Music: ああ、新撰組

歴史倶楽部 第139回例会 参考資料




	新選組	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代後期の幕末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧・警察活動に従事したのち、
	旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織である。新撰組と表記された資料も多い。局長の近藤勇自身、「選」「撰」
	の両方の字を用いている。


	<概要>

	幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保の支配下にあった京都の治安部隊。隊員数、約60名。京都の治安部隊としては、他に
	旗本、御家人で構成された京都見廻組があり、浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される新撰組は会津藩預かりという非正
	規部隊であった(後年、近藤ら幹部は幕臣となった)。
	新選組はいわば“佐幕派の人斬り集団”であり、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締ま
	りにあたった(本当は捕縛することが目的なのだが、逃げようとしたり、斬りかかって来る不逞浪士があまりにも多かったた
	め斬殺した)。その一方で、局長の近藤勇らは新選組内部で凄惨な権力闘争を行い、敵対勢力を容赦なく殺害した。内規に反
	した等として粛清された者は相当数にのぼり、一説には勤皇志士との斬りあいで死亡した者より、粛清で落命した者の方が多
	いともいう。なお、新撰組の記録を調べると彼らが内部抗争以外で殺害したと確認できる人数は17名であり小説などで描写
	されているような煩雑に人を斬りまくる暗殺集団のようなイメージとは明らかに異なる。
	(「新撰組は暗殺部隊だったのか」より)

	新選組は、武士になることを宿願としており、目的達成のために武士に匹敵する活躍をしたため、特に現代の若者たちから幕
	末日本を象徴する存在とみなされ、根強い人気を誇る。新選組隊士らの墓参りをする女性ファンも多く、坂本龍馬ら勤皇の志
	士と共に“日本史のアイドル的存在”となっているが、明治政府がかれらと敵対する勤皇派志士たちによって設立された経緯
	もあり、近年まで史学的にもほとんど注目されることがなく、現在における人気は子母沢寛や司馬遼太郎らによる新選組をテ
	ーマにした数々の小説やTVドラマ・映画等の影響が大きい。
	ただし、勤皇の志士たちを多く輩出した山口県などを出身とする人々には彼らを「幕府に雇われたテロリスト集団」として位
	置づける人もいる(松岡滿壽男参議院議員・当時の国会での発言より)。
	ただ、体制側と反体制側の観点で論じれば、当時反体制側としてテロ行為を行っていたのは、現在の山口県にあたる長州藩出
	身の勤皇志士側であり、新選組は体制側である江戸幕府の一組織としてテロ集団の弾圧に当たっていた。
	隊の規律維持のために厳しい局中法度を定め違反者に対し粛清を行ったことや、「誠」の一字の隊旗や袖口に山形の模様を染
	め抜いた独特の羽織でも知られる。


	<歴史>

	1.結成
	文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩の郷士・清河八郎の建策を受け入れ将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目
	で浪士を募集。翌年文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛に先がけ、浪士組として一団を成し、
	中山道を西上する。浪士取締役には、松平主税之介、鵜殿鳩翁、窪田鎮克、山岡鉄舟、中条金之助、佐々木只三郎らが任じら
	れた。京に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が露見する。浪士取締役の協議の結
	果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、
	芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張。
	鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一
	派などが京の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現
	に助力することを目的とし新選組の前身である「壬生浪士組」(「精忠浪士組」とも)を結成。
	壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護
	職松平容保(会津藩主)より、主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任される。
	同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。
	なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功と飛鳥井雅典)から賜ったという説と、松平容保から賜ったという二つの説がある。

	・新撰組のふるさと

	

	 

	

	・近藤勇
	農民宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(近藤の生まれる2年前に死去)、
	長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。出身地武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当
	する。戦時中の調布飛行場延長工事により生家が取り壊されている。
	嘉永元年(1849年)11月11日、近藤は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)
	に認められ、周助の実家である島崎家に養子に入り、島崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、島崎勇と名乗った
	のちに、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月には府中
	六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。
	また、文久二年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。
	文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加
	者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。中山道
	を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。

	・土方歳三

	武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に生まれる(6人兄弟の末っ子とされてきたが、近年になって発見さ
	れた資料により、実は10人兄弟の末っ子であったことが判明した)。土方家は、多摩地方に広がる豪農の家系で「お大尽」とよ
	ばれる大百姓であった。出生前に父を失っており、6歳の時に母も失い次兄の喜六夫妻に育てられる。
	これまで11歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公に出、すぐに番頭と喧嘩をし、日野に戻
	ってきてしまった、と伝えられていたが、先頃発表された石田村の人別帳控により、数えの11歳時は石田村に在住しており、奉
	公には出ていないことが判明。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えら
	れるようになった。17歳の時には松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と
	称された)に奉公に出され、そこで女性問題を起こして(番頭に衆道関係を迫られたとも言われている)日野に戻った、という
	伝説もあるが、前述の人別帳の存在から、現在ではその信憑性が疑問視されている。
	その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだと言われる。日野の佐藤道場に出稽古
	に来ていた天然理心流4代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、安政6年(1859年)3月29日、天然理
	心流に正式入門した。
	歳三の姉のぶは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われ
	ている。彦五郎は大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄、井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、
	自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した人でもある。
	歳三もこの道場で腕を磨いたと伝えられている。
	近藤道場(試衛館)の仲間とともに、歳三は文久3年(1863年)2月、幕府の征夷大将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し京
	都へ赴く。

	




	2.発展
	池田屋事件後文久3年9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢ら水戸派を粛清して隊を掌握し、近藤を頂点とする組織を整備する。
	元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派の蜂起の計画を未然に防ぎ、禁門の変に参戦(ただし池田屋事件に関
	しては尊皇派の陰謀が事実であったどうかには証拠に乏しく史疑もある)。
	池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの褒賞金を下賜されると、元治元年9月に第二次の隊士募
	集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200人を超す集団へと成長し、隊
	士を収容するために壬生屯所から西本願寺(京都市下京区)へ本拠を移転する。慶応3年(1867年)夏頃には幕臣に取り立て
	られる。

	 

	

	

	慶応3年3月、伊東らの一派は思想の違いなどから御陵衛士を拝命して隊から分派するが、同年11月、新選組によって粛清さ
	れる。

	 
	


	3.解散
	慶応3年11月に徳川慶喜が大政奉還を行った。以降旧幕府軍と共に鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗北。その
	後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動。
	新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。甲州勝沼の戦い
	の後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、原田左之助らは分離して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山
	へ移動するも、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡。

	 

	新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一等が離隊。その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚
	らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた新選組を助けよ
	うと土方ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新選組は降伏した。旧幕府軍は
	箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

	

	



	<局中法度・内部粛清>

	局中法度(局中法度書)は「軍中法度」と並び新選組の規律維持のために定められたとされている。成立は会津藩預となった
	浪士組時代に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。
	法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の粛清の
	際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」など抽象的な内容で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるもの
	であった。鳥羽伏見の戦い以前に、新選組隊内において粛清された隊士は初代局長芹沢鴨や新見錦らを含めて41名である。
	子母沢寛の著書『新撰組始末記』で紹介されて以来、有名となり、以下の5ヶ条として知られるが、同時代史料にはこれを全
	て記録した物は現在までのところ発見されていない。しかし、明治になってから永倉新八が残した回想録には、法度「禁令」
	という物があり ここには「私ノ闘争ヲ不許」を欠く4ヵ条が示されている。そのため、局中法度とは、この禁令に、別に定め
	られていた「軍中法度」を混ぜて子母沢が創作したものと推測されている。また、天然理心流入門の際に誓約させられる神文
	帳との類似性も指摘されている。

	一、士道ニ背キ間敷事
	一、局ヲ脱スルヲ不許
	一、勝手ニ金策致不可
	一、勝手ニ訴訟取扱不可
	一、私ノ闘争ヲ不許
	右条々相背候者切腹申付ベク候也


	<治安維持>

	後述する数々の創作物の影響もあり、幕末、京都の治安維持の主力を担っていたのは新選組であるとの認識も一般には強いが、
	実際は重要な御所近辺は会津直轄隊の精鋭2000人、その周りは幕臣で構成される見廻組500人が固めていた。新選組はという
	と200人で伏見(当時は京都とは別の町であった)などを担当していた。もっとも京都見廻組などが律儀に管轄を守っていた
	のに対し、新撰組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。


	<医師>

	幕府西洋医学所頭取の医師である松本良順は近藤勇の招きで隊士の診察を行い、戊辰戦争でも軍医を務めた。なお、松本良順
	は新選組に豚を飼うようすすめ、西本願寺駐屯時に神戸から子豚を持ち込み養豚させ(餌は残飯)、豚肉を隊士に食べさせて
	いた。解体は木屋町の医者南部精一の弟子に頼んでいたという。

	


	<新選組を題材にした作品>

	幕末を扱った作品には登場する事が多く、特に戦前では彼らの敵であった薩長中心者が政府の元勲であったこと、また皇国史
	観の影響により賊軍となった彼らを否定する風潮が強く、新選組は悪役として扱われる事が多かった。 しかし、昭和初期に
	子母澤寛が新選組始末記にはじまる「新選組三部作」を発表すると、単なる「悪役」ではないという新たな認識が広まった。
	戦後には価値観の転換で新選組が主役に扱われる事も多くなり、各隊士にもスポットが当てられ創作がされるようになった。
	また、時代設定を変えて、新選組の枠組や有名隊士らをモチーフにした創作も数々生まれた。


	 
	
	大阪の北新地入り口には、ビルの礎石に「しじみばし」の表記がある。文久3年(1863)の新選組と大坂力士との乱闘の場。
	蜆川が堂島川に合流する地点にかかっていた橋だが、後年川が埋め立てられたため現存していない。
	文久3年6月3日夜、壬生浪士の名を語り、悪事を働く浪士の取締りを大阪町奉行から依頼された壬生浪士組は、芹沢鴨、近
	藤勇、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、平山五郎、野口健司、永倉新八、原田左之助、斎藤一の10名が大阪に下ることと
	なった。数名を捕縛し、近藤、井上の2名を残した芹沢以下8名が、舟遊びの帰路蜆橋(しじみばし)の辺りで前方より来た
	相撲取りの一行と道をあけろ、あけないの口論となり、芹沢が脇差しを抜き力士を峰打ちにして払いのける。(鉄扇で殴り飛
	ばしたとも言う)。そして遊郭で酒宴の最中に2〜30人の力士たちが仕返しに乗り込んで来た。しかし、強者の力士とはい
	え、相手は壬生浪士組の中でも凄腕の剣客たちである。脇差しのみで相手となり、力士たちの数名に重傷を負わせ追い払う。
	この時の傷がもとで熊川熊次郎という関取が死亡。ことの顛末を大阪町奉行所に届けるが、相手が壬生浪士組と知った力士側
	が詫びを入れ一件落着する。しかしこの時、この事件を取り調べた西町奉行所筆頭与力、内山彦次郎と近藤勇の間にしこりが
	残ることとなる。元治元年(1864)5月20日、内山彦次郎は新撰組によって暗殺された。内山が新撰組の資金調達の内情を
	調べていたため口封じのため殺されたと言われる。


	<装備>

	1.羽織
	袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(薄い水色)の羽織を着用していたとされ、映画などでは隊士は
	ほとんどこの姿で表される。羽織のダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りするときに着ていた羽織の柄で、浅葱色
	は武士が切腹の時に着る切腹裃の色だと伝えられているが、羽織は実際には最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件
	の時に着用していたとする証言が最後の記録である。
	作ったのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説では、大文字屋では無く「呉服問屋・菱屋」と言う話もある。また、誠の文
	字を染め抜いた隊旗は高島屋で作ったと言われている。

	2.隊旗
	赤地に白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的。「誠」という字が旗が揺れた
	ときに、近藤の実家「試衛館」の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。近藤派の存在を大きくしたかった土
	方の野望だとも言われる。
	他にも隊旗があり全部で6種類あるとされている。また、その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。この旗
	は現在の高島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。

	



	<組織>

	新選組は局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤・監察方(諜報)・勘定方(会計)などを配置した。副長助勤は組長と
	して平隊士を統率した。各組は一番から十番まであり、各組の人員は十人前後。また、組長の下に伍長を置いた。なお、新選
	組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり洋式軍制などの影響が指摘されている。
	隊士達は日常的には武術の稽古や京都市内の見回りや潜伏している浪士の探索などを行った。剣術集団である新選組は、中心
	となる近藤ら試衛館の天然理心流に加えて神道無念流、北辰一刀流などさまざまな剣術流派に加え、槍術や柔術などを学んだ
	隊士もおり、実戦本意の集団戦法の集団であった。
	結成当時には財政難であったと推測されるが、京都守護職配下時代は、隊の運営資金を会津藩からの御用金で賄っていた。ま
	た、一部は豪商などから提出させた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。諸々の事件への出動により
	報償金が下されることもあった。

	以下に構成員。新選組の隊名を用いる以前(壬生浪士組)の時期を含む。


	・歴代局長		芹沢鴨(初代筆頭局長) 	新見錦 		近藤勇 		土方歳三 	相馬主計

	・会津新選組隊長	山口二郎

	・箱館新選組隊長	大野右仲 	相馬主計

	・歴代副長		新見錦 		山南敬助 	土方歳三 	安富才助
	
	・総長			山南敬助

	・参謀			伊東甲子太郎 	武田観柳斎

	・組長・組頭
	 一番隊組長:沖田総司 		二番隊組長:永倉新八 	三番隊組長:斎藤一 	四番隊組長:松原忠司 
	 五番隊組長:武田観柳斎 	六番隊組長:井上源三郎 	七番隊組長:谷三十郎 	八番隊組長:藤堂平助 
	 九番隊組長:鈴木三樹三郎 	十番隊組長:原田左之助 
	 〜1864年編成時組頭		二番隊組頭:伊東甲子太郎 五番隊組頭:尾形俊太郎

	・諸士取調役兼監察方/浪士調役
	 山崎蒸	島田魁		川島勝司	林信太郎 	浅野薫(藤太郎) 篠原泰之進 	新井忠雄
	 服部武雄 	芦屋昇 		吉村貫一郎 	尾形俊太郎 	大石鍬次郎 	安富才助 	岸島芳太郎
	 安藤勇次郎 	茨木司 		村上清 		谷周平(近藤周平) 川村隼人 	近藤隼雄

	・勘定方	河合耆三郎 	尾関弥四郎

	・会計方
	 酒井兵庫 	岸島芳太郎 	中村玄道 	安富才助 	神崎一二三 	青柳牧太夫 	矢田賢之助 
	 大谷勇雄

	・伍長
	 奥沢栄助 	島田魁 		川島勝司 	林信太郎 	葛山武八郎 	前野五郎 	阿部十郎 
	 山武八郎 	伊東鉄五郎 	沼尻小文吾 	近藤芳助 	粂部正親 	加納鷲雄 	中西昇 
	 小原幸造 	富山弥兵衛 	中村小三郎 	池田小太郎 	橋本皆助 	茨木司 		尾関政一郎 
	 志村武蔵

	・初期副長助勤	平間重助 	野口健司 	安藤早太郎 	平山五郎 	佐伯又三郎

	・国事探偵方	御倉伊勢武 	荒木田左馬之助 	楠小十郎 	松永主計 	松井竜三郎 	越後三郎

	・文武師範
	 撃剣師範 	沖田総司 	池田小三郎 	 新井忠雄 	吉村貫一郎 	斎藤一
	 剣師範	田中寅蔵 	
	 柔術師範 	篠原泰之進 	柳田三二郎	 松原忠司 	
	 槍術師範 	谷三十郎 	谷万太郎 
	 馬術師範	安富才助 
	 砲術師範 	清原清		阿部十郎 
	 文学師範	武田観柳斎 	斯波雄蔵 	尾形俊太郎 	毛内有之助 

	・平隊士/同志		省略

	・美男五人衆
	 山野八十八	佐々木愛次郎 	馬越三郎 	馬詰柳太郎 	楠小十郎 

	・自称新選組隊士・関係者など
	 大石造酒蔵 	結城無二三 	奥田松五郎 	山浦鉄四郎 	永田克忠 

	・壬生浪士組同士
	 殿内義雄 	家里次郎 	根岸友山 	粕谷新五郎 	遠藤丈庵 	神代仁之助(上城順之助) 
	 阿比類鋭三郎 	鈴木長蔵 	清水吾一 

	・箱館新選組
	 箱館新選組隊長相馬主計 		陸軍奉行並土方歳三 	陸軍奉行並添役大野右仲 	改役頭取森常吉 	頭取改役島田魁 
	 頭取改役角ヶ谷糺 		改役下役会計頭取青地源太郎 	会計方山崎八蔵 	土方附属市村鉄之助 
	 土方附属野村利三郎 
	 以下、略


	



	<年表>
 
	・文久3年(1863年)

	2月8日 浪士組が江戸を出発、2月23日に京都へ到着 
	3月12日 会津藩お預かりになり、壬生浪士組と名乗る 
	3月25日 殿内義雄刺殺 
	6月3日 大坂の力士と乱闘 
	8月12日 大和屋焼き打ち 
	8月18日 八月十八日の政変 
	9月13日 新見錦切腹(異説あり) 
	9月18日 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱出(異説あり) 
	9月25日 壬生浪士組が新選組に名を改める 
	9月26日 御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎、長州藩の間者として粛清 
	12月27日 野口健司切腹 

	・文久4年、元治元年(1864年)

	5月20日 内山彦次郎刺殺 
	6月5日 池田屋事件 安藤早太郎、新田革左衛門ら負傷し1ヵ月後死亡、奥沢栄助戦死 
	6月10日 明保野亭事件 
	7月19日 禁門の変 
	8月頃 近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関政一郎らが会津・松平容保に非行
		五ヶ条を提出。 
	10月27日 伊東甲子太郎ら新選組に入隊 

	・元治2年、慶応元年(1865年)

	元治2年1月8日 ぜんざい屋事件 
	元治2年2月23日 山南敬助切腹 
	元治2年3月10日 西本願寺へ屯所を移す 
	慶応元年9月1日 松原忠司死亡 

	・慶応2年(1866年)

	慶応2年2月15日 河合耆三郎切腹 
	慶応2年4月1日 谷三十郎死亡 
	慶応2年9月12日 三条制札事件 

	・慶応3年(1867年)

	慶応3年3月20日 伊東甲子太郎、藤堂平助ら13人離隊 
	慶応3年6月10日 幕臣取り立てが決まる 
	慶応3年6月15日 不動堂村へ屯所を移す 
	慶応3年6月22日 武田観柳斎刺殺 
	慶応3年11月18日 油小路事件 伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄ら刺殺 
	慶応3年12月7日 天満屋事件 
	慶応3年12月18日 近藤勇が狙撃され負傷 

	・慶応4年、明治元年(1868年)

	慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦い 隊士2名が戦死 
	慶応4年1月5日 淀千両松の戦い 井上源三郎ら14名戦死 
	慶応4年1月6日 橋本の戦い 隊士4名が戦死 
	慶応4年1月10日 新選組、軍艦富士山丸と順動丸で江戸に向かう 途中山崎烝死亡(異説あり) 
	慶応4年3月6日 甲州勝沼の戦い 隊士2名が戦死 
	慶応4年3月12日 永倉新八、原田左之助ら靖兵隊となり離隊 
	慶応4年3月13日 五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)の金子家を中心に屯所を設営して滞在(4月1日まで) 
	慶応4年4月2日 下総流山に陣を敷く 
	慶応4年4月3日 近藤勇、新政府軍に投降する 
	慶応4年4月12日 土方歳三、旧幕府軍に加わる 
	慶応4年4月19日 宇都宮城の戦い 
	慶応4年4月25日 近藤勇、板橋で斬首 
	慶応4年閏4月25日 白河口の戦い 
	慶応4年5月17日 原田左之助死亡(異説あり) 
	慶応4年5月30日 沖田総司、肺結核により死亡 
	慶応4年8月21日 母成峠の戦い 
	慶応4年8月24日 山口二郎、池田七三郎ら13人会津に残留 
	明治元年10月26日 旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する 

	・明治2年(1869年)

	明治2年4月13日 第一次二股口の戦い 
	明治2年4月24日 第二次二股口の戦い 
	明治2年5月5日 市村鉄之助箱館脱出 
	明治2年5月11日 一本木関門付近で土方歳三戦死 
	明治2年5月14日 相馬主計新選組局長就任 弁天台場の新選組、降伏する 
	明治2年5月18日 旧幕府軍降伏 戊辰戦争終結 



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