Music: twlight zone

歴史倶楽部 第136回例会
岩宿遺跡 2008.11.23(土)










			この黒曜石石器の美しい事はどうだろう。我が国で初めに発見された旧石器がこんなに美
			しいとは。私は、これは絶対国宝ものだと思うのだけれども、まだそれを阻む勢力が存在
			するとは情けない限りだ。







全員で記念撮影。日本で旧石器時代の存在を始めて明らかにした、記念すべき場所である。








			岩宿遺跡	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

			岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の遺跡である。
			1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。
			この発見によって、日本の旧石器時代の存在が証明された。これ以降、日本全国において
			旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国
			の史跡に指定された。

			岩宿遺跡は、赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の小残丘に立地しており、丘陵の北部は
			「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」と呼称される。稲荷山と山寺山の境を
			なす低い鞍部には町道が通っていたが、相沢忠洋によれば、始めてローム層中で打製石器
			を発見したのは、この道路の切通においてであった。相沢は当時、納豆の行商をおこない
			ながら熱心に考古学研究にいそしんでいた。
			1949年(昭和24年)、杉原荘介の主導による明治大学の発掘調査で、切通しの北側
			がA区、南側がB区と命名され、A区において上下2層の石器文化層が確認された。
			下層の岩宿I文化と呼ばれる石器群は、地表の下約1.5mの中部ローム最上部の暗色帯
			中に包	含されており、楕円の形状をなす打製石斧2点の他、掻器類、2次加工のある刃
			器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩が認められる。同層からは多数の自然礫やクリ
			材の炭化物もみられた。この結果は旧石器時代の段階における植物資源の広汎な活用を示
			唆する。この暗色帯の最上部には姶良丹沢火山灰(AT火山灰)が確認されており、この
			ことより、岩宿I文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼると考えられる。
			A区上層の岩宿II文化は、上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする
			文化で、瑪瑙、頁岩、黒耀石、安山岩などさまざまな石材が用いられている。


			1946年(昭和21年):相沢忠洋が赤城山南東の関東ローム層から黒曜石の打製石器を発見。 
			1949年(昭和24年):明治大学教授杉原荘介の主導する調査団によって調査がおこなわれ、
				日本における旧石器時代の存在が立証された。 
			1960年(昭和35年):A区が群馬県指定史跡になる。 
			1970年(昭和45年):B区が公有化になる。珪岩製旧石器が発見される。 
			1979年(昭和54年):岩宿遺跡が国の史跡に指定される。 
			1980年(昭和55年):遺跡の東側で石器が出土される。 
			1990年(平成2年):岩宿ドームが開館。 
			1992年(平成4年):笠懸野岩宿文化資料館が開館。 
			2006年(平成18年):笠懸野岩宿文化資料館を「岩宿博物館」と名称変更。 


			明治大学と相沢忠洋が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見。日本に旧石
			器時代が存在していたことが証明される。発掘調査によって関東ローム層の別々の層から
			2つの石器群が発見された。このことから約3万年前と約2万年前の2つの異なる文化の
			段階が分かる。 





























岩宿博物館
















			ここは以前(2000年)来たときは「笠懸野文化資料館」という名前だった。笠懸野は、
			木枯紋次郎の「上州新田郡三日月村」のモデルになったムラである。もう「岩宿博物
			館」のほうが通りがいいんだろうな。





ここでもボランティアのお姉さん方が親切に解説してくれる。馴れていると見えて「立て板に水」である。























相澤忠洋記念館






			岩宿博物館から「相澤忠洋記念館」の千絵子夫人へ電話をいれて記念館が開館しているか
			たずねた。「以前大阪から来て、手紙のやりとりをさせてもらった井上です。」と言うと
			覚えて貰っていたようで、「あぁ、空いてますよ。どうぞお出でください」との事なので、
			赤城山を目指して車を走らせる。しかしわかりにくい道で、途中二度ばかり訪ねて、やっ
			と記念館に着いたときにはもうどっぷりと日が暮れていた。














			相沢忠洋	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

			相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、1926年6月21日 - 1989年5月22日)は、日本の考古学者。
			納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24)に群馬県み
			どり市笠懸町岩宿(旧新田郡笠懸村岩宿)(岩宿遺跡)の関東ローム層から旧石器(槍先
			形石器)を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。

			1949年(昭和24)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時
			代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のた
			め人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の
			発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。
			そうした時代背景の中で、1946年(昭和21)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭
			断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし、旧石器と断定するまでに
			は至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。
			1949年(昭和24)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人為と認められる槍先形
			石器を発見した。この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大
			学助教授杉原荘介(当時)に連絡した。これを受けて同年秋、明治大学が岩宿遺跡の本格
			的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、日本における旧石器時代の存在
			が証明されることとなった。
			しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。
			明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者と
			して扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績とし
			て発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実
			に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人な
			どいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人などいわゆる先生方)などで構成されて
			おり、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このためこれといった財産も学歴
			も有しない相沢忠洋の功績をねたみ「行商人風情が」などと蔑視し彼の功績を否定する向
			きもあったという。しかし相沢の考古学への情熱は冷める事はなく、地道な研究活動を続
			け、数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相澤への不当な批判は消えていき、日本の旧
			石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42)
			には吉川英治賞を受賞した。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾
			けた。彼の「旧石器時代研究所」はこの夏井戸遺跡のなかにあり、今は「相澤忠洋記念館」
			として相澤夫人の千絵子氏が館長を務めている。


			1926年(昭和元)東京羽田で出生。 
			1934年(昭和9)、鎌倉へ転居。このとき考古への興味を抱いた。 
			1935年(昭和10)、両親離婚。その後父と一緒に群馬県桐生へ移住するが、ほどなく小僧
				奉公に出され孤独の境遇となった。尋常夜学校が最終学歴。 
			1944年(昭和19)、海兵団へ入団。 
			1945年(昭和20)、終戦とともに桐生へ復員。幼少からの考古学への思いは断ち切れず、
				考古研究の時間が取りやすい納豆の行商を始め、行商しながら赤城山麓の各地で
				土器・石器の採取を行う。1949年(昭和24)、岩宿で発見した石器が旧石器かど
				うか鑑定してもらうため、東京へ行き、生涯の師となる芹沢長介(明治大学大学
				院生、後の東北大学名誉教授)と出会う。その後、相沢は芹沢から考古学上のア
				ドバイスを得るため、たびたび、桐生から東京までの約120kmを自転車により日
				帰り往復していた。 
			1955年(昭和30)、結婚。 
			1961年(昭和36)、群馬県から表彰を受章。 
			1967年(昭和42)、吉川英治賞を受賞。 
			1972年(昭和47)、宇都宮大学で講師を務める。 
			1973年(昭和48)、妻逝去。 
			1977年(昭和52)、相沢千恵子(現・相沢忠洋記念館館長)と再婚。 
			1989年(平成元)、逝去。勲五等を授与される。 
			1991年(平成3)、相沢忠洋記念館が開館。 

			<著書>
			1969『「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-』講談社。 
			1980『赤土への執念-岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ-』佼成出版社。 
			1988『赤城山麓の旧石器』講談社(関矢晃との共著)。 





芹沢長介は、相澤への明治大学の扱いに憤慨するが、やがてそれが遠因で明治大学を去り東北大学へ移る。
一時、東北福祉大学などにも籍を置くが、やがて東北大学で名誉教授となる。生涯、相澤を応援し続けた。
















この自転車(と同型のもの)で、ここから東京への120kmを往復したのである。





子供の頃から石器に興味があったのだ。我々のような俄歴史マニアではない。筋金入りの執念にはほんとに頭が下がる。







今日の日程を終え、一路船橋を目指すが宿に着いたのは9時近かった。
船橋グランドホテル。ここはコマツさんが紹介してくれた所だが、ここもいいホテルだった。





相澤忠洋 NEWS


















西船橋にて

宿に着くなり荷物を置いて反省会へ。コマツさんもこのホテルに車を置いて、
明日は電車で一駅の自宅から電車できてくれると言う。





気の置けない仲間と共通の話題で呑む時は、ホントに時間の経つのを忘れますな。












		日本列島の旧石器時代  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

		<日本列島の形成>
		日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その
		頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷
		期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃に
		は大陸から離れ、現在の姿の日本列島ができあがった。

		<動物相>
		日本列島には、幾度となく北、西、南の陸狭(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろ
		な動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわ
		れている。
		2万年以前の日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群やそれ以前からい
		たものが棲息していたが、最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってく
		ることが出来たので、それらの混合相となった。また、マンモス動物群を追って後期旧石器人が渡ってき
		た可能性が高いと推測される。本州・四国・九州・琉球では、新しい動物群が入ってこれなかったために
		古くからその地域に生息していた固有種が多く残ることとなったと考えられている。これらの地域では、
		後期旧石器人は入ってこなかった。

		<前・中期旧石器の発掘>
 
		日本では縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代とかと呼んでおり、土器の時代を遡る時代の
		遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。
		ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器
		を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ
		所を超える遺跡が確認されている。(平成20年現在では1万カ所にのぼっている)。
		これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
		1973年には武蔵台の栗原遺跡と千葉の三里塚55地点遺跡で刃部を研磨した磨製の斧形石器が発掘された。
		出土層準は約40,000〜30,000年前の立川ローム第X層中であり、分布は列島全域に亘る。これら刃部磨製
		石斧は現時点で世界最古の磨製例であるが、3〜4万年前に集中し、その後は草創期まで出現しない。しか
		しこれら磨製石器の出土によって旧石器時代の人類の生息が示される。
		(小田静夫「旧石器時代の磨製石斧」)

		後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、
		栃木県星野、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られ
		なかった。これらの論争は「丹生論争」「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。
		1970年代にはいると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。1980
		年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に
		「発見」された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされた。しかし、2000年11
		月に、藤村が北海道十津川遺跡の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日
		に旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑
		わしいものとされ、いまのところ、前・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されて
		いる。
		2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」と報道されたが、段
		丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児
		島の錦江湾から噴出した姶良火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。2006年1月現在、日本の旧
		石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。


		<住居と墓制>

		日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にある
		ことが多い。
		日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が
		少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられ
		ている。
		旧石器時代の人びとは多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうしたなか
		にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られ
		ている。
		住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20
		センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜め
		に立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイ
		ト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。
		調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使
		われていたことがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後
		の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関
		連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた跡が
		なく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
		そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そ
		こにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジア
		での死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらし
		い高さ約9センチ、幅2〜3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線
		で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中し
		ている箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
		集落の規模と構成はまだ分かっていない。
		日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来し
		たと見られる哺乳動物の化石は野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうした動物を追って大
		陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石
		器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度で
		ある。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。

		<道具>

		・ナイフ形石器
		後期旧石器時代は、土器出現以前で、一般にわれわれと同じ種の現生人類(ホモ・サピエンス)と彼らに
		固有の石器技術である石刃(石刃=せきじん)技法とが認められることを特徴とする。彼らは、石製道具
		の生産手段として細長い剥片を連続的に打ち剥がす石刃技法と呼ばれる技術を好んで用いた。岩石資源利
		用効率の高さが関連したといわれている。日本列島では約3万年前以降、この石刃技法によって作られた
		石刃とそれに関連する石器群が多量に製作・使用されており、これらのうち細長に整形されたものがナイ
		フ形石器と呼ばれる。切り出し小刀や日本刀のような形をしており(刃とそうでない部分との角度の違い)、
		その大きさは1cmから10数cmまでと幅広い。木や骨の軸柄に取り付けられ、突いたり切ったりする多様な
		道具の機能部を構成したと考えられている。ただし肝心の軸柄の部分は見つかっておらず、どうやって取
		り付けられていたのかはよく分かっていない。これは軸柄がおそらく、土中では長い年月残りにくい木材
		や骨で作られていたからである。日本以外の地域や異なる時代の類似の道具から類推すると、どうやら小
		型のものは柄の横側に多数並べてはめ込まれ、大型のものは柄の先端に単独で取り付けられたと思われる。
		本州〜四国〜九州におけるナイフ形石器群の終焉は今から約1万5千年前で、組織的な細石刃石器群の出現
		とほぼ同時期である。

		・細石刃
		細石刃(さいせきじん)とは小さい石刃のことである。骨や木の軸に掘られた溝に並べてはめ込み、各種
		道具の機能部を構成する。同じ形の石刃でもはめ込む軸の大きさや形状によって異なる機能と用途を持っ
		た道具を作ることができる。定義的には中期旧石器時代から存在するが、押圧剥離による組織的な細石刃
		技法の出現は後期旧石器時代に特有である。大陸では早くから出現し、古ければ3万5千年前程度といわれ
		ている。大陸と当時陸続きだった北海道では2万年前には使われ始めるが、津軽海峡をはさんだ本州・四
		国・九州(3島は陸続きで、朝鮮半島とは朝鮮海峡をはさんでいる)では1万5千年前以降(暦年代ではも
		う2千年ほど古い)のようで、ナイフ形石器の急激な減少ないし消滅と相関する。1万2000年前頃、細石刃
		石器群は終末を迎える。細石刃石器群を出土する遺跡は北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。

		<土器の出現>
		細石刃石器群の後に、大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が出現する。シベ
		リア方面及び樺太から北海道という北のルートを渡ってきたと考える者がいるが、どこにも根拠がなく、
		少なくとも津軽海峡以南の地域ではそれまでの伝統から発達して出現した可能性のほうが高い。  日本で
		最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていないが、一応北方から伝播してきたと考
		えられている。しかし特に証拠があるわけではない。旧石器時代の終末に、九州では豆粒文土器(長崎県・
		泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。北海道では本州よりも少し遅れたとされる。北から来た
		のに、南で発達するという一見矛盾する現象は、その出現の契機と発達の背景とが異なることを意味して
		いる。南九州でいち早く発達した様子が知られていることから、それには気候の寒暖と植生の違い、ひい
		ては生業内容の違いが関係したと推測されている。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出
		現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。

		<木器>
		木器は遺物として残りにくいが、約12〜5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の
		木製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代
		の板ということになり、旧人が工作した板ということになる。
		木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高
		めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだ
		から、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。

		<食料の獲得>

		旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウ
		などの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。
		そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代
		人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されてい
		ないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。

		漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、
		伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何
		らかの航海技術や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリア
		との強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)
		が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突
		漁を行なっていた可能性がある。

		縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々に
		とってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという
		から、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源
		の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器
		(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したから
		である。

		<更新世(洪積世)の人類化石>

		日本列島は火山列島とも呼ばれるように更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本
		列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人
		骨・獣骨化石が残る例がほとんどない。こうした中でもこれまで洪積世人類化石として知られていた例も
		多かった。しかし、C14年代測定法や再検討の結果、それらの多くが洪積世人類化石の地位を失い、静岡
		県の浜北人と沖縄県の港川人とが更新世人類とされている。

		・浜北人
		浜北人は、静岡県浜北区根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960〜1962年に発見された頭骨片と四肢骨片
		(鎖骨・上腕骨・ェ骨・脛骨)の人骨化石である。上・下二つの地層から出土した。それぞれの層からで
		た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の
		脛骨が約1.8万年前を示した。

		・港川人
		1967年〜1969年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の港川採石場の石灰岩フィッシャーで実業家・大
		山盛保によって人骨(上腕骨・尺骨・ェ骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。
		上部港川人骨と呼ばれている。年代はおよそ1.2万年前と考えられている。
		1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志堅村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって
		発見された。人骨は少なくとも5体をかぞえ、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約
		1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は
		窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ていると
		ころが目立つ。頭蓋では、骨が厚く、前頭骨が小さく、脳頭蓋の下部が幅広いなど独自の特徴でかなり原始
		的である。また、男性の推定身長は153〜155センチメートルで、上半身は華奢であり、かなり小柄である。

		・山下町洞穴人
		沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛
		骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

		・その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石
		沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん) 
		沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる) 
		沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる) 

		・これまで更新世人類として知られていた人類化石
		葛生人(くずうじん)は、栃木県葛生町で1950年代に発見され、元早稲田大学教授直良信夫によって更新世
		人類と考えられた。しかし、発見された骨8点のうち4点は、動物骨であることが確認された。残りのうちの
		2点は放射性炭素年代測定の結果400年前の人骨であることが分かった。 
		三ヶ日人は、1959年〜1961年に静岡県三ヶ日町(現浜松市)の石灰岩採石場から頭骨片5点、ェ骨(腸骨)、
		大腿骨など複数の成人の骨が発見され、後期更新世人類と考えられたが、放射性炭素年代法により9000年前
		の縄文時代早期の人骨と分かった。 
		牛川人は、1957年に愛知県豊橋市牛川鉱山で上腕骨と大腿骨の化石が発見され、東京大学名誉教授鈴木尚に
		よって中期更新世人類(旧人)と考えられたが、人骨の特徴を備えていなかった。 
		聖岳人は、1962年に大分県本匠村聖嶽洞穴で前頭骨片と頭頂後頭骨片が発見され、元新潟大学教授小片保に
		よって中国の山頂洞人と似ているとされたが、形態面や年代推定から歴史(江戸)時代に属する可能性が極
		めて高くなった。 
		明石人は1931年に兵庫県明石市で直良信夫によりェ骨が発見され、直良は旧人としたが学会は受け入れなか
		った。その後、人骨は戦争で焼失し石膏模型のみが残った。戦後、長谷部言人がこれを原人として論争が起
		こったが、現在ではごく一部を除き新しい時期の人骨とする意見が強い。 


邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部例会 / 関東の古代をゆく