】
		又娶茨田連小望之女、關比賣、生御子、茨田大郎女。次白坂活日子郎女。次野郎女、亦名長目比賣。【三柱】
		又娶三尾君加多夫之妹、倭比賣、生御子、大郎女。次丸高王。次耳(上)王。次赤比賣郎女。【四柱】
		又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女。次都夫良郎女。次阿豆王。【三柱】
		此天皇之御子等、并十九王【男七。女十二】此之中天國押波流岐廣庭命者、治天下。
		次廣國押建金日命、治天下。
		次建小廣國押楯命、治天下。
		次佐佐宜王者、拜伊勢神宮也。
		此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。
		天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。


		
		【袁本杼命(おほどのみこと)】繼體天皇

		品太(ほむだ)の王の五世の孫、袁本杼(をほど)の命、伊波禮(いはれ)の玉穗(たまほ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		天皇 三尾の君等の祖、名は若比賣を娶りて生みし御子は、大の郎子。次に出雲の郎女【二柱】。
		また尾張の連(むらじ)等の祖、凡(おほし)の連の妹、目の子の郎女を娶りて、生みし御子は、廣國押建金日(ひろくにおした
		けかなひ)の命。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命【二柱】。
		また意富祁(おほけ)の天皇の御子、手白髮の命【是は大后也】を娶りて生みし御子は、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるき
		ひろにわ)の命【波(は)流(る)岐(き)の三字は音を以ちてす。一柱】。
		また息長(おきなが)の眞手(まて)の王の女、麻組(おくみ)の郎女を娶りて生みし御子は、佐佐宜(ささげ)の郎女【一柱】。
		また坂田の大股(おおまた)の王の女、K比賣を娶りて生みし御子は、~前(かむさき)の郎女。次に茨田(うまらた)の郎女。
		次に馬來田(うまぐた)の郎女【三柱】。
		また茨田の連、小望(おもち)の女(むすめ)、關比賣(せきひめ)を娶りて生みし御子は茨田の大郎女。次に白坂の活日(いく
		ひ)の郎女。次に野の郎女、またの名は長目比賣(ながめひめ)【三柱】。
		また三尾の君、加多夫(かたぶ)の妹、倭比賣(やまとひめ)を娶りて生みし御子は、大郎女。次に丸高(まろたか)の王。次に
		耳(みみ)の王。次に赤比賣の郎女【四柱】。
		また阿倍(あべ)の波延比賣を(はえひめ)娶りて生みし御子は、若屋(わかや)の郎女。次に都夫良(つぶら)の郎女。次に阿
		豆(あづ)の王【三柱】。
		此の天皇の御子等は并せて十九(とおあまりここのはしら)の王【男七はしら。女十二(とおあまりふた)はしら】。

		此の中に天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろにわ)の命は天の下治しめしき。次に廣國押建金日(ひろくにおしたけかな
		ひ)の命、天の下治しめしき。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命、天の下治しめしき。次に佐佐宜(ささげ)の
		王は伊勢の~の宮を拜(おろが)みき。
		此の御世に竺紫(つくし)の君、石井(いわい)、天皇の命(みことのり)に從わずて、多(さわ)に禮(あや)无(な)し。
		故、物部(もののべ)の荒甲(あらかい)の大連(おおむらじ)・大伴(おおとも)の金村(かなむら)の連の二人を遣して、石
		井(いわい)を殺しき。
		天皇の御年は肆拾參歳(よそあまりみとせ)【丁未(ひのとひつじ)の年の四月(うづき)九日(ここのか)に崩(かむざ)りき】。
		御陵(みささぎ)は三嶋(みしま)の藍陵(あいのみささぎ)也。





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