Music: Twilight Zone
歴史倶楽部 第150回例会 黒姫山古墳 2010.1.31 大阪府堺市(旧美原町)







			第150回例会 24個もの甲冑を出土した美原町(現堺市)の黒姫山古墳を訪ねて
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			日時 : 平成22年1月31日(日曜日)
			集合 : AM10:00 近鉄阿部野橋駅(JR・地下鉄天王寺向かい)
			持参 : 弁当、防寒具、雨具
			行程 : 近鉄南大阪線 河内松原駅から近鉄バス「さつき野」行き約15分、
				 「下黒山西」バス停下車 徒歩2〜3分

		 		 松原線さつき野系統(46番) さつき野住宅と松原市を国道309号経由で運行

			散策路: 黒姫山古墳 − (昼食)− 堺市美原区役所 − 堺市立みはら歴史博物館 − 
		 		 式内櫟本神社 − 大塚山古墳 − 河内松原駅
	 





	河内松原駅から近鉄バスに乗って「大保」というバス停で降りる。バスの運転手が「黒姫山古墳に行くならココの方がいい。」
	と教えてくれたのだ。MCみはらもここからすぐだったが、先にガイダンスと古墳を見に行く事にした。今日は橋本さんは不
	参加なのに、久しぶりの雨である。一日中降っていた。



バス停にあった、「河内鋳物師」の説明板。なかなかいいアイデアだ。









MCみはら(堺市立みはら歴史博物館)の裏手あたりが、黒姫山古墳のガイダンスと古墳である。















雨なので、監視員のおじさんが覆いを被せたようだ。写真を撮るため覆いをとる。中に甲冑と甲のレプリカが置いてある。













写真を撮って順番に覗いたあとは、もとどおりに覆いをする。重たくて3,4人掛かりだ。






ガイダンスの中にビデオの見れる部屋があったので、監視員のオジサンに頼んでセットして貰った。












	以下、「邪馬台国大研究」の「全国遺跡・旧蹟案内」より転載

	黒姫山古墳は、大阪南部の百舌鳥(もず)古墳群と古市(ふるいち)古墳群の中間に位置している。全長114m、前方部の
	幅64m、後円部の経67m、高さ11mの二段築成の前方後円墳である。古墳時代中期(5世紀中頃)に、この地方で勢力
	を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられており、中世には砦として利用されていた事が発掘調査の結果
	判明している。
	後円部の埋葬施設は盗掘により破壊され、現在は消滅している。しかし、通常の前方後円墳では考えられない前方部中央に竪
	穴式石室が発見され、中から大量の甲冑、鉄製武具、武器が出土し、1947年からの発掘調査時大変な話題になった。
	1957年、国の史跡に指定され、1978年には廻りの周庭帯(しゅうていたい)も追加指定を受けた。平成元年からは国
	と大阪府の補助を受けて美原町による環境整備が行われ、大量の甲冑類も保存処理が終了し、一部古墳横のガイダンス施設に
	展示されている。残りの出土物は各地の保管所に預けられ、美原町に博物館が出来るまで保管されている。
	(確認したところによると博物館建設の計画は頓挫したままだという。遺物も町役所のロッカーに入れたままのものもあると
	言う。なんたる事!)
	− 1999年9月25日訪問時の記述。現在は「堺市立みはら歴史博物館に収蔵− 
















	1947年の発掘調査時、後円部にあった石室は破壊されていたが、石室を取り囲むように並べられていた各種形象埴輪の破片が
	残っていた。その中には、盾形、蓋(きぬがさ:大型の日傘の先に付けた飾り)形、靫(ゆき:矢を入れて背中にからう道具)
	形、などが含まれていた。








	古墳に作られる石室は通常、後円部に死者を納めた棺を埋葬するのだが、この黒姫山古墳では前方部に石室があり、しかも死
	者ではなく石室一杯に、24人分の甲冑が納められていた。黒姫山古墳の周辺にはかって6基の陪塚(ばいちょう)があったと
	言われており、殉死した王の部下達が使用した甲冑かもしれない。しかし、6基の古墳は出土した埴輪から、黒姫山古墳とは
	年代が異なると言う説もあり、どうして24人分もの武具が埋納されていたのか、今となっては謎のままである。

	古墳の一部が、古墳造営時の状態に復元してある。作られた時は、この状態のように、葺石が古墳をとり巻いていたのだ。















古墳からMCみはらへ戻る道に「真福寺遺跡」の説明があった。この高速道路の下に、古代人が住んでいたのだ。








MC・みはら(MCホール) 堺市立みはら歴史博物館







	堺市立みはら歴史博物館は、『カタチ造りの達人』をグランドコンセプトとして、 

	1. 日本の中世において、みはらの地を本拠地・居住地として、他の追随を許さ ない技術を持ち、かつ、数々の偉業を成し
	  遂げ、現在の日本文化の基礎を築 いた鋳造技術者集団「河内鋳物師」 
	2. 24領の鉄製甲冑が出土し、製作方法等を比較検討することで、複数の甲冑製作工人の存在と、彼らを統括・指揮する人物
	  の存在を想定することができる資料を提供してくれた「黒姫山古墳」 
 
	を、それぞれのメインテーマとした常設展示室、および企画展・特別展が開催できる特別展示室と、講演会・音楽会・映画会
	等の催しや、研修会・レセプション等の催しなど、文化・芸術にふれ、交流できるホールとの複合施設である。愛称のM・C
	みはらは、Museum(博物館)と、Community(交流)をイメージしている。  




























































	河内鋳物師(かわちいもじ)

	河内鋳物師は美原区の大保を拠点に金属を溶かして鋳型に流し込み様々な鋳造製品を製造した中世の技術者を言う。その技術
	は渡来人からもたらされ東大寺の大仏鋳造でも活躍した。後に河内鋳物師たちは堺に移り住み時代を動かした鉄砲を製造する
	ようになった。




















丹比神社







	【丹比(たんぴ)神社】	南河内郡美原町多治井157−1

	【延喜式神名帳】丹比神社 鍬靱 河内国 丹比郡鎮座  (合祀)櫟本神社 

	【現社名】丹比神社 
	【住所】大阪府南河内郡美原町多治井157-1 
	【祭神】火明命 瑞齒別命
       (合祀)大山祇命 伊邪那岐命 伊邪那美命 凡河内倭女姫命 菅原道真 宣化天皇 上殖葉皇子 十市王子 多治比古王
		 多治比眞人

       明治12年『神社明細帳』瑞歯別命 稚松天神
       『河内志』「丹遅眞人氏神多治比王」
        『神祇志料』「丹治比君の祖神」
       『大日本史神祇志』「多治比君祖上殖葉皇子」
       『地名辞典』上葉皇子
       『地理志料』「丹比氏祖殖葉皇子」
       『日本総国風土記』火明命
       『神社要録』多治眞人祖神
       『河内国式神私考』「皇子加美恵波命」
       『河内国式内社目録稿本』「所祭丹比氏祖神、俗称瑞歯別天皇」

	【例祭】10月9日 秋季大祭 
	【社格】旧村社 
	【由緒】承和14年(847)12月従五位下
        嘉鮮三年(850)10月従五位上『文徳実録』
        貞観元年(859)正月27日正五位下『三代実録』
        貞観元年7月14日遣使奉幣『三大実録』
        明治5年(1872)村社
        同40年11月23日式内社村社櫟本神社を合祀
        同年12月7日神饌幣帛料供進社
	【関係氏族】丹比連 
	【鎮座地】移転の記録はない
	【祭祀対象】氏祖 
	【祭祀】江戸時代は「若松天神」と称していた 
	【社殿】本殿春日造  幣殿・拝殿・社務所 
	【境内社】なし 
	【交通】  近鉄南大阪線松原駅 南3km 




	『新撰姓氏録』には「丹比連は火明命の後なり」とある。火明命はニニギノミコトの子で、祭神に火明命が掲げられていること
	から「丹治比氏の祖神」を祀ったものと思われる。この地は宣化天皇を始祖とする多治比真人一族の本貫の地であったので、多
	治比の祖神を祀っていたものであろう。
	瑞歯別命は反正天皇(仁徳天皇の子)であるが、この地付近はその反正天皇の河内丹比宮の伝承地でもあることから、付会され
	たものらしい。




	延喜式内社であるが、都が平安京へ移ってからは衰退した。また南北朝の争乱や戦国期の畠山抗争のあおりでも喪失、衰微した。
	長い参道が往年の勢いを偲ばせる。なお、この地は河内の鋳物師の発祥の地ともされる。式内の櫟本神社を摂社としている。 
	当社の北1kmを竹内街道、西側は丹比大道が走り、古代の交通の要所であった。




	丹比郡(たじひのこおり/たぢひのこほり)は、かつて河内国にあった郡である。『和名抄』には狭山・菅生・黒山・野中・丹
	上・丹下・田邑・八下・依羅・三宅・土師の十一郷が記載されている。平安時代後期、狭山・菅生・黒山・野中・丹上・丹下・
	田邑の七郷が丹南郡、八下・依羅・三宅・土師の四郷が丹北郡として分割された。さらに、丹北郡から八下郷が八上郡として割
	置された。現在の松原市・大阪狭山市・堺市東区・堺市美原区の各全域と、大阪市東住吉区・大阪市平野区・八尾市・藤井寺市
	・羽曳野市・堺市北区の各一部に相当する。




	<式内社>

	延喜式神名帳には、丹比郡に以下の大社3座3社・小社8座6社の計11座9社が記載されている。

	丹比神社(鍬靫)(堺市美原区多治井) 
	阿麻美許曾神社(鍬靫)(大阪市東住吉区矢田7丁目) 
	狹山堤神社(大社、月次新甞)(現 狭山神社摂社・狭山堤神社) 
	大津神社三座(鍬靫)(羽曳野市高鷲8丁目) 
	狭山神社(大社、月次新甞)(大阪狭山市半田) 
	菅生神社(大社、月次新甞)(堺市美原区菅生) 
	酒屋神社(鍬靫)(現 屯倉神社(松原市三宅町)摂社・酒屋神社) 
	櫟本神社(鍬靫)(現 丹比神社摂社・櫟本神社) 
	田坐神社 
	柴籬神社(松原市上田7丁目)に合祀。現 摂社・田坐神社 
	田座神社(松原市田井城5丁目) - 大正14年に柴籬神社より分離独立 







拝殿の右側に多遅比瑞歯別の命(18代反正天皇)の産湯の井戸がある。産屋は随分あたらしい。静かで、気持ちのよい神社である。






櫟本神社





	櫟本(いちもと)神社	  元は美原町真福寺に所在し、祭神は瑞歯別命(反正天皇)。


   【延喜式神名帳】櫟本神社 鍬靱 河内国 丹比郡鎮座 

   【現社名】櫟本神社 
   【住所】大阪府南河内郡美原町真福寺( 
       北緯34度33分10秒,東経135度33分34秒 
   【祭神】瑞歯別命
       『神社明細帳』「瑞歯別命」
       『神社要録』「祭神詳ならず(今按、木霊歟)」
       『河内国式神私考』「天押立命」
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』応神天皇
   【社格】旧村社 
   【由緒】由緒不詳
       明治5年(1872)村社
       明治40年11月23日隣接の丹比村の丹比神社に相殿合祀
   【関係氏族】 
   【鎮座地】明治40年11月23日隣接の丹比村の丹比神社に相殿合祀
   【祭祀対象】大木 
   【祭祀】江戸時代は「八幡」と称していた 
   【社殿】本殿
   【境内社】 








	旧地は住宅地の中であるが小祠がある。創立の時この地に櫟の大木があり、応神天皇の御孫瑞歯別皇子(反正天皇)が、この大樹
	を賞して「丹比の櫟本」と名づけたのに由来すると伝えられている。中世、この地に眞福寺と称する宮寺が存在したが、中世の
	兵乱で焼失したという。明治40年12月23日丹比神社に相殿合祀された。






	そぼ降る雨の中、大塚山古墳をめざして歩く。最初見えていた小山のような所がそうかと思ったが違っていた。その名も「大塚」
	高校の横から、大塚山古墳へ行く道が続いている。








大塚山古墳





	大塚山古墳は現在宮内庁管轄の「陵墓参考地」なので、ご覧のように金網のフェンスが廻りを取り囲んでいる。以下の古墳の写真は、
	この金網の中へデジカメを差し出して写したものである。しかしデッカイ古墳だった。私はいままで大型古墳は相当見学してきたが、
	まだこんな古墳があったとは。




	河内大塚山古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地大阪府松原市西大塚、羽曳野市南恵我之荘 	交通アクセス 近鉄南大阪線 河内松原駅 徒歩10分

	大塚山古墳(おおつかやまこふん)は大阪府羽曳野市と松原市の境界にある前方後円墳。6世紀後半に築造された大和王権の大王
	墓と考えられているが、学術的発掘調査が行われていないため被葬者を特定できていない。
	民話には雄略天皇陵という伝承がある。大正期までは墳丘内に人が住居を構えており村が存在したが、1925年に陵墓参考地となり
	強制退去させられ、1932年に陵内立入禁止となって現在に至っている。管理は宮内庁が行っている。かつて住んでいた人の証言か
	ら、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされている。
	また、今城塚古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳などと同様に、前方後円墳の中でも古墳時代後期の一部に見られる「剣菱
	形」と呼ばれる特異な形状をしている。(前方部の中央がやや外側に突き出すように角ばっている構造を指す)また、埴輪をもっ
	ていない。今城塚と見瀬丸山古墳の中間に編年されうる。
	古市古墳群の一つとされるが、百舌鳥古墳群と古市古墳群のおよそ中間地点、最も西寄りの離れた場所に存在する。このため学術
	的には古市古墳群に該当しない見方もあるため、世界遺産への登録を目指している両古墳群のリスト等には含まれていない。
	古市古墳群最後の巨大前方後円墳であり、墳丘長 335メートルは大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、上
	石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、備中造山古墳に次ぐ全国第5位に相当する。 墳丘の周囲には濠がめぐらされている。

	墳丘長 335メートル 前方部幅 230メートル 後円部直径 185メートル 前方部高さ 4メートル 後円部高さ 20メートル 









この大きさなら、かってこの中に村があったというのも頷ける。



















反省会は例によって天王寺駅内の「赤のれん」。今日もお疲れ様でした。店内のイルミネーションが綺麗だった。














私の所属する大阪歴史学会の機関誌「ヒストリア」号に、河内大塚山古墳への立ち入り調査の記事があった。















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