Music: ああ、新撰組

歴史倶楽部第139回例会 2009.1.25 壬生寺から京都守護職屋敷跡へ





	■壬生寺
	壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧
	快賢である。中世に寺を再興した円覚上人による融通念仏の「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺とし
	ても知られる。壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院という。






	江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に
	置かれた。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。壬生塚には、芹沢鴨ら新選組隊士
	の墓もある。4月と10月に、念仏の教えを説くユーモラスな無言劇「壬生狂言」が開催される。
	当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7
	月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものであ
	る。




	江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置
	かれた。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外
	にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。





私はこの歌の存在そのものを知らなかったが、演歌好きの錦織さんは歌詞を見ながら口ずさんでいた。









近藤勇像の脇にある顕彰碑の裏に、有名な「局中法度」(きょくちゅうはっと)が刻んである(下)。




	子母澤寛の「新選組始末記」(昭和3年刊行)では、

	   一、士道に背きまじきこと。
	   一、局を脱するを許さず
	   一、かってに金策いたすべからず
	   一、かってに訴訟を取り扱うべからず
	   一、私の闘争を許さず

	   右の条々に背候者は切腹申付べく候也

	という内容の隊規を「局中法度書」として、新撰組結成当初から定めたとなっているが、これはどうやら子母澤寛の創作のようである。
	これまでの資料では、「局中法度書」という語や、明確に「新撰組隊規」と明記されたようなものは発見されていない。ただ、後に二番
	組長であった永倉新八が、明治になって著した回顧録「新選組顛末記」によれば、

		一、士道にそむくこと 
		二、局を脱すること 
		三、かってに金策すること 
		四、かってに訴訟をとりあつかうこと

	を禁じた「禁令」というものが存在していたようである。子母澤寛は、それを元に「局中法度書」という語を創作したのだろうというの
	が定説である。しかし、「脱走者は発見しだい、隊士により討ち果たす」という禁令もあったようで、実際、詰め腹を斬らされた隊員達
	も大勢いるので、このような禁令を出さねばならぬほど、組内には不心得者や脱走者があいついでいたに違いない。

晩年の永倉新八






	上左:
	奥沢栄助らの墓。奥沢栄助は池田屋で即死し、重傷を負った安藤早太郎は池田屋襲撃(6月5日)から一月半経った7月22日に死亡し、
	新田革左右衛門もその前後に死亡している。三人とも、池田屋襲撃では三班に分かれた近藤勇組に属し、この三人は池田屋の裏口を固め
	ていた。この裏口の先に長州藩邸があり、ここへ逃げ込めば治外法権で新撰組は手が出せないため、襲撃直後、長州邸へ逃げ込もうとす
	る十数人の浪士達にめった斬りにされたのである。駆けつけた近藤勇は三人に替わって裏口を守るが、多くの浪士はもう長州藩邸へ逃げ
	込んだ後だった。

	上右;
	河合耆三郎(1838-1866)の墓。河合は新撰組結成当時の勘定方(経理)だったが、ある時組の勘定が合わなかった。とがめられた河合
	は、不足分を商家であった実家に無心するが間に合わず、公金着服のかどで処分された。結成間もなく、烏合の衆であった新撰組隊士達
	を律するためにことさら厳しく罰したのだが、脱走や狼藉を繰り返していた隊士達に対する「見せしめ」の犠牲者だった。前述の「禁令」
	もこの頃に定められたとおもわれる。




	芹沢鴨と平山五郎の墓。碑文に刻まれる「9月18日」は葬儀の行われた日である。殺害犯人は長州人として処理されたが、勿論近藤勇
	の差し金によるもので、土方歳三と沖田総司が芹沢を刺した。



上の石碑は近藤勇の遺髪を収めた「髪塚」。

















壬生寺から5,6分の所に新徳寺がある。




	将軍上洛をひかえた徳川幕府は、文久二年(1862)十二月、ある提案を受けて江戸で浪士隊隊員を募集する。京都で幕府に不満を持つ
	浪人達が「天誅」と称して幕府役人を暗殺していたことに対し、浪人には浪人で立ち向かわせようとしたのである。これに応募したの
	が、江戸で無為に日日を過ごしていた旗本御家人の次男三男坊たちや、ひたすら侍になることを夢見て剣術に励んでいた近藤勇、土方
	歳三たちだった。29才まで定職にもつかずぶらぶらと剣術にばかり励んでいた土方などは、日野の佐藤道場の仲間である小島鹿之助
	に宛てた年賀状の中で、この募集を「お年玉」と喜んでいる。




	■新徳禅寺
	江戸を発った浪士隊234人は京都に到着し、壬生村の新徳寺に身をよせた。壬生に到着した夜、浪士隊のリーダー格だった清河八郎
	は浪士全員を本堂に集め、突然「尊皇攘夷の先鋒たらん」と檄を飛ばしたのである。つまり幕府ではなく朝廷に仕えようというのであ
	る。将軍警護ということで参加した浪士達は、あ然とする。侍になるのが夢だった近藤グループなどは当然面白くないが、浪士の大半
	は清河に同意し、翌日、朝廷から「攘夷決行」のお墨付きを貰うのに成功した清河は、大半の浪士を率いて江戸へ去った。壬生村に残
	ったのは近藤ら試衛館組と水戸派のわずか13人であった。残留組は会津藩主で京都守護職であった松平容保に身分保障を求めた。こ
	れが「新撰組」の結成へつながる。京都残留組には、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、近藤勇、山南敬助、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら
	がいる。現在、新徳寺は一般公開されていない。










	■新選組屯所跡八木邸
	芹沢鴨、近藤勇らが初めに屯所としたところ。屋敷内には芹沢鴨らが暗殺された部屋があり、その時の刀痕が鴨居と柱に生々しく残る。






	■壬生浪士
	筆頭局長:芹沢鴨(1827年 - 1863年) 局長:近藤勇(1834年 - 1868年) 局長:新見錦(1836年 - 1863年) 
	副長:山南敬助(1833年 - 1865年) 副長:土方歳三(1835年 - 1869年)
	<新選組>
	局長:近藤勇(1834年 - 1868年) 副長:土方歳三(1835年 - 1869年) 総長:山南敬助(1833年 - 1865年) 
	参謀:伊東甲子太郎(1835年 - 1867年)
	隊長
	1番隊:沖田総司(1842年 - 1868年) 2番隊:永倉新八(1839 - 1915年) 3番隊:斎藤一(1844年 - 1915年) 
	4番隊:松原忠司(1835年? - 1865年) 5番隊:武田観柳斎(1830年 - 1867年) 6番隊:井上源三郎(1829年 - 1868年) 
	7番隊:谷三十郎(? - 1866年) 8番隊:藤堂平助(1844年 - 1867年) 9番隊:鈴木三樹三郎(1837年 - 1919年) 
	10番隊:原田左之助(1840年 - 1868年)









平成の新撰組隊員たち。ん? 新鮮組? いやもうすっかり糖がたって、さながら「陳腐組」? 
毛沢東ではないけれど、「人は大きな事をするには、若くて貧しくて無名でなければならない」








	■新選組屯所跡前川邸 
	八木邸とともに初めの屯所となったところ、浪士密会の池田屋を古高俊太郎拷問により問い質したところとして有名。古高拷問の蔵、
	野口健司、山南敬介の斬首のあった中庭、隊士が切り付けた刀痕が残る出窓などがある。今も重厚な長屋門があり当時を彷彿とさせ
	るが、民間の所有のため内部の一般公開はしていない。玄関を入ったところに「新撰組ショップ」がある。














	浪士隊を引き連れて江戸からやってきた清河八郎(きよかわ はちろう)という人物はまことに得体がしれない。もともとは出羽国
	庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の子である。

	「虎尾の会」を結成し、横浜の外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この計画が幕府の知
	るところとなり、人も斬り捨てたため幕府に追われる立場となっていた。京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり、尊攘倒幕
	の内約をとりつけたりしている。その後、幕府政事総裁であった松平春嶽に急務三策、「1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下
	の英材の教育」を進言する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し浪士組が結成された(前述234名)。幕府に追われて
	いた人物が幕府のために施策を上申したのである。

	文久3年(1863)2月23日、将軍徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着
	した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。これに反対したのが、近
	藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取り
	まとめを依頼し、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇らが残留し八郎と袂を分かつ。彼らは壬生浪士(壬生浪)となり、後に新選組へと発展
	してゆく。二百名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。このような浪士組の動静に不安を
	抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため
	狙われていた。文久3年4月13日、幕府の刺客、会津藩士佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれ首を切
	られた。享年34歳。『女士道』によると首は石坂周造がとりもどし、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し遺族に渡したという。
	八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。





新撰組の頃の嵐山「渡月橋」。なんとまぁ、たった百年で。













光縁寺へ歩く途中にあった地元の酒屋さん。「近藤勇ビール」「土方歳三ビール」。買っとけばよかった。




	■光縁寺
	同寺の本堂裏手の墓地には、山南敬介、河合耆三郎、大石造酒蔵らの墓があり、野口健司、谷三十郎、藤堂平助、伊東甲子太郎ら25
	人の隊士が過去帳に記されている。いずれも隊規に背いたかどで命を落とした隊士達である。これらの隊士をねんごろに弔ったのが、
	当時の住職・良譽上人であった。山門を入り受付で志納金百円を納めると、住職の説明が聞け、案内書がもらえる。寺の向かいには、
	新選組の馬小屋があったという。









上左が新選組馬小屋跡。今も馬小屋のような。ここから大宮通へ出て、六角獄舎跡、二条陣屋、二条城をめざす。




	新撰組の時代は終わった。結成から土方歳三が五稜郭で戦死するまで僅か5年ほどの年月だ。あまりにも短い若者達の時代。明治維
	新も新撰組も第一次大戦も第二次大戦も、死んでゆくのはみんな若者である。換言すれば、若者にしか時代は変えられないのだ。



永倉新八と齋藤一は明治・大正期を生き抜いて、同年死去する。齋藤は病死したが永倉は天寿を全うし、新撰組に関する記録を残した。



土方は榎本武揚に合流して函館へ渡るが、五稜郭で銃弾にて戦死。だが遺骸は最後まで出てこなかった。







六角獄舎跡はわかりにくい。この稲荷神社を探すと、その前のマンションの敷地内に顕彰碑がある。




	■六角獄舎跡碑
	平安時代の獄舎(左獄)に遡る。幕末には多くの政治犯を収容。禁門の変では平野国臣、古高俊太郎ら33名の尊攘派志士が処刑された。
	また山脇東洋により日本で初めて刑死者を解剖したところとして「近代医学発祥之地」の碑がある。この解剖は杉田玄白(解体新書)
	に先立つこと17年前のことである。京都市中京区六角通後院東入る















大宮通りの小路を北へ歩くと、「二條陣屋」がある。西本さんは昔、
伯母さんの家がこのあたりにあって、小さい頃良くこのあたりで遊んだそうだ。









二條陣屋の通りのドン突きに、もう二条城が見えている。まっすぐ行くとお堀に突き当たる。












	■二条城
	徳川幕府の京都での一大拠点。平成15年は築城400年を迎える。家康が京都での別館として造営され、265年後慶喜により大政奉還が
	なされた歴史転換の舞台。新選組は将軍警護のため二条城に詰めようとするが、将軍慶喜はすでに大阪へ落ち延び、新選組の面々は
	地団駄踏んで口惜しがったという。

	・入場時間:8時45分〜16時(閉城17時z) ・休城日:12月26日〜1月1日
	・料金:一般600円、中・高生350円、小学生200円 TEL.075-841-0096 

























天守閣台跡。二条城にも天守閣があったんか。



天守台から仰ぎ見る比叡の山々。









二条城から京都府庁まではすぐである。ものの30分も歩かない。途中、奉行所跡や、
京都所司代跡・福井藩邸跡を探したが見つからなかったので、京都守護職屋敷を目指した。


	府庁の門は閉まっていた。金網越しに「京都守護職屋敷跡」という石柱が見えたので、通用口へ廻って見せて貰うことにした。
							

	■京都守護職屋敷跡碑
	文久2年(1862年)、京都の治安維持のため設置され、28歳の会津藩主松平容保が就任。京都見廻組・新選組を指揮し、幕末京都の
	混乱に対処したが、慶応3年(1867年)に廃止され、京都裁判所を経て京都府庁となった。






疲れたと言って、途中の府庁の石段でタバコ休憩している橋本さん。



■京都府庁にて解散 の予定だったが、反省会に三条まで行こうというので歩き出した途中にも幾つか遺跡があった。









上右は京都御苑。平安女学院の側にある。その前には菅原道真が生まれた菅家の跡が天神様になっている。









上右は、菅原道真が産湯を使った井戸である。




	私は特別、新撰組が好きなわけではない。別に嫌いでもないが、幕末史は好きである。時代が変わろうとしているときに生きていた
	人々には大いに興味がある。激動の流れの中にあって、人が人らしく生きていくのは至難の業であるが、新撰組は愚直なまでに江戸
	幕府に忠実である。今日の観点から見れば、勤王の志士も新撰組も、いずれが真のテロリストなのか判然としない面がある。体制を
	守ろうとする側に抵抗するのがテロリストであるならば、幕末期におけるテロリストは明らかに勤王の志士たちであるし、新時代に
	抵抗するのがそれならば、新撰組はテロリストである。
	しかし、いずれも20代、30代の若者達が、剣に命を賭けて斬り合った時代はもう終わりにして貰いたいものであるが、剣を銃に
	持ち替えて、世界中の若者たちが今も、異国の地で命を落としている。ソマリヤやイラクを見ていると、未来永劫、人類は歴史から
	学ぶことはないのかもしれないという暗鬱たる気分になる。

	我々が(あるいは私が)、例会や歴史の旅でこれまでに訪れた、幕末関係の旧蹟や遺跡訪問のレポートには以下のようなものがある。
	興味がある人は是非ご覧いただきたい。









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