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高麗寺跡
2010.3.28
歴史倶楽部 第152回例会
高麗寺跡(こまでらあと) 所在地 木津川市山城町上狛高麗寺・森ノ前地内 アクセス JR奈良線上狛駅から徒歩20分
田園のなかにたたずむ高麗寺跡は、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、相楽七郷中の大狛郷に属し、
高句麗からの渡来氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられている。高麗寺は、文献資料から天平年中(奈良時代)に存
在したことが「日本霊異記(にほんりょういき)」に記され、その他「今昔物語集」にも説話が収録されている。
伽藍(がらん)は、木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法起寺式の配置となる。塔、金堂、講堂は
整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続し、寺域は一辺が約 200メートルの規
模であったと考えられる。また、平成17年の発掘調査では、塔相輪(そうりん)上部に取り付けられた水煙(すいえん)と呼ばれ
る飾りを心柱に取り付ける円筒形の金具・擦管(さっかん)が見つかった。 見学自由。
上狛の東方、木津川北岸の段丘に面したところにある、飛鳥時代から平安時代まで存続した寺院跡。この地の豪族であった新興勢力
の狛氏が建てた寺だと考えられている
山城町「上狛」に金堂・塔等の土壇・礎石を残し、また字名に「高麗寺」という古代寺院名を残す珍しいケースとされる。日本最古
といわれる飛鳥寺と同じ瓦を出土する。伽藍配置は法起寺式を採り、白鳳期に本格整備され、平安期まで存続したとされる。昭和13
年第T期調査、昭和59-63年第U期調査、平成17年より史跡整備目的の第V期調査(第6次〜)を実施。
塔心礎が残存する。心礎は1.79×1.06mで、径71×15cmの円穴を彫る。心礎南側面に舎利孔を穿つ。舎利孔奥行は底
部で31.2cm、上部で25,5cm、高さは入口で18cm、奥で12,7cm、底部19cmを測り、半円形の横穴式の舎利孔
の形式を採る。塔1辺は12.5mで瓦積基壇が発掘(昭和13年)されたが、現状は地下に埋もれていて見ることは出来ない。
高麗寺跡第6次発掘調査現地説明会資料 より
2005年12月23日
所在地名 京都府相楽郡山城町太字上狛小字高麗寺地内
調査主体 山城町教育委員会(教育長原俊-)
調査契機 史跡整備に伴う発掘調査(平成17年度国庫補助事業)
調査指導 高麗寺跡史跡整備委員会(会長 上原真人)
調査期間 平成17年10月31日~12月28日(予定)
調査面積 約200u
1.遺跡の概要
高麓寺跡は、山城町大学上狛小字高騰寺他に所在する府内最古の古代寺院跡です。創建期には、蘇我馬子が創建した奈良県明日香村
の飛烏寺創建瓦と同じ軒瓦が使用されており、7世紀初頭に造営が開始されました。本格的な伽藍整備は、やはり天智天皇により創
建されたと考えられる奈良県明日香村の川原寺創建瓦と同じ軒瓦が使用されており、大津宮遷都 (667年)前に開始されたものと考え
られます。高麗寺の廃絶についてははっきりとしませんが、長岡京期(8世紀末)での修理を最後として、平安時代末頃 (l2世紀代)ま
でには完全にその命運が尽きたと考えられます。
文献資料では、『日本霊異記』に天平年中のこととして高麗寺僧栄常の記事があり、『今昔物語集』他にも同様の説話が収録されて
います。また、『播磨増位山随願寺集記』(姫路市随願寺蔵)には、中世の縁起ではありますが、天平l5年 (743年)3月、興福寺.薬師
寺・播磨増位寺の僧等が内裏(恭仁宮)で読経した後、増位寺僧栄常が高麗寺から戻らなかったとしている。
なお、高麗寺跡の地は、相楽七郷中の大狛郷に属し、高句麗からの渡来系氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられている。
2.調査の目的と経過
今回の発掘調査は、高麗寺跡(飛鳥時代創鷺国史跡)の史跡整備に伴なう第V期調査の初年度にあたり、昭和59~63年(l984~88年)度に
山城町が実施した寺域の範囲確認調査(第U期調査)から教えて、高麗寺跡の第6次調査となります。なお、昭和l3年(l938年)にも2度
の発掘調査(第I期調査)が行われ、その成果を受けて昭和l5年(l940年)8月30日、回廊に囲まれた主要堂塔を含む伽藍の一部が国の史
跡となりました。その後山城町では、過去の発掘調査や史跡等公有化事業(平成8~13年 (l986~200l年)度)、「史跡高麗寺跡保存活用
計画策定」事業(平成10~l3年(1988~200l年)度)等により、今日まで史跡の保全に努めてきました。
この調査では、ようやく緒についた高麗寺跡の史跡整備を行う上での基礎資料の収集を目的としており、今まで未確認だった中門跡
の検出と塔・金堂跡瓦積基壇の遺存状況の確認を行つています。
3.調査の概要
高麗寺の主要堂塔は、東に塔,西に金堂を並置し、それを囲む回廊が北で講堂,南で中門に接続するぃわゆる法起寺式の伽藍配置とな
っています。この配置は、西に塔東に金堂を置く法隆寺のあり方とちようど逆となります。高麗寺の塔・金堂・講堂建物は、その基
礎として、瓦を積み上げて外装とした瓦積基壇上に築かれています。特に塔、金堂の瓦積基壇の遺存状態は良好で、整然と重ねられ
た瓦積の美しさは、まさに奇跡としか言いようがありません。今回の調査では、塔跡の南西角から金堂跡南辺の基壇とその周囲を巡
る石敷の調査を実施しました。金堂跡では、基壇南面中央に取り付く階段の痕跡(石積階段の裏込め)を確認しており、金堂基壇の東
西規模をほぽ確定することができました。中門についでは、町道高麗寺線の南側で、建物倒壊時に基壇周辺に形成された瓦落や南辺
回廊を潜る石敷暗渠を確認しており、剛まその位置を特定することができました。
今回の調査では、中門及び南辺回廊の位置を圓ま特定できたことにより、北辺回廊基壇外側から南迪回廊基壇外側までの規模洲覇100
尺(0.297m/凡庸尺)で設計されていることがわかりました。このことは、すでに判明している回廊の東西規模l01尺とあわせ、整然と
計画された高麗寺の伽藍設計を知ることとなつたのです。
4.調査の内容
塔跡
塔跡の調査(602Υr)では、基壇南西角付近の様相を確認しました。同所に関しては昭和13年に_部調査が行われており、第U期調
査(昭和62年)とあわせて、瓦積基壇の平面規模_辺約l2.7cm(43尺)の正方形であることが判明しています。周囲には約1.65m(5.5尺)
幅の石敷がめぐり、瓦積内部 ・・石積を内包しています。瓦積は平瓦の平積を基本とするが、遺存する瓦積上部・重弧文軒平瓦の
瓦当部を正面にしている箇所が見られます。石積に関しては不明瞭です。石敷は、白鳳期の敷設当初には大振りの川原石が使用され、
平安時代初頭旧まその上に小振りのバラスをしいて5cm程度の嵩上げを行っていました。遺存状況は良好です。なお、今回の調査地
石敷上からは塔相輪の一部が出土しています。
金堂跡
金堂跡の調査(602Tr)では、基壇南辺の様相を確認しました。同所に関してはやはり昭和13年に一部調査が行われており、第U期調
査(昭和60年)とあわせて瓦積基壇の平面規模南北約13.4m(45尺),東西16.0m(54尺推定)であることを確認してぃます。右敷は塔跡同
様約1.65m (5.5尺)幅で、残りは良くありません。今回の調査では、想定基壇南北中軸線上南辺で階段裏込めを検出しており、基壇
規模想定の裏付けとなりました。 なお、検出した石敷およぴ階段裏込めは、塔跡石敷でのバラス敷設時期に対応しており、石敷の
改修および階段の設置が平安時代初頭になされたようです。金堂基壇西側は昭和 10年の土取りで大きく削り取られており、消滅し
ています。調査地での瓦積の状況は、昭和13年当時の状況と比較すると大ぎく外側に傾斜しており、石敷の破損も著しく、今後の
整備に多くの問題を残します。
中門.南辺回廊跡
中門.南辺回廊跡の調査(601・603・604Tr)では、中門・南辺回廊基壇を構築するための基盤とその周囲に形成された瓦溜りを検出し
ました。なお、町道高麗寺線南側での調査は、第U期調査(昭和6l年)でも実施しており、寺城南辺を画す築地跡を確認しています。
今回の調査は、当時建物等の存在により調査不能であつた箇所で実施しました。中門・南辺回廊基壇を構築するための基盤は、段丘
縁辺部を嵩上げして造成することによつて平坦地を確保しているようで、塔・金堂跡基壇と同様の東西方位をもってなされていまし
た。したがつて、中門・南辺回廊の基盤から南側は、回廊内側の基盤より一段低くなつており、今回の調査では未検出ですが、南門
から中門へは階段等の施設によつて連結するものと考えられます。中門の東側では、南辺回廊との接続部で南北方向の2条の小石数
列を検出しました。これは、回廊内側の雨水を南辺回廊外側に排水するための暗渠と考えられ、回廊外で傾斜をもって開渠となる構
造です。この傾斜変換点において南辺回廊基壇が接続することが予想され、その位置をほぼ確定することができました。北辺回廊基
壇外側から南辺回廊基壇外側までの規模が剛まl00尺で設計されていることがわかるのです。
5.まとめ
高麗寺の伽藍計画と日本―美しい瓦積基壇
今回の調査では、中門及ぴ南辺回廊の位置をほば特定できたことから、整然と計画された高麗寺の伽藍設計を知ることができました。
そして、塔・金堂の瓦積基壇の美しさは、改めて高麗寺の重要性を再確認する結果となったのです。今後の史跡整備に関しては、主
要堂塔の確認はあと南門を残すのみとなりました。次年度の調査をご期待ください。 '
奈良や京都のお守に建つ木造の三重や五重の塔の頂部に串団子状の金属棒が立っていますが、この部分を相輪と言い棒状の芯にあた
る部分を擦管と呼ぴます。今回の高麗寺塔跡の調査では、この擦管の一部が出土しました。これは相輸の上部に取り付けられた水煙
と呼ばれる飾り付近の破片で、表面に金色の鍍金(金メッキ)が施された銅製品です。当然、現在のような電気分解の技術などない古
代にあっては、鍍金は極めて高度な技術なのです。
発掘調査により出土した銅製の相輪については、現在まで、陸奥国分寺跡(宮城県仙台市)や正道廃寺(京都府城陽市),九頭神廃寺(大
阪府枚方市)i摂津伊丹廃寺(兵庫県伊丹市),播磨国分寺跡(兵庫県姫路市)j立光寺跡(徳島県美馬町)などで確認されていますが、今回
の高麗寺跡出土例のように鍍金が鮮や洲こ残っているものはありません。
極めて良好な遺存例と言えましよう。改めて高麗寺造営にかかる技術カの高さを知ることができました。
前回の例会時にこの発掘調査をやっていた。
京都・高麗寺跡から文字瓦 国の管理を裏付け 2009.11.17 19:39 sankei-web
高麗寺の廃絶時期を示す椀や鉢など土器が見つかったV字溝=京都府木津川市
7世紀初頭の飛鳥時代に渡来系氏族が創建した氏寺とされる高麗寺(こまでら)跡(京都府木津川市)で、「太万呂」「乙万呂」と
制作者の名前が刻まれた文字瓦が見つかり、同市教育委員会が17日、発表した。
恭仁宮(くにのみや)式文字瓦と呼ばれ、略字を交えて刻印。同じ名前が刻まれた瓦は恭仁宮跡と平城宮跡でも見つかっている。
制作者を特定することで品質管理していたとみられ、市教委の中島正社会教育課長補佐は「当時、瓦は国が管理していた。高麗寺が
国営の寺院に極めて近い重要な寺だったことを裏付ける史料」と話している
このほか播磨(現兵庫県南西部)で制作した唐草模様の瓦も出土。同県加古川市の古大内(ふるおうち)遺跡で見つかったものと同
じ作り方という。
2007年11月24日「高麗寺跡第6次発掘調査現地説明会資料」(木津川市教育委員会)を見るには以下をクリックして下さい。
表紙 1−2頁 3頁 4頁 5頁
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