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歴史倶楽部 第136回例会 房総風土記の丘資料館 2008.11.24(日)




			前回はあわただしく見学したので、今回はじっくり腰を据えて見て回ることにした。
			前には見なかった哲学者のような表情をした土人形には感動した。縄文人もなかなか
			たいしたもんじゃん。





























































上もコマツさん撮影。しっかりピントが合ってます。それにしてもこの表情は。デスマスクかもしれない。




























































































































			総国	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

			『古語拾遺』によれば、天富命が天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波国麻植(後の麻植郡)に
			おいて、穀物や麻を栽培していたが、後に天富命がより豊かな土地を求めて衆を分けて一方を
			黒潮にのって東に向かわせた。東の陸地に上陸した彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、
			特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)
			と命名したと言われている。麻の栽培して成功した肥沃な大地が『総の国』で、忌部の一部の
			居住地には、『阿波』の名をとって『安房』としたのだという。

			また、本居宣長などの説によれば、総国は安房国・上総国・下総国のみならず、相模国と武蔵
			国を含んでいたとする。フサカミのフを省いて「サカミ」、フサシモのモを省き音便でフがム
			となり「ムサシ」となった、あるいは、フサとムサの国に分かれた後ムサの国が「ムサカミ」
			「ムサシモ」に分かれ、ムサカミのムを省いて「サカミ」、ムサシモのモを省き「ムサシ」と
			なったといわれているが、根拠となるような資料は存在しない。

			『古語拾遺』説に従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字に
			は麻に関係する意味は存在しない。そのため、この伝承に対する疑問は永く残されていた。
			ところが、1967年に藤原宮から発掘された木簡に「己亥(699年)十月上?国阿波評(安房郡、
			後の安房国)……」という文字が書かれたものが発見された。発見当初はこれを「上狭国(=
			上総)」の別字体であると解釈されていた。続いて同じ藤原宮から「天観上〈?〉国道前」と
			いう木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出
			された。そのうちに「?」と読む説も出たものの、「上?」では意味が通じないとされて保留
			とされていた。
			ところが、その後の研究で「?」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観と
			いう上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」
			ではなく、?国・上?・下?など「?」の字が用いられていた可能性が高くなった[1]。この
			「?」とは房を成して稔る果実の事を指し(『大漢和辞典』説)、麻の実も収穫時には「?」
			に該当する[2]ことから、麻の稔る姿より「?」の字が用いられ、令制国成立時に同じ和訓を
			持つ佳字である「総」に書き改められたとすれば、『古語拾遺』の記述をそのまま信用できな
			いまでも、麻と総を間接的には結び付けることが可能になるのである。

			律令時代以前、この地域には須恵・馬来田・上海上・伊甚・武社・菊麻・阿波・印波・下海上
			・長狭・千葉の各国造が存在したとされている。また、下海上国造の領域を分離して匝瑳郡と
			香取郡が設置されたとされるが、これも律令制以前のことと考えられる。
			律令制において全体が総国とされ若干の経緯を経て、阿波国造の領域と長狭国造の領域を併せ
			て安房国に、印波国造の領域と(匝瑳郡と香取郡を含む)下海上国造の領域を併せて下総国、
			残りの部分が上総国になったとするのが一般的である。ただし、令制国は天智天皇政権下で成
			立したとするのが一般的であるが、房総三国は孝徳天皇政権下には成立していたと見るむきも
			ある。
			『常陸国風土記』の鹿島郡の成立由来の記事(649年とされる)に下総国海上郡の一部を神郡
			(鹿島郡)に割いたとする記述がある事、前述の藤原宮から発掘された「己亥十月上?国阿波
			評……」という文字が見られる木簡の存在や『続日本紀』の文武天皇2年(698年)に下総国に
			おいて大風の被害が出た記録が登場し、少なくとも大化改新からそう遠くない時期(7世紀中
			頃)には分割されていたと推定されるが、いつ分割されたか等については根拠となるような資
			料は存在せず、定説となるまでにはいたっていない。

			令制国には後に中国風の別称が付けられたが、かつて総国を構成した令制国のうち、安房国
			は房州(ぼうしゅう)、上総国と下総国はいずれかを一方、または両国を合わせて総州(そう
			しゅう)と称した。また房州と総州を合わせて房総(ぼうそう)と呼んだ。
			元々一つであったとされる国が二つ以上に別れた令制国の場合、漢字一文字で表すのは困難で
			あり(例として筑州、豊州、肥州、備州、丹州、越州)、この総州もそれに倣っている。例外
			的なのがかつて毛野国(毛州、両毛)であったとされる上野国と下野国である。この別称は上
			州と野州であり、これに準ずるとすれば総州は下総国のみを指すことになるが、上州は上野国
			を指すため上総国を指す呼び方がなくなってしまうことから、総州は上総下総の両国を指すと
			するのが一般的である。

			区別すべき場合は、下総国を北総(ほくそう)、上総国を南総(なんそう)と呼ぶ事もある。
			しかし現在の結城市や古河市は総州であり、総州の最北部に在って言葉の意味からすればまさ
			に北総であるが、一般的にはそこに含めない。また現在の千葉県東部は東総(とうそう)とも
			呼ぶほか、主な舞台が安房国である『南総里見八犬伝』のように南総には房州である安房国を
			含むこともあるため、下総国と北総、上総国と南総が単純に対応するわけではない。

			積極的に上総下総両国を含むことを示したい場合には両総(りょうそう)と呼び、用法は上野
			国と下野国の場合の両毛と同様である。『将門記』では上総下総両国を「上下の国」と表現し
			ているが、文脈から上野国と下野国のことではないと判断できるからだと思われる。なお上総
			下総両国の国境付近を示す言葉として両国という用法もあるが、この用法は他の二つの令制国
			の場合の用法と同様である。
			また、房総のうち半島である部分を房総半島と呼び、現代ではこの部分のみを単に房総という
			ことが多い。さらに総州を含めた半島の太平洋側を外房(そとぼう、がいぼう)、東京湾側を
			内房(うちぼう、ないぼう)と呼ぶこともある。




















































			この博物館はよく整備されていて、展示もわかりやすく出土品も豊富である。私の好きな博物館
			のひとつなのだが、ご多分に漏れず経営的には苦しくて、どうやら第三セクターのような運営に
			なっているらしい。間違っても、閉館などにならないように祈りたい。


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