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歴史倶楽部例会 第157回例会

メスリ山古墳







	メスリ山古墳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。

	所在地 		奈良県桜井市大字高田字メスリ 
	形状 		前方後円墳 
	規模 		全長224m、高さ23m(後円部) 
	築造年代 	古墳時代前期(4世紀初頭) 
	埋葬施設 	竪穴式石室、木棺 
	出土品 		三角縁神獣鏡、鉄弓などの鉄製品、銅鏃、碧玉管玉、埴輪など多数 
	史跡指定 	国(1980年3月14日) 

	メスリ山古墳(めすりやまこふん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の前方後円墳である。この古墳は、磐余の地に
	接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳(外山(とび)茶臼山古墳ともいう)らと共に鳥見山古墳群に属する。特徴的なのは、
	埋葬施設の副石室がまるで遺品庫の様相を呈していることである。箸墓古墳の方が、年代的に先行する。別称は鉢巻山古墳、東出
	塚古墳とか呼ばれる。規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。

	墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であ
	ると考えられる(西藤(1991) 83-84ページ)。1950年(昭和25年)盗掘が確認され、1959年(昭和34年)に発掘調査が実施された。
	その結果、1980年(昭和55年)3月14日に史跡に指定された。
	墳丘長224メートル(復元すると250メートルとする説もある)。後円部は3段築成で径128メートル・高さ19メートル、各段に円筒
	埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石がある。円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二
	列の埴輪の間隔をとっている。
	後円部の頂に竹垣を巡らしたように埴輪[1]の囲いがしてある箇所は、長辺約11.3メートル、短辺約4.8メートル、想定された高さ
	1メートルを下らない長方形の壇がある。直径1メートルもの円筒埴輪は方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。
	前方部は二段築成で幅80メートル・高さ8メートル。埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在する。陪墳群は見られない。
	前方部を西に向けて立地する。器台型埴輪は、高さ2.4メートル、径1.3メートルで日本最大である。朝顔形(円筒埴輪の上に高杯
	形埴輪を載せている)埴輪も出土している。
	後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室(長さ約8.06メートル、幅約1.18メートル、高さ1.76メートル、8石の天井石で覆われてい
	る。)にあたる竪穴式石室がある。盗掘によりほとんど遺物を残していない。
	主石室の横にあった副石室は、長さ6メートル、幅70センチメートル、高さ60〜70センチメートルで盗掘を免れている。また、古墳
	時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部で合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納
	されていて、格納庫、遺品庫であったと考えられる。

	奈良県の前期古墳の埋納品の一端がしのばれる。 主石室は、遺体を埋葬し、玉石製品では翡翠の勾玉、碧玉の管玉、貝輪を真似た
	石製の腕輪類、ミニチュア化した石製の椅子、櫛、合子などを納めた。盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語ってい
	る。出土した遺物は、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧(いしくろ)・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製
	合子(ごうす)などと玉類・刀剣などである。
	副石室は、副葬品を納め、212本の茎式鉄矛、これらの鉄矛は、約半数ずつ石室の両端に鋒(きつさき)を向け合った形になってい
	た。いずれも長柄をつけていたと想像される。集団戦に用いられる武器である。鉄剣形の槍先にした鉄矛は、朝鮮半島南部や北九
	州でも出土していて、当時の武器の中心になっていた。この武器は日本列島で大流行し、日本でも鍛造技術が駆使されたことは間
	違いない。236本の銅鏃、50本の石鏃、鉄弓1本(長さ182センチメートル、弦も鉄製)、鉄製矢5本(長さ80センチメートル)、漆
	塗り盾。鉄弓や鉄矢は、実用性ではなく、武器本来の機能である威嚇用である。木製の弓もあったであろうと思われる。鉄剣、鉄
	刀それぞれ1本。さらに、斧(鉄斧14)、手鎌(19)、鑿、やりがんな(51)、錐、刀子、鋸などの農耕具。玉状に似た石製品。

	<脚注>
	1. 106本の埴輪、うち8本が巨大埴輪、A-68号が巨大

	

	上記の復元イラストによると、内側の埴輪列は、南・北面に各12本、東面に23本、西面に22本、合計69本が並んで埋めら
	れ、東西6.7m、南北13.3mの区画を構成していたという。そのうち石室の主軸線上にあった2本が特殊大型円筒埴輪であ
	る。一方、外側の埴輪列は、北面に23本、南面に20本、東・西両面にともに32本、合計106本が建てられていた。また内
	側と外側の埴輪列の間には、大型円筒埴輪と高坏形埴輪が配されていた。これらの石室の上に並べられた円筒埴輪の列は、「従来
	の埴輪出土例中の圧巻で、見事な配列に樹立され、その埴輪の内容は他に例をみない」と、報告書は述べている。
	これらの埴輪は、古墳の後円部の頂上の中央に位置する長方形の区画の周りに2重に巡らしてあった。その区画は石垣で囲まれ、
	その下に竪穴式石室の埋葬施設が埋まっていた。
	メスリ山古墳出土の埴輪は、直径70〜80cmの大型円形埴輪、直径が50cm前後の円筒埴輪、および高坏形埴輪であり、形
	象埴輪はない。石室主軸線上に置かれた2本は直径が96cmと81cmと特に巨大である。大型円筒埴輪と、高坏形埴輪をのせ
	る円筒埴輪とは、上部の縁が器台の形をしていて、有段口縁埴輪と呼ばれている。このタイプのものは、奈良県の西殿塚古墳、新
	山古墳、および京都府の元稲荷山古墳から出土している。


	<参考文献>
	・西藤清秀/文化庁文化財保護部史跡研究会監修 『メスリ山古墳/図説 日本の史跡 第3巻 原始3』 同朋舎出版、
	 1991年。ISBN 978-4-8104-0926-0。
	・千賀 久/「ヤマトの王墓」桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」2008年8月20日発行 
	<このHPに記載の発掘写真、図等は、全て上記参考文献から転載させていただいた。記して謝意を表したい。>








彼岸花、いわし雲と、秋の代名詞のような光景の中を、南側からメスリの集落へ入ってゆく。





古墳の後円部の麓に八坂神社が建てられている。ココで小休止にする。






	八坂神社は、京都の祇園にある「素戔嗚尊」を祀った神社が有名だが、ここの八坂神社がどういう由緒なのかは判らない。そもそ
	もこのメスリなどという名前も一体どこからきているのか。この集落がメスリという名前だから古墳もメスリ山古墳と名付けられ
	ているが、ホケノ山など奈良にはカタカナ地名の、由緒を理解できない名前が多い。






	この神社の、いわば裏山が古墳の墳頂である。一応、古墳の主に敬意を表してお参りしておく。ウィキペディアの解説にもあるよ
	うに、ここは偉大な盟主を葬った古墳である。その副葬品は、「大和地方に古墳は山と(大和?)多けれど、メスリにかなう古墳
	無し」と言われるほど、壮大である。とくに巨大な円筒埴輪がとりかこんでいた石室は、我が国では他に例を見ない。またさまざ
	まな石製品や鉄剣など、大王級の古墳なのであるが、被葬者の伝承や記録は一切無い。










	桜井市の南部地域は、古代には磐余(いわれ)と呼ばれていた。そこに築かれているメスリ山古墳は、墳長224mを誇る前方後
	円墳である。後円部の頂きから多数の大型円筒埴輪が発見されたことで有名である。

	メスリ山古墳は、後円部が3段、前方部が2段で築成されている。その規模は茶臼山古墳より若干大きい。全長は推定復元値で2
	24m、後円部は径が128m、高さが19m、前方部は幅が80m、高さが8mと考えられている。この古墳も茶臼山古墳同様
	前方部が広がらない柄鏡形の墳形をしている。墳丘の斜面は人頭大からこぶし大の葺石が葺かれ、後円部の頂上には、埋葬施設を
	囲むように円筒埴輪の方形区画がが築かれていた。桜井市が20年前に行った調査では、墳丘の裾から約15m北側で葺石の列が
	見つかっていて、墳丘の範囲はさらに拡大すると想定されている。 




	メスリ山から1.5kmほど東北にある桜井茶臼山の発掘調査は、昭和24年(1949)に第一次調査、翌年に第二次調査が行われ、昭
	和47年(1972)には墳丘の範囲確認調査が行われて、翌昭和48年に墳丘と裾部が国の史跡に指定された。一方、メスリ山古墳は、
	昭和34年(1959)の暮れから翌年の1月にかけて第一次調査が行われている。後円部中央の円筒埴輪列と副室が発掘されたのは、
	昭和35年(1960)に行われた第二次調査のときである。その後も昭和38年(1963)に第三次調査が実施され、昭和55年(1980)
	に国史跡に指定された。
	これらの発掘調査で出土した遺品から、茶臼山の築造時期は4世紀中葉、メスリ山古墳は4世紀後半と推定された。しかも墳丘の
	柄鏡(えかがみ)型やその段築造が共通していることから、茶臼山古墳からメスリ山古墳は系譜的につながり、それぞれの被葬者
	は共通の基盤のもとで擁立された人物と想定されている。 








	メスリ山古墳は、主室と副室という2つの埋葬施設を持っていた。上右の、錦織さんが立っている足の下が副室だろうと思われる。
	メスリ山古墳の主室は盗掘されていたが、それでも玉・石製品と鉄製武器、鏡片が出土した。これらの出土品も橿考研の博物館に
	展示されている。しかし、幸いなことに、この古墳の副室は盗掘を免れたため、夥しい数の武具を中心とする遺物を発掘すること
	ができた。それらの遺物は、鉄製品、石製品など、他には例を見ないようなものが多くあった。
 












メスリ山古墳の両古墳から出土した品々は、古代王権の権威の高さと権力の強さをまざまざと見せつけてくれる。



	
	副室の一番下には、柄に黒漆を塗った槍が、槍先を南北交互に向けて積み重ねられていた。その数212本。柄の木部分は腐って
	いたが、鉄の槍先はすべて残っていた。その上に鉄製の弓矢、鉄刀剣、農耕具、石製品、さらに銅鏃と石製鏃を装着した矢が群ご
	とにまとめておいてあった。槍先に使う銅鏃も236本出土している。極めて良好な保存状態である。




	鉄の弓は全長が182cm、5本の矢は矢羽根まですべて鉄製でいずれも長さ80cm。もとより実用ではなく、儀仗に用いられ
	たものだろう。212本という槍の数には驚かされる。鉄製の弓など他の古墳ではあまり例がない。というか、私も相当古墳とそ
	の副葬品を見てきたが、こんなものは見たことが無い。









副室の天井石がむき出しになっていて、これはココが天井だとわかるようにわざと放置してあるもののようだ。



錦織さんが立つ副室の左側、ちょうど麦わら帽子をかぶった郭公さんの後ろが主室跡で、ここに夥しい数の円筒埴輪が並んでいたのだ。



















古墳の廻りにはクリの木が多く、落ちたばかりのクリが山ほどあってみんなで時ならぬクリ拾い。クリご飯が旨かった。










	メスリ山古墳からの出土品は、その一部が橿原考古学研究所(=橿考研)付属博物館に常時展示されているが、全てが一括して国
	の重要文化財に指定されている。
	メスリ山古墳の北に位置する桜井茶臼山古墳は前方後円墳で、墳長は同様に200mもある。この2つの巨大古墳は、茶臼山古墳
	が4世紀中頃に築かれ、それに続いてメスリ山古墳が4世紀後半に築造されたとされている。 
	橿考研はどちらも学術的な発掘調査を行なっていて、その出土品を保存している。茶臼山古墳出土の玉杖やメスリ山古墳の頂上に
	並べられた大型埴輪群、未盗掘の副室に納められていた各種の石製品と夥しい鉄製武器は、いずれも4世紀代の王権の権威を物語
	るにふさわしい品々とされる。 




	奈良教育大学の脇田宗孝教授の製作指揮で、1983年に奈良芸術短期大学の学生チームが復元した巨大埴輪。復元作業では古代
	の製作方法を忠実に踏襲したとのことだが、巨大な円筒埴輪を作り上げるのは、現代でも難しい。2本製作して、1本は日乾しレ
	ンガで作った釜を壊したとき、無惨にもヒビ入っていたそうだ。古代人はメスリ山古墳の被葬者のために何十本という埴輪を製作
	したのだ。 










	桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳
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	両古墳の北に、纒向(まきむく)・柳本(やなぎもと)・大和(おおやまと)と命名された古墳群が南からこの順で続いて
	いる。これらの古墳群の中心には、盟主的な巨大前方後円墳がそれぞれ中小の前方後円墳を従えている。例えば、纒向古墳
	群には全長278mの箸墓古墳がある。柳本古墳群には、全長300mの渋谷向山古墳(景行天皇陵)と全長240mの行燈
	山古墳(崇神天皇陵)が存在する。さらに大和古墳群には、全長220mの西殿塚古墳がある。 

	これらの巨大前方後円墳は、初期のヤマト王権を築き挙げた大王墓と考えられている。だが、桜井茶臼山古墳にしてもメス
	リ山古墳にしても、これらの古墳群とは少し距離をおいて、それぞれ単独墳として築かれている。したがって、両古墳を大
	王墓の系列に含めるかどうかで、研究者の解釈は必ずしも統一されていない。以下にいくつかの説を紹介しよう。 

	まず、奈良盆地東南部の前期大型古墳の立地・墳形・周濠形態・副葬品の組み合わせなどから総合的に判断して、両古墳も
	初期ヤマト政権の盟主墓と見なし、大王墓の系列に含める説がある。国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏などは、箸墓→西
	殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に大王墓が築かれたと想定しておられる。この説を支持する研究者は多い。 

	その一方で、大型古墳の系列が一系列でない可能性を指摘する説もある。二上山博物館館長の石野博信氏は土師器壺や特殊
	埴輪の存在に注目して、箸墓→西殿塚・茶臼山→渋谷向山・メスリ山→行燈山という流れを想定し、茶臼山・メスリ山古墳
	の被葬者が大王と同時に存在し、大王としての機能を分担した可能性を想定しておられる。 

	奈良女子大学大学院教授の広瀬和雄氏も茶臼山・メスリ山古墳も大王墓から除外する立場に立っておられる。その理由とし
	て、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠をめぐらさないこと、群を構成しないこと、などを上げておられ
	る。 

	堺女子短期大学の塚口義信氏は、茶臼山・メスリ山古墳の被葬者として、安倍氏の祖先との伝承があるオホヒコとタケヌナ
	カハワケを候補としてあげておられる。この地域に天皇陵造営の伝承が伝わっていないことがその理由で、むしろ桜井市を
	本拠地とした安倍氏との関連を重視した上での想定である。 

	今から1700年前に生まれ、波乱に満ちた人生を生き、そしてこの地を奥津城として永久の眠りについた人物は、はたし
	てどのような男だっただろうか。ヤマト王権の系譜を継いだ大王だったのか、それとも磐余の地を根拠とした大豪族の首長
	だったのか。現在のところ、両古墳からの出土品はまだ具体的なことを何も語ってくれない。 

	(*)橿考研付属博物館作成の特別展図録第64冊から転記 
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