Music:荒城の月

歴史倶楽部例会 第159回例会

深紅の城南宮を訪ねる
2010.11.28(日)京都市伏見区

		159回例会 深紅の城南宮を訪ねる
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		− 平安朝の、院政の権化たちの墓と晩秋の紅葉 −
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		<日時> 11月28日
		<集合> 近鉄奈良線「竹田駅」AM10:00
		<大阪組>
		・JR大阪09:15〜09:44JR京都駅  JR新快速湖西レジャー号・敦賀行540円
		・近鉄京都09:55出発 〜 10:00 近鉄竹田駅着 近鉄線急行・奈良行 200円
		<奈良組>
		・近鉄大和西大寺駅9:22 〜 9:56 34分 540円
		<コース>
		・近鉄竹田駅 − 鳥羽天皇陵 − 近衛天皇陵 − 白河法王陵 − 城南宮 
		 − 鳥羽離宮跡 − 田中宮跡 − 近鉄「伏見駅」 ===(もしくは歩き) 
	 	近鉄「丹波橋駅」−桓武天皇陵−伏見桃山城− 乃木神社− 近鉄「丹波橋駅」
		<見所> 以下解説

		・青字の解説のうち天皇陵に関するものは「天皇陵めぐり」から、その他はウィキペディアから転載した。


近鉄竹田駅


	竹田駅(たけだえき)は、京都府京都市伏見区竹田桶ノ井町にある、京都市営地下鉄と近畿日本鉄道(近鉄)の駅。京都市営地下鉄
	を運営する、京都市交通局の管轄駅(京都市交通局と近鉄の共同使用駅)である。近鉄では、特急を除く全ての列車が停車する(一
	時期、近鉄京都線に設定されていた快速急行も停車していた)が、1988年に地下鉄烏丸線が竹田駅まで開業するまでは、普通列車し
	か停車しなかった。

	本日の例会はここからスタートである。最初4名の参加者から、錦織さんがDROPし3人となったので、こりゃ今回は中止かなと危ぶ
	んだが、今年の9月まで同僚だった橋爪君と、高校時代からの友人で、橋爪君と同じく今年の9月で定年退職した大隈君が参加して
	くれて5人となった。二人とも今は失業保険を貰って(二人とも奥さんは働いている。)、悠々自適の生活のようだ。橋爪君などは
	もう孫がいるので、「孫と遊んどったら、時間なんかあっと言う間に過ぎてしまうわ。」と早くも爺さんの域に達している。イヤだ、
	イヤだ。
	竹田駅にくると、何と松ちゃんがいて、乾さんも来た。「なんや言うてくれんと。参加少なかったから中止したかもしれんねんで。」
	「mail出しましたよぉ−、昨日やけど。」と乾さん。皆さん、参加・不参加は早めにお願いしますね。

	今日の散策は京都市南部・伏見区である。この辺りの天皇陵は、私は一度来たことがあるが、例会では来たことがないので、古墳ば
	かり見てきた皆さんには新鮮だったようだ。多宝塔のような塔を持った近衛天皇陵や、建物の中に遺骨が治められた鳥羽天皇陵など、
	「へぇー、こんな天皇陵もあったんや。」と皆さん驚いていた。そして、明治天皇陵の巨大さには驚くやら、呆れるやらといった趣
	きだった。
	当初、城南宮・鳥羽離宮跡の紅葉を目あてにしたのだが、もう殆ど散っていてがっかりだったが、伏見桃山城内はまだ紅葉盛りで、
	何とか「晩秋の深紅の紅葉」にありついた。
	橋爪君、大隈君、また暇だったら参加してや。歴史倶楽部の会員になってくれてもええで。



 



鳥羽天皇陵

	
	近鉄竹田駅を歩き出して、ものの数分で最初の見学対象「鳥羽天皇陵」に到着。ここから近衛天皇陵は50mくらいである。昔訪問
	したときはもっと離れていたような記憶があるが、全く記憶力というものはあてにならない。


	・鳥羽天皇陵

	堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。外祖父は藤原実季。子は崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇。『古事談』の記述では崇徳天
	皇を白河天皇の実子としている。白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子体仁
	親王(近衛天皇)を即位させた。皇后美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、鳥羽法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を
	作った。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

	4才で即位。母は藤原実季の娘苡子。母苡子が没すると白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。17才の時、祖父白河法皇
	の養女で愛人でもあった待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)を皇后に迎えるが、璋子の生んだ子(顕仁(あきひと):後の
	崇徳天皇)は白河法皇の子であると言われ、その事を知っていた鳥羽天皇も顕仁を「叔父子(おじご)」と呼び、終生憎み続ける。




	
	世は白河上皇の時代であり、顕仁かわいさの白河上皇は鳥羽天皇を退位させてしまう。白河上皇が亡くなると、すでに顕仁(崇徳天
	皇)に譲位して鳥羽上皇となっていた鳥羽院は唯一の上皇となる。
	以後、院政を引き継ぎ、崇徳、近衛、後白河と続く3代28年におよぶ「鳥羽院政」が続く事になる。康治元年(1142)には東大寺
	戒壇院にて受戒し、法皇となった。  



	
	保安四年(1123)、鳥羽上皇はわずか5歳の第1皇子顕仁親王(崇徳天皇)に譲位し出家。その後、うち続く天災・飢饉・疫病を理由
	に崇徳天皇を廃し、上皇となってから迎えた皇后得子との間の皇子を皇位につけた。これが「近衛天皇」である。
	「近衛天皇」は生まれると、世継ぎのなかった崇徳天皇の養子になるが、これは鳥羽上皇の策略であった。実子に皇位を継がせるた
	めであるが、その後崇徳院に実子が誕生すると鳥羽上皇は生まれた崇徳天皇の実子を自分の養子にする。そうしなければ、「近衛天
	皇」は実現しないからである。当然崇徳院としては面白くない。しかも、「近衛天皇」が崩御した後も、自分の実子が皇位を継ぐ事
	はなかった。強大な「鳥羽上皇」に屈したのである。



	
	「鳥羽上皇」が亡くなると「崇徳院」はただちに「保元の乱」を引き起こし世の中を震撼させるが、受けた仕打ちを考えると是非も
	ないと思えてくる。作家の田中澄江が「憤怒の魔王」と呼んだ崇徳院は、その奇異な生まれの故に相当な迫害を受けるが、何もこれ
	は本人のせいではない。悪の権源がもしあるとすればそれは「白河法皇」である。すべて彼のとった行動が元で皇族内に策謀と確執
	が定着した。祖父のまねをした「鳥羽上皇」もまたその矛先を向けられるべき人物かも知れない。



	
	尚、保元の乱・平治の乱に破れた崇徳院は讃岐へ流されるが、9年間の配流生活の果てに46才で憤死する。その怨霊は「後白河天皇」
	の御代を脅かし、「雨月物語」にも西行と崇徳院の問答として残っている。
	西行法師は出家前、北面の武士として鳥羽法皇に仕えており、法皇の葬送にも参列している。鳥羽法王は鳥羽殿で崩御し、遺体は安
	楽寿院本御塔(三重塔)に納められた。


	不埒者が御門の中を覗き込んでいる。傍には椿(?)の花が咲き誇っている。泉涌寺等は別にして、確かに建物を持った天皇陵とい
	うのは珍しい。と云うか、隣の近衛天皇陵の多宝塔とあわせて、ここだけかもしれない。平安時代後期の保延五年(1139)、鳥羽上
	皇は自らの墓をここに定め、三重塔を建て、落慶法要が行われた

	現在の建物は、三重塔荒廃後に建立された法華堂である。安楽寿陵のすぐそばにある「冠石」には、鳥羽天皇が法皇になった時、冠
	をこの下に埋めたという伝説がある。 





安楽寿院



	
安楽寿院 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 安楽寿院(あんらくじゅいん)は、京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号はなし。京都の南に位置 した鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする天皇家ゆかりの寺院である。境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵があ る。 安楽寿院は京都市南郊の伏見区竹田に位置する。付近一帯は平安時代末期(11〜12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の跡地であ り、安楽寿院は離宮内に営まれた仏堂の後身である。鳥羽離宮(鳥羽殿とも言う)は、応徳3年(1086年)、時の白河天皇が退位後 の居所として造営を始めたものであった。平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川と鴨川の合流点にあたり、交通の要衝であるととも に風光明媚な土地でもあった(当時の鴨川の流路は現在よりもずっと東寄りであり、鳥羽離宮は桂川と鴨川に挟まれた土地に位置し ていた)。現在の近鉄竹田駅、名神高速道路京都南インターチェンジ付近が離宮の跡地で、東西約1.2〜1.5km、南北約1kmの範囲に 御所、庭園、仏堂などが営まれた。最初に営まれた御所は後に南殿と称され(現在の鳥羽離宮公園がその跡)、その後、北殿、泉殿、 馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台となった。


	
鳥羽離宮の各御所には白河上皇および鳥羽上皇によって仏堂が営まれた。最初に造営された南殿に付属した仏堂は証金剛院と呼ばれ、 以下、北殿には勝光明院、泉殿には成菩提院、東殿には安楽寿院、田中殿には金剛心院が造営された。鳥羽離宮内の他の御所や仏堂 が跡形もなく滅びた中にあって、安楽寿院のみが(建物は近世以降の再建であるが)、21世紀の今日まで法灯を伝えている。 前述のように、安楽寿院は鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が営んだ仏堂(本尊は阿弥陀三尊)が起源で、創建は保延3年(1137年)のこと である(鎌倉時代の史書『百錬抄』による)。当時は安楽寿院という寺号はなく、単に御堂と呼ばれていた。安楽寿院の名称の文献 上の初見は康治2年(1143年)である。阿弥陀堂建立の2年後の保延5年(1139年)、右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。 後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に 落飾して法皇となる)が保元元年(1156年)に没した際にはこの本御塔が墓所とされている。現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如 来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。その後久安4年(1148年)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院のため に別の三重塔が建てられ、こちらを新御塔と称した。なお、美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美 福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになった。


	
木造阿弥陀如来坐像 像高87.6cmの寄木造。平安時代末期に皇族・貴族の間でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな作風の仏像である。 胸の中央に卍を刻むことから卍阿弥陀の称がある。光背の中心部分と台座の大部分も当初のものである。台座は各所に宝相華文を 浮き彫りし、像表面だけでなく胎内にも金箔を押す入念な作である。台座内に天文23年(1554年)の修理銘があり、そこに「西御 塔本尊」とあることなどから、保延5年(1139年)に建てられた三重塔(本御塔)の本尊として造られたものと推定されている。 作者は不明であるが、同じ鳥羽離宮内の勝光明院などの造仏を手がけていた当時の著名な仏師・賢円の作かと推定されている。


	
安楽寿院には、他に九体阿弥陀堂、不動堂などが建てられていたことが記録から知られる。九体阿弥陀堂は前述の阿弥陀堂に対して 「新御堂」と呼ばれ、久安3年(1147年)、民部卿藤原顕頼によって建てられた。安置する九体阿弥陀如来像は鳥羽法皇の病気平癒を 祈って仏師長円に造らせたものであった(『百錬抄』による)。一方の不動堂は、久寿2年(1155年)藤原忠実によって建てられたも ので、仏師康助作の不動明王像を安置していた(平信範の日記『兵範記』による)。現在、安楽寿院の近くにある北向山不動院の本 尊不動明王坐像がこの康助作の不動像であると推定されている。


	
安楽寿院には日本各地の膨大な荘園が寄進され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院ワ子に引き継がれて八条院領と称される)と して、天皇家(大覚寺統)の経済的基盤となった。 現在の安楽寿院は、6つ存在した子院のうちの前松院が寺籍を継いでいるものである。幕末には安楽寿院が鳥羽・伏見の戦いの本営 となった。


	
その後、寺は永仁4年(1296年)と天文17年(1548年)に火災に遭い、慶長元年(1596年)の地震でも被害を受けて、創建当初の仏 堂や、鳥羽天皇・近衛天皇の陵であった2基の三重塔(本御塔・新御塔)は失われてしまった。本御塔は慶長17年(1612年)に仮堂 が建てられた後、幕末の元治元年(1864年)、瓦葺き宝形造屋根の仏堂として再興された。この建物は安楽寿院西側に現存し、鳥 羽天皇安楽寿院陵として宮内庁の管理下にある。一方の新御塔は豊臣秀頼により慶長11年(1606年)多宝塔形式で再建されたもの が寺の南側に現存し、近衛天皇安楽寿院南陵としてやはり宮内庁の管理下にある。天皇の陵墓に多宝塔を用いる稀有な例である。








このあたり一帯が鳥羽離宮の跡である。広大な地域に京都のような都が造られていたのである。





	
	境内には大師堂、阿弥陀堂、書院・庫裏などが建つがいずれも近世以降のものである。本尊を安置する阿弥陀堂よりも弘法大師
	(空海)像を安置する大師堂の方が規模が大きい。

	大師堂 - 慶長元年(1596年)の地震で倒壊した新御塔の材を用いて建てたものという。 
	阿弥陀堂 - 本尊阿弥陀如来坐像を安置する。昭和34年(1959年)の建立。 
	書院・庫裏 - 寛政7年(1795年)の建立。 
	五輪塔 - 境内北西の老人ホーム前にあり、弘安10年(1287年)の銘がある。 

	石造三尊像3点
	釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊と呼ばれる3点の石仏で、平安時代末期の作。鳥羽離宮内にあった成菩提院跡から江戸時代に出土
	したものという。石質がもろいため剥落が激しい。釈迦三尊と薬師三尊は大師堂手前の小屋内にあり、もっとも保存状態のよい阿
	弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託されている(博物館の前庭に設置されている)。 



紅葉はもう終わりかけである。それでも最後の葉っぱたちが最後の色彩を輝かせている。晩秋の紅葉はまさに「深紅」と呼ぶにふさわしい。





近衛天皇陵


	
	・近衛天皇陵

	生母の美福門院が鳥羽天皇の寵愛を受けていたため、わずか2歳で崇徳天皇と代わって即位した。治世中は鳥羽法皇が院政を敷
	いた。だが、病気がちで15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23
	日条)。
	17歳で若死したため子は無く、皇位を巡って鳥羽と崇徳上皇が対立したことから保元の乱が起こる。ちなみに、彼の死は藤原
	頼長の呪詛によるものという噂が流れたという事もあったらしい。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



	
	生後間もなく、異母兄である崇徳帝の皇后・聖子の養子となり、立皇太子する。鳥羽法皇は、(白河法皇の子ではなく)自分の
	ほんとの皇子躰仁(なりひと)親王が生まれると、これを次代の天皇とするためにむりやり世継ぎの無かった崇徳天皇の養子
	(皇太弟)にした。
	ところがその翌年崇徳天皇に皇子が生まれ、躰仁親王の廃太子をおそれた法皇は、今度は崇徳帝の皇子を自分の養子とした。
	躰仁親王はわずか3才で「近衛天皇」となるが幼時より病弱で、17才の時眼病が元で崩御する。



	
	崇徳上皇は、鳥羽法皇の養子となった重仁親王に「近衛天皇」の次を譲りたいと願うが、鳥羽法皇の強大な力に屈しそれはかな
	わなかった。「近衛天皇」の病死は、一書によれば崇徳上皇側の呪詛によるものとされているが、これも全て「鳥羽法皇」の策
	略によるものであった。天皇の早世を崇徳上皇らの呪詛によるものとする鳥羽法皇によって崇徳上皇の願いは退けられ、天皇の
	異母兄で法皇の第4皇子、上皇の同母弟でもある雅仁親王(後白河天皇)が即位した。このことが、後の乱世を誘発する大きな
	要因となる。



	
	この天皇陵は他と違って多塔仕立てになっている。美福門院(鳥羽天皇皇后:近衛天皇の母)が建てたものだが、豊臣秀頼が再
	建したと縁起にある。権謀術数渦巻く中、17才で崩御した可愛い我が子を偲ぶ母の心根がせつない。



	
	まるで、高野山にあるような多宝塔が鳥居の後ろにデーンとそびえている。こんな塔を持っている天皇陵はこの天皇くらいだろう。
	多宝塔は、鳥羽天皇の皇后で近衛天皇の母である美福門院 藤原徳子により建立され、近衛天皇の遺骨が納められた。現在の多宝塔
	は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼により再建された。



	
	白河天皇も鳥羽天皇も、言うなれば好き勝手して死んだので、それはそれで悪評は残ったが本人達は満足していたかもしれない。
	だが可哀想なのはこの近衛天皇である。僅か二歳で即位し、生れ付きの病弱もあって、十七歳で崩御するまで殆ど内裏を出たことは
	無かったのではないかと思われる。




























ここにある不動明王も鳥羽離宮時代の名残なのか。





白河天皇陵


	
	・白河天皇陵

	後三条天皇の譲位を受け、異母弟実仁親王を皇太弟と定めたが、応徳2年(1085)実仁親王の病没により、皇子善仁親王(堀河
	天皇)を皇太子として譲位、自らは白河上皇となった。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳の各天皇が幼少で即位したため、以降も43
	年に渡って政治の実権を握り続けた。
	また、院の護衛として「北面の武士」を創設。その一方で仏教に傾倒し、永長元年(1096)出家して法皇となった。  

	近鉄電車で京都から奈良へ向かって12,3分の「竹田」駅付近に、白河」「鳥羽」「近衛」という「院政の権化」とも言うべき平
	安時代後期天皇達の陵墓がある。
	出家して院政を開始した「白河天皇」は、「法王」と」なっても戒壇にて受戒せず、法名も名乗らず、息子の「堀河」、孫の
	「鳥羽」、曾孫の(実際は息子と言う説が有力)「崇徳」天皇と、三代43年に渡って「院政」をしいた。平安京の真南に離宮を
	造営し(鳥羽離宮)、その豪壮さは当時の日記によると「さながら遷都(みやこうつり)のごとし」と表現されている。専横と
	執権の限りを尽くした好色な「白河法王」も、やがて「崇徳天皇」の御代に77才で生涯を閉じる。
	その御陵はいま道路と田圃に囲まれている。




	この時代以降の天皇達は、藤原政治の終末期、源氏・平家を筆頭とする武士集団の台頭という端境期(はざかいき)にあって、
	いわゆる「院政時代」とでも言うべき皇室内の権力掌握に明け暮れる。天皇は幼くして即位し、そのため実権は上皇・法皇にあ
	り、「天皇」は名ばかりで上皇、特に法皇が全てを支配していた。
	その端緒を築いたのがこの「白河法皇」である。「白河法皇」は60才で10才そこそこの、権大納言藤原公実の娘「璋子(たまこ)」
	(後の待賢門院)に手をつける。そして「璋子」が17才になった時、自分の孫の15才の「鳥羽天皇」に押しつけるのである。
	生まれたのが「顕仁(あきひと)親王」(後の崇徳天皇)という事になる。
	表向きは結婚した「鳥羽天皇」と「璋子」の第一皇子でありながら、誰もが「白河法皇」と「璋子」の間に生まれた子だと信
	じて疑わなかった。実際、「鳥羽天皇」は「崇徳天皇」の事を「叔父子(おじご)」と呼んで、生涯憎み続けたと伝えられる。
	その後「鳥羽天皇」と「璋子」の間には、数人の皇子皇女が生まれるのであるが、その内の何人かは「白河法皇」と「璋子」
	の間に生まれた子ではないかと疑われている。
	このあたりの確執から、「崇徳上皇」は「鳥羽法皇」が崩御すると同時に挙兵する。「保元の乱」(1156年)である。「崇徳上
	皇」派と「後白河天皇」派の二つに割れた天皇家に、藤原氏、源氏、平家もそれぞれ二分して戦うが、結果は「崇徳上皇」派
	の敗北となり、上皇は讃岐へ流される。




	白河天皇は、初め中宮賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前の間で記録に残っている妻妾は、女御藤原道子・典侍藤原経子
	程度であり数は必ずしも多くない。しかし、賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持つなど女性関係が乱れ、加
	えて関係を持った女性を次々と寵臣等に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時広く
	流布され信じられる原因ともなっている。しかし、最近の学説では、それが単に噂だったのか真実だったのかは不明という意見
	が多い。また、白河法皇は男色の趣味もあったらしく、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面の武士の藤原盛重・平
	為俊はいずれも寵童の出であった。



以前ここに来たときは、周りは田んぼで、建物も殆ど建っていなかったのだが、今は結構な街中になっている。数年で変貌を遂げている。



	
	この天皇ほどめちゃくちゃしている天皇はいない。愛人を孫に押し付けるなどとても常人の発想ではない。さらには押し付けた
	後も関係を続けて、できた子を幾人も孫の子供として養育させるなど、一体頭の中はどないなっとったんや、といいたくなる。




	「院政」を開始した権力者として「白河天皇」は世に知られるが、実は系統に不信と疑心暗疑を植え付ける事になった張本人
	でもある。鳥羽天皇からも、崇徳天皇からも、そしておそらくは「璋子」からも憎まれたのではないかと推測される。



城南宮


	
	・城南宮	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	城南宮(じょうなんぐう)は、京都市伏見区にある神社である。式内社で、旧社格は府社。「方除の大社」として知られている。

	(祭神)	息長帯日売命(神功皇后)、八千歳神(大国主神)、国常立尊を主祭神とし、他に天照皇大神、品陀別命、別
			雷神、大山咋神、天児屋根命、宇気毛智神を祀る。

	(歴史)
	創立年代は不詳である。この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千
	戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。平安遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にある
	ことから「城南神」と称された。
	白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部とされ、代々の天皇、上皇がしばしば行幸した。また、貴族違の宿
	所となり、京都御所の裏鬼門を守る神とされたことから、方除け、厄除けの神として信仰されるようになった
	応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代に復興された。幕末には鳥羽伏見の戦いの戦場となった。文久3年(1863年)に孝
	明天皇が攘夷祈願に行幸した。
	明治10年、式内社「真幡寸神社」に比定され、社名を「真幡寸神社」に改称した。昭和43年に「城南宮」に復し、「真幡寸神社」
	はその境内摂社として、境内に新たに社殿を設けて奉祀されることになった。



上の写真からガーッと引くと下のようになる。意味判る?









「まわた、ん?」 何て呼ぶんだったっけ。聞いたけど忘れてしもうた。



	
	この祠堂は天満宮となっているが、石柱には「唐渡」となっている。どんな由緒なのだろうか。「こりゃ、渡来人のお宮やで」
	「でも天満宮となってるで。」「何やろね?」



絵馬堂に掲げてある奉納額。宮司さん、理事長の名前も驚いたことに「鳥羽」さんである。







	
	鳥羽・伏見の戦い	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆


	鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった
	戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

	慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を建白した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、
	天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている。しかし諸国の大名が様子見をして上京し
	ないまま諸侯会議は開かれず、また、旧幕府旗本や会津藩などの過激勢力は薩長討つべしと息巻き、旗本の中には無許可で上京
	してくるものも相次いだ。
	これに対し、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍・徳川慶喜に対
	し辞官納地を命じた。翌日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶
	喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。実際この通告を受けて配下の過激
	勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月12日深夜には政府に恭順の意思を示す
	ために京都の二条城を出て、翌日、大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだ
	ろうという見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。

	12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただ
	ちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可
	能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。
	岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。
	再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも
	合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。

	しかし、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行い、12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこ
	の報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4(1868)年元日、慶喜は討薩表を発し、1月
	2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府
	歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
	慶喜出兵の報告を受けて政府に緊張が走り、3日(1月27日)から緊急会議が召集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍
	の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私
	闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の
	大勢は決した。
	
	3日夕方には、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こ
	えると伏見でも衝突、戦端が開かれた。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5千名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍1
	万5千名を擁していた。しかし旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射
	撃によって前進を阻まれた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間
	近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大
	隊規模(約8百名)に敗れた。

	翌4日は前線では一進一退の戦闘が続いたが、4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。
	(岩倉具視・薩摩藩は錦旗となる旗を事前に作成しており、戦闘に際して朝廷にこれの使用許可を求めたことをもって「薩長は
	錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可の結果掲げられたものであり、偽造説は公正さを欠いている。)5日、旧幕府
	軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし
	淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ(ただし、藩主である老中稲
	葉正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒絶された旧幕府軍は同日淀千両松に布陣し新政府軍
	を迎撃したが惨敗し、淀城下町に放火を行い、八幡・山崎へ撤退する。この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一
	人であった井上源三郎が戦死する。

	6日、幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率
	いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍
	にあった。
	しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧
	幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷、
	新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷、同吉村貫一郎が行方不明となった。会津藩士で、坂本竜馬を斬った下手人ではないかとの
	説もある、佐々木只三郎は、後死亡した。重傷を負った山崎烝もその後紀州湾沖にて死亡した。

	6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底交戦を説いたが、その夜僅かな側近
	と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽
	丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。
	際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容
	保に恭順策を進言したとされ、これが将軍の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのよ
	うな形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったた
	め、会津藩内の抗戦派から睨まれるかたちとなり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。

	7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂
	一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。1月25日、列強は局外
	中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。

	旧幕府方は1万5千人の兵力を擁しながら緒戦にして5千人の新政府軍に敗れた。両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者
	名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、
	北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。







	
	毎年新聞記事になる「曲水の宴」が行われる庭苑は有料で、みんな、掲示板に会った庭苑の写真を見て、「もうこれで庭も見た
	ことにしよう」と庭園見学はパス。ここを見なければ意味が無いような気もするが。







	
	本殿の周りに、合祀してある神々たちの祠がある、それらを熱心に拝んで廻っている中年カップルがいた。それを見て冷ややか
	(?)に通り過ぎる松ちゃん。















紅葉が綺麗だというので記念撮影(上)。しかしもっと綺麗な紅葉があって、それには美女が似合うね、やっぱし(下)。





	
	最初ここで昼食を予定していたが、七五三参りの参拝客等々で境内は一杯で、とてもここでは弁当を広げるのは無理だなという
	ことで、鳥羽離宮跡公園へ向かうことにする。





鳥羽離宮跡


	
	・鳥羽離宮	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	鳥羽離宮(鳥羽殿<とばどの>)は,白河天皇(1053〜1129)が創建した譲位後の御所。現在の京都市南区上鳥羽(かみとば),伏見区
	竹田・中島・下鳥羽(しもとば)一帯にあった。鳥羽上皇(1103〜56)の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用され
	た。敷地は約百八十町( 180万平方メートル)。鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には,それぞれ
	御堂が附属し,広大な池を持つ庭園が築かれた。
	讃岐守高階泰仲(たかしなのやすなか)ら受領層(ずりょうそう)が造営を請負い,資材が諸国から集められた。また,院の近臣を
	はじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,仏所や御倉町(みくらまち)なども造られたので「あたか
	も都遷(みやこうつり)の如し」だったといわれている。
	院政期の鳥羽は,京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったが,南北朝の内乱期,戦火により多くの殿舎が焼失
	し,その後急速に荒廃していった。昭和38(1963)年の名神高速道路京都南インターチェンジ建設以後,附近一帯の景観は一変し
	た。



ここも鳥羽伏見の戦いの戦場だった。







	
	鳥羽離宮跡公園は、野球少年たちのゲームで真盛りだった。昼食をとった東屋の下にある浅い池には、まるまる肥えた鯉たちが、
	うじゃうじゃいた。

























	
	ここから近鉄「伏見駅」を目指す。近鉄に乗って「丹波橋駅」まで行き、桓武天皇陵へいくのだ。駅まで歩いていて、何か町の
	雰囲気が変だなと思っていた。「xxxセンター」とか「xxxx相談所」とか立派な建物は幾つかあるのだが、電気も点いていず、
	人影も全く見えない。大きな町営の銭湯らしきものがあったが、そこも全く人影がなかった。そのあたり一帯は同和地区だった
	のだ。複雑な思いを抱いて町を通り過ぎる。



「伏見駅」から「丹波橋駅」まで、150円区間の一駅である。しかし私も含めて、誰も「歩こう」という者はいなかった。



桓武天皇陵



	
	丹波橋から桓武天皇陵の入り口まで15〜20分ほど歩く。入り口に取り付いても、そこからまた10分ほど、立派な木立の
	中を歩いてゆく。さすがに長岡京から京都へ遷都した天皇だけあって、その御陵も立派である。高い木立の上に、裏にある伏
	見桃山城の天守閣がチラッと見えている。



	
	・桓武天皇陵

	光仁天皇の第一皇子で、母は百済系渡来人の高野新笠。井上皇后による呪詛事件のあおりで他戸親王が廃太子され、皇太子と
	なった。病に伏した父光仁天皇の譲位を受けて即位した。最初弟の早良親王を皇太子とするが、藤原種継暗殺事件にからんだ
	として廃太子し、皇子安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。桓武天皇即位の裏には、藤原式家の後押しと策略があ
	った。



	
	数次に渡って大規模な征夷軍を派遣し、東北地方に版図を拡大する。また、784年長岡京に遷都するが、長岡京の造営長官だ
	った藤原種継が暗殺されるという事件が起き、桓武天皇弟の早良親王が関係ありとして捕縛される。
	早良親王は無実を訴え断食をし、護送中に死去する。その後、凶事が続いたため、早良親王のたたりだと噂され、不安にか
	られた桓武天皇は、和気清麻呂の進言もあって、794年、再び遷都を行った。平安京である。
	国名も「山背」から「山城」に変更され、この時から1200年におよぶ平安時代が始まる。平安京は唐の長安を手本にし、
	唐からの風水思想を元に都が設計されたとされている。



	
	桓武天皇には少なくとも23人の妃と36人の皇子女がいたとされ、「続日本紀」40巻の編纂も行っている。遷都と言い、
	国史の編纂と言い、歴代天皇の中でもまれにみる強力なリーダーシップを発揮した天皇だったが、そんな天皇でも「怨霊」
	は怖かったのである。



	
	一般に、桓武天皇御代のエピソードとして有名なのは「平安京遷都」である。1200年にわたる「京都」の繁栄を築いた人物と
	して知られている。受験勉強で、「鳴く よ(794)うぐいす平安京」と覚えた人は多いだろう。少し歴史に詳しい人だと、
	「蝦夷征伐」「長岡京遷都」も加わる。そしてもっと歴史に詳しい人だと、どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都
	を繰り返したのかについて、それが「怨霊」のせいだと知っている。
	実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元彦が「逆説の日本史」の中
	で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようやく認識されようと
	している。



	
	哲学者の梅原猛はずいぶん前からその事を指摘していたが、多くの歴史学者達は「怨霊」を持ち出すことすらまともな学問の
	方法ではない、という態度を長い間とりつづけていた。しかしここに来て、度重なる遷都や追尊(死後の追任)についての説
	明が、「怨霊の祟りを怖れて」と考える方が一番合理的だと考えられるようになってきた。勿論、まだそんなものは科学的で
	ないと頑迷に否定する人たちもいるが、古代の為政者達が「怨霊」を怖れていた事、そしてそれによって多くの政策決定を行
	っていたことは、今日もはや動かしがたい事実である。



	
	父光仁(こうにん)天皇の后(きさき)井上内親王(桓武天皇には義母)は、30代を過ぎて光仁天皇に嫁ぐのだが、それまで
	は伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)の姫であった。嫁いでからも加持祈祷をかかさなかった為、ある時それが天皇呪詛の祈祷
	であるとの疑いを掛けられ、我が子他戸王(おさべのみこ)とともに処刑された。



	
	今日この事件は、山部親王(桓武天皇)を推す藤原良継や藤原百川らの謀略と言うことになっているが、相次ぐ異変や天変地
	異を見て桓武天皇はこの二人の「怨霊」のせいと信じ、これを怖れるのである。
	また、桓武天皇の実子安殿(あて)親王の立太子の際、桓武の実弟早良(さわら)親王は讒言により謀反の疑いをかけられ憤
	死した。あらゆる変事が彼らの「怨霊」のせいであると世間でも取りざたされ、桓武天皇は遷都を重ねる。「怨霊」に悩まさ
	れたあげく、天皇は晩年、廃皇后とした井上内親王を復権させ、また早良親王にも「崇道天皇」の称号を送った。しかし、飢
	饉、大洪水等の変事はその後も続き、「怨霊」の影におびえながら2年後70才でその生涯を閉じた。



	
	桓武天皇陵には「陵墓参考地」がある。これは、「もしかしたらこっちがほんとの天皇陵かもしれない」という場所である。
	古くからの言い伝えである場合が一番多い。桓武天皇陵もこっちではないかという場所が「大亀谷」にあり、現在の桓武天皇
	陵の裏手にある伏見桃山城をグルッと廻って歩いたところにある。この陵から30分は歩く。







	
	ここに「明治天皇陵まで15分」とあったので、せっかくだし寄って行こうという事になる。また木立の中を延々と歩く。今
	度は長い。15分くらい歩いて、明治天皇陵の参拝道へでる。ここからまた10分は歩く。途中の路肩に、伏見桃山城に使わ
	れた石が展示(?)してあった。どこかの団体さんがいっぱい居た。どうやら「御陵印」も貰っていた。そっち方面の団体さ
	んなのかな。

明治天皇陵

	
	第122代 明治天皇陵	伏見桃山陵 京都市東山区

		【第122代 明治(めいじ)天皇】
		異称:  睦仁(むつひと)
		生没年: 嘉永5年(1852) 〜 明治45年(1912)(61歳)
		在位:  明治元年(1868) 〜 明治45年
		父:   孝明天皇
		母:   中山慶子
		皇后:  一条美子 
		皇妃:  柳原愛子、葉室光子、橋本夏子、千種任子、園祥子
		皇子女: 稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、薫子内親王、敬仁親王、嘉仁親王(大正天皇)、
			 韶子内親王、章子内親王、静子内親王、猷仁親王、昌子内親王、房子内親王、允子内親王、輝仁親王、
			 聡子内親王、多喜子内親王
		皇居:  江戸城(えどじょう:東京都千代田区)
		御陵:  伏見桃山陵 ふしみのももやまのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町古城山)



	
	この天皇陵は歩いて行くにはどの駅からも遠い。近鉄・京阪「丹波橋」駅、京阪「中書島」駅、どこからも30分はかかる。
	今まで見た天皇陵の中で一番デカい。桓武天皇陵から杉木立の中を相当歩いて行く。20分程は歩いただろうか。陵は円墳
	である。完全に古墳時代を意識した墓に戻ってしまった。


上が、伏見城の石垣に使われていたと思われる石材。
	
	孝明天皇の突然の死を受けて16才で践祚(せんそ)。慶応3年(1867)10月、徳川慶喜は大政を朝廷に奉還し、これを受
	けて「王政復古」の大号令を発した。翌4年「五箇条のご誓文」を定め、年号を「明治」とし東京に遷都した。明治政府は、
	近代国家の礎造りにこの天皇を徹底的に利用した。天皇制が確立して以来、政府によって勤務時間(AM10:OO〜PM 4:00)が
	定められたはじめての天皇となって、その行動は拘束された。



	
	明治政府は、幕府が倒れ雄藩による混合新政府の混乱を治めるためにも、また挙国一致のスローガンの元、国民を政府の路
	線に従わせるためにも、天皇を「天照大神」直系の「現人神」として崇め、精神的支柱とすることで国体を富国強兵へ駆り
	立てていった。
	「天皇=神」という普遍的な観念の元、日本は日清・日露の戦争に勝利し、以後「神国・皇軍」という観念も定着する。
	61才で崩御するまで46年間在位した。



	
	この天皇は、皇后との間には皇子はない。「皇統譜」には15人の皇子・皇女が記されているが全て5人の女官を母として
	いる。その為、他にも所謂御落胤があった事は容易に想像できる。事実、昭和30年代になって自称「明治天皇の御落胤」
	がマスコミに数人登場しているが、いずれも公式には黙殺され続け、やがて言及する者もいなくなってしまった。「面白う
	て、やがて悲しき・・・」である。



	
	仁徳天皇陵などの古墳時代の古墳を除けば、おそらくこの明治天皇陵が一番大きい天皇陵だろう。みんな、明治になって天
	皇も江戸(東京)へ行ったので、その御陵も東京にあると思っていたようだ。「へぇー、京都にあったんか」とか「全然知
	らんかったなぁ」などとしきり。



	
	南に宇治方面が望める素晴らしい眺望。橋爪君が、自宅のある奈良方面を眺めている。石段はえらく急だ。これを転がり落
	ちたらまず助かるまい。ここを上り下りしてトレーニングしている高校生たちがいたが、我々にそれをやれと言われたら、
	おそらく死ぬだろうな。




	明治天皇陵(石段の上)から明治天皇の奥さん、昭憲皇后陵へ降っていけるが、えらく急な坂で降りきったところに陵があ
	る。明治天皇と同じように円墳の格好をした墓だが、この日はもう疲れたのか、誰も下って行こうとはしなかった。
	非国民たちめ。

	昭憲皇太后は嘉永3年(1850)、一条忠香(ただか)の第3女として誕生した。一条家は藤原家の分家で、遠祖は藤原道長
	である。幼少時より資性聡明で、仁慈、博愛、謙譲、貞節と言う言葉が並び、尊くも美わしい婦徳のかがみと仰がれている
	(学習院案内)。殊に女子教育の奨励と博愛、慈善事業について、大きな役割を果たしている。日本赤十字社の設立にも多
	額の援助を行い、お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立にも努力した。明治元年12月28日入内後、
	皇后の宣下(せんげ)があり明治天皇の皇后となった。大正3年4月11日崩御。



伏見桃山城











疑似「大手門」(復元ではない。)





	
	・伏見桃山城	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。伏見
	城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいと
	するため指月山に建設を始めた。このとき築かれたものを指月山伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城
	と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期
	とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。







	
	秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をと
	った。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大
	半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院など複数の寺
	で天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血痕の残る血天井として現在も生々しい血痕を見ることができる。
	ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない。


鳥居元忠・肖像画/精忠神社蔵







	
	焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。このとき建物や部材は
	二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、
	やがて伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。伏見城跡は伏見奉行所のもとで管理され、幕末まで立
	入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は無許可で
	の立入りが禁じられている





模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっている。



	
	現在の天守閣はキャッスルランド開園時に遊園地の売りとして作られた、模擬天守と呼ばれる物だが、秀吉が建設した伏見城
	をモデルに作られ40年以上経っている。本物の伏見城は廃城となり、今は存在しないが、伏見城の遺構は全国各地の建築物に
	移築されている。近くで言えば御香宮神社の大手門などがそれに当たる。天守閣は、本当はキャッスルランド(遊園地)が閉
	園になる時取り壊されるはずだったが、市民の要望により、伏見のシンボルとして残された。遊園地キャッスルランドは、
	2003年 1月に閉園となり、その跡に新しくできたのが伏見桃山城運動公園である。現在の伏見桃山城エリアは昔の伏見城花畑
	跡である。



	
	ウィキペディア( Wikipedia)の解説にもあるように、伏見城は、歴史的には豊臣秀吉が自らの隠居所として京都伏見に築い
	た隠居屋敷を第一期とし、その場所は現在の桃山御陵の南西、指月の岡だとされている。文禄元年(1592)、豊臣秀吉は関白職
	を秀次に譲り、隠居所を造営し始める。散策して自ら選んだと言う宇治川河畔の、当時から観月の名所だった指月山に築かれ
	(現在そこには京阪電車の「観月橋駅」がある。)、指月屋敷とか、太閤隠居所、太閤隠居城とか呼ばれていたようである。
	豪壮華麗な城ではなく、あくまでも隠居所として「邸宅」の性格が強かったようだ。文禄2年(1593)9月に、ここで伊達政
	宗と対面したり、徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなどしているので、概ね1年で完成したものと思われる。

	そこを城郭を持った城に発展させたのが(これを伏見指月城と呼ぶ。)、第二期の伏見城である。文禄二年(1593)に側室淀殿
	が秀頼を生むと、おそらくは大阪城を秀頼に与え自らの城が無くなるので、隠居所として造営した第一期の伏見城を自らの居
	城とするため、大改修を施したのではないかと推測されている。この城は、明からの冊封使饗応の施設として更に豪華に修築
	されていたが、慶長元年(1596)に起きた大地震によってほぼ全壊してしまう。秀吉は直ちに伏見城再建を開始するが、それは
	指月の岡ではなく、その東にある一段と高い木幡山が選ばれた。現在の明治天皇陵のある場所である。これが第三期で、この
	時の城の名前を便宜的に、伏見木幡城、或いは伏見木幡山城と呼ぶ。秀吉は慶長二年(1597)に後事を秀頼と五大老に託し、翌
	慶長三年(1598年)八月十八日、伏見城で没した。

	伏見指月城、伏見木幡城、或いは、伏見木幡山城という名前は、いずれも学術的に区分する為に付けられた名前で、一般には
	単に「伏見城」と呼ばれるだけである。今日言う伏見桃山城という名前の城が、歴史的に存在していた訳ではないのだ。
	また、木幡山へ移動した後、秀吉が死んで伏見城は一旦破壊されるが、その後徳川家康によって使われることになる。秀吉死
	後、伏見城は徳川家康の家来、鳥居元忠が預かるが、慶長五年(1600)関ケ原の前哨戦として、石田三成らがこれを攻め落とし、
	第三期の伏見城は焼失した。



	
	関ケ原の後、家康はすぐさま伏見城を再建し、慶長八年(1603)に、この伏見城にて「征夷大将軍」の宣下を受けるのである。
	これが伏見城の第四期である。さらに慶長十年(1605)には、秀忠も伏見城にて将軍宣下を受けるが、秀忠はその五年後、元
	和六年(1620)に伏見廃城を決定する。しかし三代将軍家光は、伏見城にて将軍宣下を受けるため、解体しかかっていたもの
	を再び改修することになる。その後伏見城は本格的に廃城となり、建物・石垣は解体された。その後江戸時代を通じての伏見
	城がどういう状態であったのかはよく分からない。伏見城の研究自体が、現在このあたり一帯を宮内庁が管轄しており、発掘
	調査などは一切認められていないので、遅々として進んでいないのが現状だ。
	明治45年(1912)明治天皇の伏見桃山陵が、大正三年(1914)には昭憲皇太后の伏見桃山東陵が造営され、城跡全体が桃山陵墓地
	となり、一般人の立ち入りは禁止された。

	伏見城を研究する上では、ここのところが非常に重要である。何故、家康、秀忠、家光という初期徳川家の重要人物、いわ
	ば徳川300年の礎(いしずえ)となった人物達がこの伏見城で「将軍」となったのか。或いは、なることを希望したのか?
	家光などはもう立派な江戸城があるのだから、天皇の使者を江戸で迎えてもいいはずである。親父の秀忠が毀し掛かっている
	ものを、何故また再建する必要があったのか。天皇から「征夷大将軍」の宣下を受けると言うことは、日本のトップに就任す
	る、一世一代の晴れがましい式典のはずだ。それが何故「伏見」なのか?

	それは後の発掘調査の状況を見て貰えば判るが、当時は伏見が日本の首都だったからである。晩年の秀吉が移ってきて伏見は
	大阪に変わって日本の中心になった感がある。伏見城を中心にして大名屋敷が廻りを取り囲み、広大な城下町も形成されてい
	た。その城下町の繁栄の様子は、数次にわたる発掘調査で確認されているし、残された多くの絵地図や文献もそれを示唆して
	いる。しかしながら、肝心の伏見城の概要がいまだ不明であるし、築城から廃城までの全期間は30年ほどであって、秀吉は
	大坂城と伏見城を行き来していたが、晩年の伏見在城期間はわずか4年であった。
	また当時は、何よりも日本中が「関ヶ原の戦い」を中心とした激しい動乱期にあったので、いわば日本史上からすっぽりと抜
	け落ちた「幻の首都」なのである。
	これをテーマにして研究に取り組めば、或いは日本史上に画期的な発見をもたらすかもしれないのだが、見てきたように、伏
	見城の発掘はままならないし、市街地はもうそれを確かめるすべはないほど都市化していて、現状ではこのテーマそのものが、
	「幻」であると言えよう。



	
	伏見城の城下町には、現在でも「桃山町毛利長門西」など人名の屋敷跡と町名表示が同じであった場所が散見できる。

	町名からわかる伏見武家(屋敷)名 

	遠山民部 板部岡江雪斎 藤堂高虎 根来愛染 山口直友 板倉重宗 本多正純 秦長老 石田三成 徳川家康 伊達政宗 細川忠興 
	福島正則 毛利輝元 鍋島直茂 金森可重 羽柴長吉 筒井定次 井伊直孝 水野忠鼎 最上家親 長束正家 山岡景友 生駒親正 
	大友義統 蜂須賀至鎮 浅野長政 村上義明 宮城豊盛 杉原長房 平野長泰 加藤清正 佐野房綱 大島光義 前田利家 仙石秀久 
	谷衛友 前野長康 山中長俊 池田輝政 島津氏 松平氏 南部氏 関氏 
 
	これら地名から推察されている屋敷名は、豊臣秀吉時代の家臣団だけでなく、徳川家康の家臣団も含まれているが、大半は豊
	臣秀吉時代の大名達である。
	城下町にはもともと伏見九郷という村落があったが、住民は築城にさいして強制移住させられたと伝わっている。大きさは東
	西に約4km、南北に約6kmという広範囲なもので、尾張国中村の住人や、京、大坂、堺、尼崎の職人や商人を居住させた
	結果、人口は約6万人の大都市が誕生し、一部土塁と堀で囲まれた惣構えとなっていた。『京の城』によると、「後に全国で
	誕生する城下町の原型になったと考えられます」として、伏見城の城下町が近世城下町の先駆であったと指摘している。


	尚、伏見城築城の段階を、徳川期を2つに分けて、全部で5つに分ける意見もある。

	伏見城の時代区分第2期
	
	第1期 	豊臣秀吉の隠居屋敷の造営	1592年(文禄元年)-1593年(文禄2年)

	第2期 	豊臣秀吉の指月の岡と向島築城	1594年(文禄3年)-1595年(文禄4年)

	第3期	豊臣秀吉の木幡山築城		1596年(慶長元年)-1600年(慶長5年)

	第4期	徳川家康の木幡山築城再築 	1600年(慶長5年)-1606年(慶長11年)

	第5期 	徳川秀忠、家光の改修・破却	1607年(慶長12年)-1623年(元和9年) 


	城跡に関しては、発掘調査が容易ではないが、城下町に関しては数次の発掘調査が実施されている。1991年(平成3年)に行わ
	れた発掘調査では惣構えの濠が発見され、濠は幅34mとなっていた。また北濠でも、幅70mを超える濠跡があり、石垣も検出で
	きた。桃山町伊賀でもV字をした素掘りの濠が見つかっている。用途と場所に応じて石垣の使用と濠の形を分けていた可能性が
	ある。また他の場所でも、徳川時代の遺構や大名屋敷の門跡や階段跡などが発見されている。







	
	この城からは、非常に沢山の金瓦が出土している。金瓦とは瓦の上に漆を塗り、その上に金箔を貼っている。金瓦の種類とし
	ては、飾瓦、鐙瓦、宇瓦、鬼鯱瓦、小菊瓦、熨斗瓦がある。城の殿舎だけではなく、城下町にあった大名屋敷にも葺かれてい
	たようだ。京都市埋蔵文化財研究所には、出土した金瓦が陳列されていて、いつでも見学できる。









	
	また伏見城下町には、日本発祥の地である「造幣局」銀座があった。徳川家康が直轄としていた鉱山の主要なものとして、石
	見大森銀山、但馬生野銀山、佐渡金山、伊豆金銀山、常陸金山があげられる。これら主要鉱山を直轄地とするとともに、慶長
	6年(1601)、大坂より大黒常是を招き「慶長豆板銀」「慶長丁銀」の鋳造を開始し、全国統一貨幣として流通した。











	
	上記の図は、2009年2月20日に行われた、宮内庁書陵部が管轄する「伏見御陵」域内への「立ち入り調査」の範囲を図
	示したもの。「立ち入り調査」とは文字通り「立ち入る」だけの調査で、発掘したり、木々を切ったりして地形を再現したり
	は勿論出来ない。ただ歩き回って目と足で調べるだけの調査である。16の歴史学会・協会が参加して行われた。度重なる学
	界の要請に、宮内庁は重い腰を上げて、最近幾つかの古墳や御陵でこいう調査を許可している。何もやらないよりはマシだが、
	もっと本格的な学術調査を実施して貰いたいものだ。「幻」の伏見城の全貌も、是非明らかにしてほしい。

	この調査で、敷地内に4−5mの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであ
	ることから、未発見の古墳ではないかともいわれている。また非常に新しい砲台のようなものもあったとの報告があるが、こ
	れはここに日本陸軍の駐屯地があったようなので、その時の名残ではなかろうか。

	私の属する「大阪歴史学会」が発行する機関誌「ヒストリア」の今月号(第222号:2010年10月)と前回号(221
	号:2010年8月)は、「伏見城」の特集である。2,3の資料はここから転載させてもらったが、今回の「立ち入り調査」
	の報告も載っている。日本史上ではほんの一瞬の出来事かも知れないが、伏見城とその城下町がかって、大阪にも匹敵するよ
	うな、「大都市」の構造と機能を持っていたというのは、正直私もこの特集を読むまでしらなかった。豊臣政権が崩壊して、
	徳川幕府が本格的に開始するまでの、いわば「伏見幕府」とも呼べるほどの町だったという意見には驚いてしまった。















	
	松田さんが、持って帰って鉢植えするためにもみじの苗を探している。昔、御所でも同じような紅葉の中を歩いて、その時みん
	なでもみじの苗を持って帰ったのだが、結局ちゃんと根付かせたのは東京へ帰った河原さんだけで、松ちゃんは再挑戦しようと
	しているのだ。





見事に赤い紅葉だ。紅葉に囲まれたお城の周辺を歩いて、今シーズン最後の紅葉を楽しむ。







	
	戦前・戦中、ここには日本軍の営倉が建っていたのだ。してみると、伏見城を建設する基礎はあったのかもしれない。この大
	きな石碑は、自然に倒れたのか或いは誰かに倒されたのか、再び立て直す様子はなさそうだ。









	
	伏見桃山城の紅葉はすばらしかった。最後に深紅の輝きを見せていた。消え去る前のローソクの明かりのような感じだ。この
	城は、近鉄が「伏見桃山キャッスルランド」という遊園地を運営していた時の目玉だった。一民間企業がこれだけの城を作れ
	るとは恐れ入ってしまう。もう40年になるというから、まだまだ日本の経済力が上向きだった時代の産物だ。今、これを作
	れる企業はおそらくないだろう。数十億はかかるに違いない。
	遊園地は数年前に幕を閉じたが、この城は伏見のシンボルとして残された。それにしても近鉄は、こうやって造ったものを最
	後には地元自治体に寄贈して終わっている。玉出の古墳群を見に行ったときも、同じようなケースがあった。



前列の三人、大隈君に私と橋爪君は昭和25年生まれで同年である。今年還暦を迎える。私は来月だが二人はもうちゃんちゃんこだ。









美男美女には赤いもみじが良く似合う。

	
	「丹波橋駅」周辺には飲み屋さんがなかったので、探して歩き、とうとう駅一つ歩いてしまった。桃山御陵駅の近くにあった
	「餃子の眠眠(みんみん)」で反省会。河内さんは、二度も頼んだ酢豚を一人で食ってしまっていた。アメリカ人も「Sweat 
	Pork & Souer」という呼び名で酢豚の好きな人が多い。





	
	 今回は、私にとっては主として紅葉が目的の散策だったのだが、期待した城南宮・鳥羽離宮跡には 期待を裏切られた。しか
	し伏見桃山城では見事な紅葉に出会えて、まずますの成果だった。
	今回のエリアの、歴史上の TOPICSといえば、「院政」と「鳥羽伏見の戦い」である。「院政」は、天皇史上まれにみる「天
	皇不在」の政治であって、皇室の無秩序と混沌を絵に描いたような、いわば汚点 の時代でもある。
	白河上皇の無軌道な吝嗇によって、天皇家は他時代に例を見ないような混乱の時代を迎えるが、それはまた武家社会の台頭を
	もたらす契機にもなった。何度も、天皇家も巻き込んで、藤原家などの貴族、源氏・平家の初期武士集団などが、二つに分か
	れて争う時代を迎える。それは武士集団の力を蓄え、やがて鎌倉・戦国という武士中心の社会への足がかりともなったのであ
	る。

	その天皇家が、武士の棟梁である徳川家と、これまた武士の力を借りておお戦さを行ったのが鳥羽伏見の戦いである。中世・
	近世という違いはあるが、何か図式は似ているような気がしないでもない。しかしその大きな違いは、武士の崩壊である。
	当時世界で唯一と言っていい「庶民しかいない国」アメリカの存在や、「西洋」がもたらす多くの革新的な物や考え方が日本
	へ入ってきていたからこそ、武士を頂点とする封建社会は崩れ去るしかなかったわけだし、絶対の存在であった士(さむらい)
	の権威失墜は、庶民にも大いなる希望と、やがて来る新しい時代の予感を抱かせたに違いない。


	皆さん、お疲れ様でした。12月8日は忘年会です。お忘れなく。










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