Music: ああ、新撰組

歴史倶楽部第139回例会 2009.1.25 島原遊郭を歩く




太鼓楼の北側の道を真っ直ぐ西へ歩くと約20分くらいで島原へ来る。入口に島原大門がある。








	■島原大門 
	江戸時代に隆盛を極めた花街島原遊里の入り口であり、また出口でもある。かつて島原には50ほどの置屋と約20軒の揚屋が
	あった。大門には火災時の用水桶が積まれ、昔の島原の様子を留めている。現在の大門は慶応3)(1867)年に再建されたもの。
	かつての門は火事で消失してしまった。新選組隊士や勤皇の志士たちも、ここを通って悪所がよいをしたのだ。

	嶋原	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	嶋原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街。正式名称は西新屋敷で6つの町(上ノ町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之
	町、揚屋町)で構成されている。
	嶋原の歴史は古く、日本で最初の公許された花街である。室町時代に「九条の里」という傾城局が設置されたのが始まりだとい
	われる。桃山時代に豊臣秀吉によって花街が二条万里小路に移されたという(「二条柳町」)。江戸時代になると六条付近にう
	つされて「六条三筋町」と称され、吉野太夫等の名妓が輩出した。あるトラブルで朱雀野付近に強制移住させられた。このこと
	が島原の乱に似ていたため以後「嶋原」と呼ばれるようになったという説と、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれた
	という説がある。周りは堀に囲まれ、「廓」と呼ばれるようになった。最盛期は元禄期で、その後は幾度かの盛衰を繰り返した
	ものの、あまり栄えなかった。これは立地条件が悪かったことと格式の高さが原因と思われる。大半の人々は祇園町、祇園新地、
	上七軒等の花街を利用していたようである。嶋原の大門は2箇所存在し、廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外
	へ出ることができ、一般人の出入りも老若男女問わず自由。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせ
	た例があり、世間一般に誤解されがちな「遊廓」とは異なる存在であることがわかる。



	
	幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新撰組らが出入りしていた。明治以後は公家、武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれ
	るものの「太夫道中」などの行事で支えていたが、昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散し
	て普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しや車との接触事故などで姿を消し、現在は「大門」、「輪
	違屋」、「角屋」がわずかにその面影をとどめているだけである。



	
	嶋原は世間では遊廓と語られがちだが実際は遊廓ではない。開放的で歌舞練場があり、和歌俳諧等の文芸活動が盛んであるなど、
	文化レベルの高い花街であることがわかる。日本で唯一残る揚屋建築である『角屋』は嶋原が高度な花街である証を見せている。
	嶋原に彩りを添える主役が太夫である。太夫は置屋に所属し、揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。
	太夫は従五位の位を持つほどの格式があり、教養に長けた芸妓の最高の地位である。例えば、舞踊なら名取、師範になれるくら
	いである。八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓を輩出している。かつての嶋原では毎年10月に吉
	野太夫・大橋太夫・八千代太夫の追善供養を行ったらしい。
	嶋原の太夫は、現代も「輪違屋」のお座敷のつとめを中心に、数々の行事やイベントに参加している(おもに京都)。祇園の舞
	妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付ける。引眉しないので半元服の習慣が現代に残る
	ものと見てよい。また公家文化の影響とも考えられる。原則として鬘を被らず、自毛で「男元禄(立兵庫)」、「長船」、「勝
	山」(東京でいうところの「吹輪」とほぼ同形)等の各種の日本髪(髪型の種類がかなり多い)を結う。帯は前で5角形に結ぶ
	が、これは「心」の字を表すとされる。



	
	歴史的には能楽や女歌舞伎の舞台で秀でた女性に「太夫」(舞太夫、能太夫)の称号が与えられたことから、嶋原の太夫は舞踊
	を習得していることが必須である。嶋原の舞踊の流派は、当初篠塚流、その後一時井上流になったが、後に花柳流に変わった。
	現在は特定の流派はない。茶道もおもてなしの技術として必須とされるが、特定の流派はない。その他、和楽器、唄、書道、香
	道、華道、詩歌、御所風の遊びに通じていることも必要とされる。話術も比較的重視されている。

	嶋原の太夫は高水準の芸が売り物であり体を売らなかったので芸妓であって遊女ではない、とされる。また、太夫の通称は「こ
	ったい」であって「おいらん」ではない。








	■置屋「輪違屋」 (わちがいや)
	島原大門をくぐって右手に、太夫たちを置いた「輪違屋」がある。ここも新選組隊士等の気晴らしの場であったが、現在は拝観
	謝絶の看板が出ている。輪違屋は、元禄元年(1688)に創業された店で、300年以上の歴史を誇る。この建物は、1857年に再
	建されたもので、1871年に改築され、現在の姿になった。当時の構造を良く残した貴重な建物であると認められ、昭和59年に
	京都市の文化財に指定された。
	輪違屋は、揚屋と置屋を兼ね備えた現役の店で、現在、日本で唯一「太夫」が居る所である。太夫は「こったい」とも呼ばれ、
	正五位の位を持ち十万石の大名に匹敵するとされるほど格が高く、また教養も深かったことから、客の方が太夫の機嫌をとった
	と言う。輪違屋の遊女は新選組隊士と関わりが深く、山南敬助と明里、平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫が馴染みの仲
	だった。輪違屋は今もなお営業中の店であるため、非公開である。ただし、客として訪れる事はできる。豪快な建物の往時を偲
	ぶことができる。



「面会謝絶」と書いてあるのに、尚も中を覗こうとしている高野さん。説明板はもうかすれて読めない。



	輪違屋から角屋を目指して歩いていく2.3分の間に「誠の湯」というお風呂屋さんがあった。「誠の湯やて!」「まことかいな?」
	「なんじゃそれ」「ここで昼飯にはちょっと早いな」「湯に入ったらもう歩けまへんで」「そやね」などと、ワイワイガヤガヤ。



	■揚屋「角屋」 
	隊規を乱していた芹沢鴨が最後に飲んだのがこの「角屋」で、泥酔して壬生の八木源之丞邸に帰った芹沢は、近藤らに粛清され
	た。角屋の建物は揚屋建築唯一の遺構として国重文に指定されている。また与謝蕪村の「紅白梅図」も重文指定である。現在は
	「角屋もてなしの文化美術館」として建物と所蔵美術品が展示公開されているが、この日は改装中とかで閉館だった。なんか、
	最近我々の例会はそういうのが多いなぁ。

	・開館時間:10時〜16時 
	・休館日:月曜日(祝日の場合翌日)、7/19〜9/14、12/16〜3/14
	・料金:(1階のみ)一般・大学生1000円、中・高生800円、小学生500円 ※2階見学は別料金・要予約 TEL.075-351-0024



通りすがりのお姉ちゃんが、自転車を止めて説明板に見入っていた。

	久坂玄瑞		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	久坂玄瑞(くさかげんずい、天保11年(1840年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、日本の武士・長州藩士。幼名は
	秀三郎、名は通武、通称は誠、義助。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊皇攘夷派の中心人物。贈正四位。

	長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として生まれる。藩校明倫館に入って医学および洋書を学
	んだのち、安政3年(1856年)、17歳で九州に遊学。宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰の名を耳にする。帰藩後、松下村塾に学び、
	高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であると認め、高杉晋作と争わせて才能を開花
	させるようつとめた。松陰は、久坂を自分の妹文と結婚させている。
	安政5年(1858年)、京都・江戸に遊学し、安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
	長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提
	出。藩論の転換に尽力した。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉ら
	と御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
	その後、水戸、信州を経て京都に入り、文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛
	として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して帰藩し、下関にて光明寺党を結成。
	首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃事件に加わった。この頃、義助と改名する。また再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画
	などを画策した。
	同年の八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を
	図った。しかし、翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件の悲報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰したため、来島
	又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変または蛤御門の変)、負傷して寺島
	忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25(寺島と刺し違えたとも言われる)。下右の写真が久坂玄瑞。





同じく真木和泉も、蛤御門の変に敗れて天王山まで逃げ、そこで自刃した。








	芹沢鴨の暗殺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	文久3年9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊する
	と主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる乱暴を行っている(「浪士文久報国記事」)。
	13日、近藤らは芹沢派の新見錦(この時は副長に降格)に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた(「浪士文久報国記事」)。
	14日、吉田屋での事件が問題となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は近藤、土方、山南らに芹沢の処置を密
	命する。乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学を学び、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もあ
	る。
	16日、(「川瀬家文書」〜『新選組水戸派読本掲載』による。『新選組遺聞』などでは18日)新選組は島原の角屋で芸妓総揚げ
	の宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。
	その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢
	たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。
	大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚
	いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこ
	を刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去った。
	平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も
	難を逃れ姿を消したという。
	『新選組遺聞』(子母沢寛:中央公論社) では、八木源之丞の妻まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを
	目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の「浪士文久報
	国記事」によると暗殺は土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の
	寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方、沖田、山南、原田になっている。
	事件は長州藩の仕業とされ、18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。事件の一
	連の経緯を20日に近藤は郷里多摩の佐藤彦五郎に手紙を送っている。芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。

	芹沢鴨の暗殺日については墓碑に倣い18日が通説となっていた。しかし明治期に発行された「七年史」や「川瀬家文書」等16日
	を暗殺日とする史料もあり、現時点においても暗殺日は確定していない。













	
	鴻臚館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	この項目では平安京・難波・筑紫の3箇所にあった平安時代に設置された外交施設の鴻臚館について記述しています。同館に由来
	する伊丹市の公館については鴻臚館 (伊丹市)をご覧ください。鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交
	易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。
	その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大き
	な鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声
	を意味していた。

	<筑紫の鴻臚館>
 
	鴻臚館の遺構筑紫の鴻臚館は現在の福岡県福岡市中央区城内にあった。福岡城敷地内に位置する。遺構が見つかっている唯一の鴻
	臚館である。筑紫(現在の福岡県西部)の外交施設の原型は魏志倭人伝の時代に遡るとされる。糸島半島にあった伊都国には「郡
	使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし施設名や場所についての記録は残っていない。
	<筑紫館>
	磐井の乱(527年 - 528年)の後、宣化元年( 536年)に那津のほとりに宮家(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、九州支配と
	外交の役目を果たす。推古17年( 609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江
	の戦いの翌年( 664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海
	外交流および国防の拠点施設が残された。
	この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず
	鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの
	側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全
	霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。
	天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃
	寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・貿易などに用いられた。
	<大宰鴻臚館>
	鴻臚の名は入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述に初めて登場する。承和5年(838年)には第19回
	遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年(842年)の太政官符にも鴻臚館の名が
	記載されており、嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。
	天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。
	貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。この傾向は菅原道真により寛平6年(894年)
	に遣唐使が廃止されたのちに強まった。
	当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。そして朝廷から唐物使
	(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ
	た。残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事
	は鴻臚館側が供出した。その後延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営
	に移行していることが窺える。そして延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。

	貞観11年(869年)の新羅の入寇の後、警固所として鴻臚中島館を建設し大宰府の兵や武具を移した。また1019年の刀伊の入寇の
	後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
	やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有
	力貴族による私貿易が盛んになって現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易
	は衰退。永承2年(1047年)には放火される。寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消
	えることとなる。
	<建設位置と発掘調査>
	鴻臚館跡展示館江戸時代に福岡藩の学者青柳種信・長野種正・伊藤常足らが鴻臚館の位置を博多部の官内町だと唱え、この説は大
	正時代まで広く信じられていた。しかし九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が万葉集の記述などを検討し福岡城址説を提唱、
	1926年から1927年の「考古学雑誌」に論文を発表した。福岡城址に駐屯する陸軍歩兵第24連隊にいた鏡山猛が弾薬庫の歩哨のかた
	わら鴻臚館の瓦を捜索したことが傍証となった。2人はのちの1930年に九州考古学会を立ち上げている。
	戦後の1949年、福岡城址に平和台野球場が建設される。1957年に改造工事が行われた際に3000点の陶片が出土、うち一部が中国越
	州窯のものと同定される。1987年の球場外野席改修工事では遺構が発見。球団が本拠地を1993年に福岡ドームに移転した後、球場
	は歴史公園整備の本格着手に伴って1997年に閉鎖。1999年から本格的な発掘調査が行われ、現在も発掘調査が進められている。
	2004年5月には国の史跡に指定される。
	発掘調査によって木簡や瓦類が出土。他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペ
	ルシアガラスが出土している。また建造物の第1期から第5期に区分される時代的変遷が判明。ただし、9世紀後半からの第4期と10
	世紀後半〜11世紀前半の第5期の遺構は福岡城建築によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や
	猪を常食する外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。
	発掘調査が終了した南側遺構には1995年に鴻臚館跡展示館が建てられ、現物展示がなされている。


	<難波の鴻臚館>

	難波の鴻臚館は難波津(渡辺津)にあったとされ、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは
	中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられる。
	古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体
	6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。これが外国使節を宿
	泊させる客館の初見である。
	欽明22年(561年)には難波大郡(なにわのおおごおり)にて百済と新羅の使者を接待する。そののち推古16年(608年)4月に隋
	煬帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日
	本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている。斉明6年(660年)5月8日には高句麗使の賀取文が難波館に到着した。
	鴻臚館という名称が難波館に用いられた年代は定かではないが、そののち承和11年(844年)に難波の鴻臚館が摂津国国府の政庁
	に転用され廃止されたとの記録が残っている。


	<平安京の鴻臚館>
 
	東鴻臚館址の石碑平安京の遷都が延暦13年(794年)であり、平安京の鴻臚館は3つのうちで最も遅くに設立された客館となる。
	当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 - 824年)に朱雀大路を跨いだ
	七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。天長10年(833年)の
	『令義解』にある鴻臚館は平安京の鴻臚館を指している。
	平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町)や松原客院(福
	井県敦賀市)を経由して都に上る。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交
	易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。東鴻臚館は承和6年(839年)に典薬寮所管の御薬
	園へと改められた。さらに渤海国が遼によって滅亡(926年)したのち施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には延喜20年
	(920年)の頃に廃止されたともされる。
	『源氏物語』第1帖『桐壺』には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代には与
	謝蕪村が「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。今では大正4年(1915年)に建てられた東鴻臚館址の碑が下京区西新屋敷揚屋
	町に残るのみである。



かってはこの神社も、多くの芸妓や庶民達で賑わったのだろう。或いは新撰組の誰かもここで拝んだかもしれない。







上左は何かの由来を記したものだが、もうかすれて読めない。上右は、何かの土台か灯籠かでモメた石柱。



住吉神社の側に、「島原西門」の碑があった。ここに、下右のような門が立っていたのである。







壬生寺近くには「新撰組」グッズだけを売っているお店があった。





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